工芸美術と絵画との関係・・・彫金家の経験的私見


岡部 昭

岡部 昭 氏

工芸という言葉は多岐に使われているが、手芸や産業的工芸品に対する、工芸美術とは以下のように考える。(様々な工芸が美術に発展してゆく目安として)
(a)作品に視覚的空間表現と時間的感覚(時空表現)が意識されているもの、                      
(b)『形』を追求するとき、輪郭線だけに囚われず、たとえ小さな作品でも、大きさ、重さ、軽さが形と色で追求されているもの・・何故なら、観客は作品か ら、これらの実感を感じた時、それに関わる実体験や記憶を引き出しながら更に自分の想像力を重ねながら作品の隅々まで読み取ろうとします(鑑賞)

1)日本の工芸・・日本には様々な素材を用いた多様な工芸があり、木工、竹細工漆、陶磁器、織物、染色、鍛金、彫金、鋳金、紙、革等と生活用具から美術作品まで、作り続けて来た長い歴史がある。これは日本が島国の為、異民族の侵略を受けることなく、あるものは縄文時代からの歴史を重ね、7世紀ころ和紙や金属工芸が多分朝鮮の百済から伝来し、染色、織物、陶器にも高度な技術が伝えられ、美術として内容を高めてからでも1300年以上もの歴史が積み重ねられてきた。現在の日本では地方独自の地場産業を形成し、独自のデザインを生み、幅広い民族的文化を形成し、また優れた工芸美術家を育ててきた。
工人は生活用具を作りながら、使い易い形や色を追及する長い歴史の中で、その形と色に対する美意識が生まれてくる。紙に鉛筆で描いた自由な形を工芸の素材と技術で再現することはかなり難しい。絵画や彫刻に現れる形と色は作者の周りの実在が源であるが、工芸に現れる形や色はその素材と技術から作られるもので、工芸に関わる手芸家や美術家は、常に素材と相談しながら、新しい技法を発見し、より新しく美しい形や色を創造する。その中から工芸家独特のデザイン感覚が生まれ、絵画にも影響を及ぼす。源氏物語絵巻では工芸家のデザイン感覚をこめた衣装を描くなかで、絵師は明らかに工芸に影響されている。              

2)絵画の時空表現(時間と3次元空間)と工芸・・・生活用具を作る工芸の生い立ちは絵画とは違うため、当初、時空表現の動機も意識も無いのは当然である。絵画は当初宗教の教義の視覚化として表れ、願いを込めて神仏と宇宙的空間が絵描かれた。平安時代の絵巻物でも、題材は宗教から人間に拡げ、その後も絵画は現在まで時空表現を進化させて来た。8世紀頃作られた彫金の代表作品である法隆寺の灌頂幡(高さ5m)は、他の工芸とは違って、仏教の世界の夢を形作っている為か、形の周りの空間部分を切り取り穴を明け(透かし彫り)て不十分ながら空間表現をしているが、工芸が題材に花鳥風月をとりこみ、空間表現をするようになるのは中世以降になる。

3)中世以降の工芸と絵画・・・ルネッサンスの拠点の自由都市であったフィレンツエと同時期、同じく海外貿易で発展した大阪堺も堀を巡らし傭兵を雇い選挙制度を持つ自由都市であった。ヨ-ロッパではその後、画材が持つ幅広い可能性を持って写実へ進む。一方京都では、応仁の乱後、市民達は荒廃した京都を復興したが、この力はこの自由への憧れであり、絵画と耀くようなデザインの工芸との交流が始まり洛中洛外図や西陣織り、花鳥風月という風景画を題材にした友禅染めや漆器と文化の華を咲かせた。堺のシンボル千の利久を殺した武士の権力は堺も潰したが、この激動のなか、等伯、宗達、光琳、狩野派の画家達の仕事と工芸の深い関係がヨーロッパと違うところだ。
 徳川期、ヨーロッパに大きな影響を与えた木版画の形と色の表現主義は木に彫って原版を作ることで生まれる必然的な結果である。版画の原作者は一筆画のようには出来ないが、出来るだけそれに近ずくよう版木と相談して割り切ったあと、あの素晴らしい形と色の結果を発見し、身に付けたのだと思う。このデザイン感覚は画家が工芸的限界から発見した成果と考える。徳川末期木版画が写実に傾斜してくると、その作品は誠に惨めになる。その写生した一つ一つの形は木との相談を無視すればする程その作品は写生でもなく、デサイン的魅力もなく哀れそのものだ。そのヨーロッパの長い歴史は、写実は見たまま描くのではなくリアリテイーの根幹というべき『空間表現とその為の構成の論理』を構築してきたが、そこまで洞察できなかった悲しさが見えてくる。

4)現代の工芸美術・・明治になり、欧米崇拝のもと、新しい時代を目指す人達にとって写実への魅力と憧れは当然だが、その写生を徹底しても写実に到らない苦しみの中、第一次世界大戦後、日本の浮世絵や琳派に触発されたアール・ヌーボーが日本の扉を叩いたのだ。大正末から昭和にかけて、アール・ヌーボーに影響された若い工芸家達の美術集団が出来はじめ、やがて在野、官展の美術団体にも工芸部が作られ、また戦後、美術団体も出来てきた。日本の美術界に工芸美術が安土桃山という表現主義の新しい衣を着て現れたのである。第二次世界大戦終了後、今度はフランスから、アンフォルメルという抽象主義の騎士マチューの200号300号の大作が銀座のデパートに並び日本画壇に激震が走ったが、工芸美術家達も大きな影響を受けた。現在の工芸美術はデザイン主義、写実、写生、表現的形態、抽象形態、微細な技の展開が複雑に混交して展開しているが、抽象形態が市民権をえて、多分工芸家達は形の本質に迫れる力を身に付ける為のデッサンの苦しみから解き放たれる道を見つけたのでしょうか?フォートリエの抽象は総ての形を美しい色の点に置き換えたが、広い広い時空表現は決して手放してはいないのだが。総ての美術が民衆の為になるこの21世紀、工芸美術にとって『時空表現』は最も大切なものになるのではないか。
戦後日本は主要先進工業国になり、国中隅々まで高い生産性の追求が求められ、手工業的な地場産業は一流企業に変身し損なへば、産業として、衰退の道しかなく、若い工芸美術家の多くは美術大学出身者である。長い歴史の上に築かれた日本の工芸は今衰退する地場産業と工芸美術が乖離しながら歴史的な危機に直面している。