コンヒューズ展について 


昌人_人

アートコンヒューズ展会場
アートコンヒューズ展会場

こうして「正式」に文章を書けるのは初めてなので、思い切って自分の文体を崩さず書こうと思う。
まず、今回は日本美術会が開催した、第二回 ART CONFUSE 展についての全体のまとめを、書かせてもらえることとなった(以下、コンヒューズ展と呼ぶ)。第二回目である今回のコンヒューズ展は、僕(昌人_人)も参加させてもらった。去年の第一回展にも興味があったのだが、事情により出品できず、鑑賞にも行かなかった。なので、今回が初参加ということになる。僕がまず第一に感じた印象は、「自由な空間」である、表現的にも、時間的にも緩やかな流れの場所だった。僕の作品についての"あれこれ"は、ここには載せない事として、さっそく今回のコンヒューズ展を探ってみよう。
この展覧会は、一般的なグループ展とは、少し違う。グループ展とは、一般的には同じ方向性を持った同志の集まりや、何か企画的に目標を掲げて行ったり、色々なジャンルを混ぜてコラボレーションするイベント的なものがメインである。しかしこのコンヒューズ展は、潜在的な面での共通点を持ちはしているが(例えば日本美術会のアンデパンダン展の過去出品者など)、全体としては、全く知らない人同士が集まって作る「グループ展」である。それと因果関係があるかはわからないが、画風も、素材も、表現方法も、目的も、性別も年齢も、バラバラだ。厳しい評論家の方は、「こんなの展覧会と呼べるレベルではない!!」と激怒しそうだが、僕は、この「バラバラ」感が、たまらなくいい「味」を出している、と思った。
そもそも、バラバラの、何がいけないのであろう。芸術表現は、なにも一つにまとめる必要などないのだ。現代日本は、自由な表現を発信する場がどんどん少なくなっている。法律の乱立や、商業指向の風潮、公共施設の統廃合など、理由は様々である。「インターネットが表現の場を広めた」、と、僕は思えない。本当の表現は、表現者と鑑賞者の内的な「対話」である。そして、個人的な芸術発想から始まり、表現は、やがて宇宙の根本的な神秘や人間の根源的な内面をえぐり出し、命や、存在の歴史、つまり、「今さっき僕は生まれて、もうすぐ僕は死ぬ」、という謎に<宣戦布告>するのである。哲学は、それに言語で答える。しかし表現者もまた、体全身でぶつかり、発信していけるのである。そしてそれが他者になんらかの影響を与えたのなら、まさに芸術なのである。
今回は、個人個人が、個人の、あるいは他者の「気持ち」や「訴え」を平面、または立体であらわした。僕も含め、まだまだ、芸術への道は遠い。何人か、到達している人も、見かけた。大げさに言うと、今後、コンヒューズ展の仲間同士が互いに刺激を与え、たったひとつのペンが、世界を変えうることができる、と証明する日は、間もなく、到来するだろう。