山下 二美子展――玄黄 天の色・地の色――


坪井功次

「雪のたより・断章」 162×90cm
「雪のたより・断章」 162×90cm

山下 二美子展――玄黄 天の色・地の色――
2010年10月19日~24日
奈良市  ア―トスペ―ス三条 


 それは、壮大なシンフォニ―を聞いた様な余韻が心に残る展覧会だった。あれは何という曲だろう。芥川でもない、黛ではない、武満でもない。朝鮮のユン・イサン(1917年から95年に生き、日本で作曲を学ぶが反日運動に加わり投獄、その後ドイツでの亡命生活を余儀なくされた作曲家)が近い様に思う。それでいて、作品は日本を色濃く感じさせる。水墨画や日本画ということではない。古くても、新しくても残っている根っこの様な精神的なもの。日本美術会では、彼女について旧知の方も多く、よく知られた存在だ。私も作品と名前は知っているが、言葉を交わす様になったのは、ごく最近のことで詳しいことは何も知らない。だから、思いつくままに書くが、誤解や失礼は許されたい。

 

個展は200号大の作品を中心に圧倒的な力で観る者に迫ってくる。とりわけ、あの赤は塗り込めば塗り込むほど、重ねれば重なるほど、黒く変化していく様に感じられる。その赤は黒と織り成す事で、我々が暮らしのなかで受け継いで来た、奥深く流れる日本人としての何かを、そして、それは表日本より裏日本を強く感じさせる。重く積もった雪を掘り起せば、あの赤と黒が混じり合った土が表われるのでは、日が沈む間際の空はあんな色になるのでは、と想像する。

 

全作品を通じて心に残るのは命、それも消えていく命である。裏日本、はかない命、何かのバランスが崩れれば演歌になる危うさがある。しかし、直線や円弧で仕切られた構図は律として、情感過多にならず甘えを許さない。「いちにち」は赤と黒の色面が枡形に仕切られ、リズム感がある。所々、枡の位置がずれて人影が見え隠れするが、表情は沈んでいる。赤と黒の中、冷たく薄い青空に削られる様に頭巾の少女がいる。皆が皆消えてしまいそうで、画面を区切るように葱と思える唯一の命さえも、左から右に移動してやがては消えてしまう。有機物も無機物も燃えて消える様相は、フラッシュバックして心に焼き付く。

 

「少女がある朝焼け」でも、先の防空頭巾の少女が、両側の美しく淡い色彩に挟まれつつ、やがては暗闇の中へ消えいく。何事もない平穏な日常は過去の出来事の上に成る事を我々に思い起こさせる。「八月」は、そんな過去の戦火を描きだす。ここには、あの赤い色は少ない。人も物も黒い闇に包まれて、かすかに存在した形跡が伺える。それは、燃え盛る炎より、もっと眩しい光の結果で在ることを知る。

 

「玄黄・眠る子」には、あの戦火の赤は見られない。優しく暖色が包み込む中に眠る少女の描線がある。夢でも見ているのだろうか。起こさないように、静かに通り過ぎようとしたとき、不案感がよぎった。この少女は、もう眼を覚まさないのではないだろうか。現実ではない世界で永遠に眠っている。

 

「ON THE BLUE」縦長キャンバス6枚の連作は、上下に基調の青が流れる中で眠る子供の顔が様々に連なる。どうしようもない時間の流れに、消えることの無い記憶と想いを窺い知る。

 

「雪のたより」「雪のたより・断章」共に故郷への想いだろうか。青と黒の色面が重なり布・写真・陶片などの断片がコラ―ジュされている。それは故郷に残した記憶の断片であるかのように、寒く重い風土に包まれ、黒い空間には粉雪が舞う。こうした大作に小品を含めた作品が並ぶ。それらでさえ、赤黒い色が交差し重い。赤色は見る人の心を燃やすことはない。美しいが心にのしかかってくる。時折見える具象的な事物も、数日で消えるはかなさを見せて深い色彩ゆえに際立っている。

 

縦長キャンバスが5枚連なる「玄黄・漂流」には、それまでの重苦しい色彩は無い。点在する青や黄が赤色に明るく響き、乾いた淋しさを感じる。ロッカ―とも棺とも見える白い枠内に、それぞれにギタ―や衣類が置かれているが、持ち主はもう居ないのだろう。左の一枚には空になった枠だけが残る。かたずけたのは誰か。作者自身が、その想いをかたずけたのだろう。関西に移り、奈良という場所に居を構えることで、心に整理を付けたのだろう。

 

身の回りを題材にした「ぼうず池」、小品の「こもりぬ(隠沼)」「こもりぬ 夕景」「秋篠」などの作品が見れたことは、身近な友人達の喜びと安堵になっている。個展の挨拶の一文がある。[これをきっかけとして「奈良で描く」ことが「奈良を描きたい」となっています。これまでのテ―マをさらにふくらませ、深めて、制作に取り組みたいとの思いを新たにしています。]会場の彼女の姿には堂々とした中に初初しさがあった。色彩が奏でる響きを感じながら、新たにふくらむシンフォニ―を期待して会場を後にした。