歴史に耐える美術運動


最近二つの展示会を見た。一つは「浅川兄弟の心と眼-朝鮮時代の美」もう一つは「柳宗悦展-暮らしへの眼差し」だった。前者は浅川巧生誕120年記念とあり、後者は柳没後五十年・日本民芸館開館七十五周年と銘打っての展示会だった。いずれも朝鮮時代の美への開眼から始まるという点で共通している。知る人は浅川兄弟と柳が大日本帝国が統治していた朝鮮に、そこに在ったか、またはよく通って、その国の古い工芸の美を発見し、愛した三人であったこと、そしてその植民地時代にソウルに「朝鮮民族美術館」を開館した事実を重く受け止めることだろう。(浅川兄弟・・栃木県へ、柳・・鳥取・広島へ巡回中) 今から思えばそれほど困難など見いだせない事柄も、当時の帝国主義時代の軍事優先・国益重視の弱肉強食の恐ろしい時代にあっては、かなり際どい運動であったのだろう。結局、柳の「朝鮮の友に贈る書」とか「失われんとする|朝鮮建築のために」などの有名な文章は、そうした時代と愛する朝鮮との葛藤が書かせたものであっただろう。当時の偏見と差別意識と一攫千金の妄執に取りつかれた民衆のエネルギーの中に在って、ソウル白樺派というグループや朝鮮の工芸を愛した一群の人々の力関係はどの程度のものだったか、今や比較する何物も有しない時代に在っては、この素晴らしい二つの文芸復興のような朝鮮美への、当時の知者であり美の愛好者の収集した、コレクションや文章や絵などに答えを見出すことで検証することになるのだろう。  ヨーロッパにおけるウイリアム・モリスや後のドイツの「バウ・ハウス」の美術運動の 古い生活の中から美を発見し、工業化の中でモダンデザインとして再生していくような形を、この浅川兄弟や柳もその当初の朝鮮美の発見でスタートし、民藝運動のなかで陶芸や棟方版画や柳宗理の工業デザインへ動いてゆくわけであった。時代や国の制約の中で、それらは開花したが、今日、その足跡を検証される栄誉を、権力側からは何も無く、彼らの美術運動にこそ与えられるのだろう、そう確信した。(記・K)