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永井潔の芸術論

上野 一郎

 永井潔さんの芸術論を分かりやすく書いて欲しいとの要望だが、解説して行くと長文になるので要点を列挙する。そこでは永井さん自身が付けた説明が幾つも省かれ、かえって分かりにくくなるし、彼のユーモアある語り口も消える。この短所・デメリットがあっても永井理論を説明する役割が私に向けられたので、1形象的認識、2美意識、3美的価値、4芸術、5表現の項目に分けて記す。しかし私の要約よりも、永井さんの著書『美と芸術の理論』は極めて平易に分かりやすく書かれているので、それを読まれることを薦めます。


1 形象的認識

 

 A 芸術と形象的認識

 芸術は形象的認識である。その意味は、単に形象の認識ではなく認識の形象による表現でもなく、形象による認識だということである。例えば植物の形状を植物図解で認識するが、この図は芸術とはよべない。これに対して北斎の赤富士は富士の形状を正確に表したものではなく、形象を手段として現実を人間中心的に認識したものです。芸術的真実は人の心をうごかさなければ成立しない。

 この〈芸術は形象的認識だ〉との見解は、芸術は表現であって認識ではないとする説の批判から発したのである。というのは、表現とは何ものかを表現することで、その何ものかが内容的要素なのであり、芸術における表現は芸術独自な内容の表現であり、表現は芸術においては形式的なモメントである。「この小説は現代社会をよく表現している」とは作者が現実を正しく認識しているという意味であり、そこで認識活動が行われていたことである。

 芸術にとっては、ただそこにみられている対象現実が内容なのではなく、それに対する(意識上の)人間的加工が内容なのである。人間的対象把握の一方法であるところの形象的認識も必ずなんらかの手段を通じてその手段に制約された認識であるところに特徴があるのである。

 

 B 形象の性質

 そもそも形象がどうのように出来てきたのかは、ヒトが労働によって人間として発達・発展していく過程から説明される。人間は道具を製作する中で、対象のカタチ(象)と道具のカタチ(形)を区別する様になる。そして形を手段として象を描くこと、すなわち形象の創造が可能になった。形象とは、形を道具にして造った像である。また象(五官による表象)とは具体的な存在物のかたちであっていわゆる具象的なかたちであり、形は道具のかたちであり、抽象的なかたちである。形による象の把握であるところの形象は、抽象的であると同時に具象的であるところの高次なかたちである。しかし形象はまだ芸術ではなく、形象の美もまだ芸術の美ではない。普遍的な意味における美意識が成立するのもまだまだずっと後のことである。

 

 C 形象と想像力

 労働はその過程でいろいろなちがったものを実践的に結びつけるから、別々のもののあいだにつながりを発見する類推能力をそだてる。このように労働と道具が形への関心や想像力を育てた。道具は過去と未来を結びつけ、記憶から想像をよびだす。人間には、実体のない像であるイメージを自由に思い浮かべる準備がしだいにととのっていく。そして空想を形成する能力もできて、空想的形象は人間生活に予見力を開発する。人間を現前のせまい日常的欲求から解放し、人間の欲求をさらに大きな規模へとかり立てるのである。これが芸術を発生させていく。さらに想像力の必要は、人間社会では交信や表現活動が求められることにも依る。他人の心は見えないが、想像力を働かせるこの心の交流こそが想像の確立を決定する。そして想像や芸術的ファンタジーこそが形象的認識なのであり、現実の形象的反映である。


2 美意識

 

 A 道具製作と美意識

 道具は労働による造形物であり、その製作は事物の外形についての人間の関心を一段と強く飛躍させた。けずったりみがいたりの苦心をつうじて、形というものがどんなに重要かを人はさとった。同じ物質でも形を変えるだけでまるで別物みたいに便利になるのだから、形はたいせつだと感じないわけにはいかない。ものを見るときに、たんにそのものを見るだけでなく、その形に注意をはらう習慣が、こういうところからおこる。<かっこいい>とか<かっこわるい>とかの判断は、もとはといえば道具からはじまったのだろう。

 美的感情は先天的なものではなく、動物にはなく、人の道具製作の労働から発生した。この美的感情は、人間的愛情その他の感情と同じように認識の人間的形式の一つであり、美的感受性は形象的思惟の感情的側面である。それはいわば認識機能として働くので、形象的認識には感情的判断が溶け込んでいる。そして一方では形式への美の意識が、内容的な真の意識と分離しはじめるが、また他方では美の意識は外の対象への関心にはっきり介入され対象把握の感情になり、判断的な性格が強くなる。

 

 B 美意識の抽象性

 原始時代の壁画について考えると、道具と同じく造形物であっても直接の実用物でないところに形象を担う事物の重要な特徴がある。有用ゆえに美しいのでも機能的なゆえに美しいのでもなく、ただ対象が美しいがゆえに美しいと人が思いこむような感情ができあがってくる。そのような由来不明の肯定感になった時に美的感情は大体美的感情になったと言える。

 美意識は物を眺める時に形式を抽象する能力と言えるが、その自分の抽象能力があたかも眺められている形式の側に移ったように見なす感覚なのである。すなわち、美が美的感情を生むのではなく、美的感情がある種の形象を美だと思いこむ。意識は存在の反映であるが、反映では逆に見えることは普通である。(反映的認識では、走る電車の外の景色が飛んで行く様に逆に見えることは普通であり、これは倒叙とも言える。)まず造形美感が先に生まれ、自然美感はその後に生まれたのである。これは造形や芸術から美意識が生まれた経過の逆照射である。ともかく美意識から芸術が生まれるとする論は、原因と結果の置き換えである。人は自然を見て感動した時「まるで絵のように美しい」といい、絵を見て感動した時「まるでほんものそっくり」という。ここに美と芸術に関する本質論がきわめて素朴にのべられている。

 

 C 美意識の社会性

 美意識は全く人間生活に依存しているのであって、人間と共に永遠に、美意識は変動しつつ存在し続けるであろう。その相対性、変動性は人間生活の相対性、変動性に依存し、その普遍性や絶対性は人間生活の普遍性と絶対性に依存している。人間の美的感情に一定の共通性があるのは、人間生活が人類に共通であるからである。美は形式的な合目的性で主観的だが、美的判断には形式的判断の客観性や時代的社会的などの範囲に制約された一定の客観的妥当性がある。美意識はもともと芸術にもとづいて生まれた感覚だから、社会の美意識はただ社会の現実に規制されるだけでなく、社会の芸術によって大きく左右される。

 更に永井さんは創造と変革を目指す芸術家らしい次の指摘も行う。人間らしく生きるために美が必要だとすれば、現実生活の不完全さや醜さを批判する精神と結びついていなければ美意識とは呼べないだろう。今ある生活をそのまま承認しているような美意識なら、美意識なんかなくたってどうということはない。そんな美意識なんかなくても今ある生活はそのまま続くであろうから。美意識は現実の否定である。このことは大切なことだ。だがもし美がいつも現実離れして宙に浮いているものだとしたら、これもまた空しいことだ。現実性をもちえないような美なんて求めたってしょうがない。非現実の美だけを愛するような美意識は、今の現実を放りっぱなしにするだろう。美は手近な日常生活のなかにこそ見出されねばなるまい。そうでなければ生活にとって無意味である。美は現実の肯定である。このことも大切なことだ。現実の否定でありながら肯定であるような美の秘密は、<人間らしい生活>そのもののなかにある。人間的な生活は、たえず生活をあるがまでなく変えていくことである。人間とはあるがままでないことがあるがままなことなのだ。美の含む矛盾は人間生活の矛盾の反映である。


3 美的価値

 

 A 抽象的な価値の表現力

 原始時代の道具制作とその使用の中で、生活の必要に基づいた形が抽象される。その結果抽象された形そのものへの価値意識が生まれて来る。この道具の形には道具の使用価値を実際に生む機能があるだけでなく、道具を表現する機能もある。そして表現する機能の方は、道具の現実的使用価値から離れても独立的に働き続ける。鎌を例にとると、その形は切れそうな鎌だと使用機能を表現するが、役に立たなくなった鎌でもその形状は依然として鎌を表している。鎌も鍬も、ある農耕だけに役立つのではなく他のもろもろの農耕などに役立つことによって、道具であることができる。だから形がもっている表現機能は、使用価値の形ではなく形の使用価値であり、こうして物質の具体的内容から分離された抽象形式への特殊価値感が芽生える。

 労働によって抽象形が獲得された、表現手段としての抽象形こそが、形式による以外には満たせない特殊的価値を決定して行く。そして例えば言葉は抽象的な形であるが、社会の中で人間相互の連絡手段として使用されることこそが、抽象の担う表現性の価値を明白に示している。

 形の価値の独特な本質はその表現性にあるといえよう。色とか線もカタチと言え、この抽象体は表現の役に立つ。抽象形は造型能力一般を体現し、結晶させている。一般に抽象的な形が価値を感じさせる理由がここに生まれる。良さそうな平面形とか直線、絵の具のようにピュアな赤や青などが価値を感じさせ、それ自身で美しく思えるのは、それらが何か具体的事物や実用機能と直結しているからではなく、むしろ一切の実用的意味から切り離されているからである。またそれらの完全な抽象形を人間が造り出すには高度な技術が要求されるという想像が、<見事だ>という感じを招く。無価値な価値という不思議な形式美はまずはじめこのようにして生まれる。その秘められた価値の実体は人間自身の造形能力である。

 

 B 美のいわゆる無関心性、有用性と真実感

 形が自然の諸像を形象として構成するために使われるようになると、形の有用性はもはやはっきり認識手段としての有用性に転化する。認識手段としての有用性も結局は実生活上の有用性だが、人はそれをあたかも実用価値ではなく有用性では無いかのごとく思いこむにいたるのである。このような時点に至ってはじめて、かたちへの肯定感情は有用感とは区別される<美しい>という意味を備えてくるであろう。<かたちづくるよろこび>が<かたちを視るよろこび>に転化し、美的感情が生まれる。

 美は実用から最も遠いところに座っていると言えるだろう。しかも必要であり欲せられるものであるから奇妙である。美は不必要な必要である。それは余分な必要であり、余分そのものが必要と見なされることである。美は実利の否定であるような実利であり、無益な有用性である。有益性がナマに表面に出ていないところに美独特の有益性が生じるのである。

 価値については、また次のことが言える。人間が自分で造った形を自分のために使用するところに、形の中に人間が自分自身を味わう出発点がある。道具は目的でなく手段であるが、道具をつくる仕事は手段を目的に変える。目的のように見なされた手段が<形>であるといってよいだろう。手段はそのなかに人間の目的を結晶させているから、形を変えた人間性そのものであり、人間性の形なのだ。

 美意識という心は、先にも示したように社会的なものであるから、次のことも言える。形式の表現機能は心を表現しうるとき、最高に発揮される。だが表現技術がここまで昇りつめたとき、心を表現する技術は心を形成する技術に転化していくだろう。心が形として表現されるということは、心が社会の他の人びとの心と交わり、社会的に鍛えられることだからだ。美と善の交叉がここに生まれてくる。このように、社会の共同生活が美意識の特殊化に作用する契機が、人工的抽象形の社会的表現手段化にある。

 形式やイメージの価値は、それらが人生における真や善を表現し、真や善の感性的直感的探求手段になるとき、そのときはじめて真に充実した価値となる。芸術は形象から真実感をうけとるが、それは同時に形象が真実を表現する力への価値観をともなうことにあるだろう。芸術の与える感動は、内容についての真実感と形式についての美的感動と二つの感動の総合だといえる。美はもともと道具の形の真実感にもとづいて生まれたものだから、真実感こそ作品価値をささえる基礎である。


4 芸術

 

 A 芸術の起源  ミーメーシスと観賞

 感情は、表現的な情動であり、単に外に現れ出るだけでなく、他人につたえられることを要求する傾向性を含んでいる。しかし、それ自身は具象性ではないから他の何らかの物質的な象になぞらえて伝えるほか方法がない。だから感情は物質的現実の描写を要求せざるをえない。

 永井さんは芸術の起源をジェーン・ハリソン女史の説などを援用して、原始時代の模擬行動(ミーメーシス)に求めている。それは芸術の発生を呪術や宗教におく説に反論するためでもある。原始人の生活では、行った狩猟を伝えたり記念したりするために自然に狩りの真似行動が発生し、真似行動が集団的となると踊りとなりリズムが発生する。このもの真似踊りは、はじめはごく自然に、狩猟の動作をくりかえすことから惰性的に発生し復習的でもあるが、やがて狩りに出かける前にも予想的に行われるようになり、あらかじめ考えてからおこなう予行演習に変わることによって、踊りはいっそう確実に精神労働的性格をおびる。このような労働の模倣は、それ自体が独立的な創造へと転化し始めるのである。

 原始的ミーメーシスは、労働生活、科学、芸術などがまだ未分化な状態での人間活動であり形象創造活動であり、永井さんはここには人間の一切の精神文化の原点があるとする。そのために、ある人々には、芸術と科学が同一であるように思えたり、芸術が宗教からうまれるように思えたり、芸術が遊戯であるかのように思えたりするのであろうと言う。またミーメーシスの誕生が一切の精神文化の原点であったということの意味は、ミーメーシスの作り出す形象そのものが、一切の真理であるとともに、一切の人間的誤謬の源泉でもあったということである。動物的な直接的意識は、真理をもたぬかわりに誤りをももたない。真とは偽りの知である。模擬や虚構のないところに真僞の分岐は生じないのである。

 原始時代の単に自己表出的踊りやまじないの踊りや儀式の踊りとかはまだ芸術ではなく、見られるもの、鑑賞されるための踊りになったときに芸術になる。そこで踊りは単なる行動ではなくなり、イメージになる。歌をうたったり、絵を描いたりする場合でも、どういうふうに聞こえるか、どういうふうに見えるか、ということを芸術家はつねに考えざるをえない。芸術は制作・表現のみで成り立つものでなく、発信に対しての受信活動、読者・観客/鑑賞があって実現するものである。理解とは相手の表現を自分の表現活動に翻訳する、想像力を働かせたコミュニケーションである。芸術は鑑賞されることを目的にした形象である。

 また、かつての芸術が今日なお生き生きとしている芸術の永遠性と言われるは、歴史における鑑賞の発展に於いての再発見、再創造によるものである。このように芸術では、創造と鑑賞の相互関係を人類の共同作業で行っている。

 

 B芸術的イメージと人間

 芸術は元の実物ではなく仮象だが、意識を通しての間接的な反映であって、感情や意図とか想像や、素材や技法など様々な媒介を重層的に経た複雑な認識で表現である。芸術はイメージで、人間的なものである。音楽では人工的な音の中に高低や人生などを感じたり、美術では人工的な色の中にリンゴや人生を感じたりすることが、とりもなおさず思惟である。高低を意識しながら高低そのものではないところの音を駆使する実践や、リンゴを意識しながらリンゴそのものではないところの色を駆使する実践などが思惟と呼ばれる認識活動なのである。

 こうした認識や行為には快が生まれる。芸術は技術のたのしみを土台としているが、すでに認識のたのしみに変化したものである。技術の背後に人生を透視する形象創造なのである。動物における快が<自分自身を生産する>ことへの生命の自己肯定であるのと同じように、人間における美その他の快感情は人間的に<全世界を再生産する>ことの自己肯定なのである。人間の労働は本来的に創造であり、創造のよろこびこそ人間にのみ固有な快であり、人間は労働によってこうした快感自身をも新しく創造したのである。

 造型労働によって<対象を人間化する>客観的過程を、主観の側から<人間の本質力の対象化>として感じた時に美的感情がはじまる。美的感情の中で人間は<人間的なかたち><人間化されたかたち>を味わう。芸術は人生の前景に<人間らしさ>のイメージを創造する仕事だから、美と密接な関係をもっているが、その関係は芸術が美だけを目的としないことによってむしろ活きてくる。形式やイメージの価値は、それらが人生における真や善を表現し、真や善の感性的直感的探求手段になるとき、そのときはじめて真に充実した価値となるのである。

 人間は、歴史的にだんだん人間になって来た。そして意識的に人間らしくなろうと努める存在である。この<人間らしさ>とは仮象で、カタチの一種と言え、過去の実践の累積を反映した型に、反映のフィードバックとして現在の実践の前方に目標として置く未来像としての人間的本質の仮象であると言える。

 現実を写す鏡としての芸術は鑑でもあり、それは手本としての力がある。芸術がわれわれの実生活に一つの手本をあたえ、人間にたいする教育的機能をはたすのは、さけられない必然である。芸術は感情に訴えるから、ただ理屈で説得するよりも、ずっと直接的な影響を人びとの行動にあたえる。もともと人間の表現欲は、自分の感じたことを他人にも感じさせ共感をえたいという願望をふくんでいるから、他人の教化につながるのは当然である。しかし、それよりももっと根本的といえるのは、芸術の自己教育の機能である。芸術表現によって表現者自身が人間的に成長することである。芸術によってこそ、自然や人間にたいする広く深い愛情を本当にはっきりとそだてることができるのである。芸術を見むきもしないような人は、本当に人間的な人だとはいえないのではないか。

 芸術の力については、永井さんには次のような言及もある。人間の創造活動の第一号作品は、石とか骨から作った道具であった。芸術作品は道具の後身ということになりそうだ。道具は人間が自然とたたかうための武器である。だとすれば、芸術作品は武器の一種ともいえることになる。芸術はときには機関銃や大砲よりもずっと人生に役だつことがあると私は考える。はるかに永遠性のある武器といってよいのではないだろうか。

 

 C芸術の進歩と未来

 芸術は、宗教や実用などから脱出して来た。そしてタブロー、小説、シンフォニーなどとしてそれ自身で一個の独立した思惟になって来た。絵の具の多様化や向上にともなって、その反映としての色価の感覚も発生し、その他にも美術的展開・発展を経過した。しかし続いて、芸術の自律性の確立から芸術至上主義も生まれ、芸術の解体と堕落も開始され、階級社会では、人間生活の進歩と幸福のためという芸術本来の目標が分かりにくくなり、また現実認識という芸術本来の機能が不明になって来た。一方、文明社会は二枚舌とみられる、芸術の退歩自体が芸術の新しい進歩をよびさますことになる。そして素直な眼で芸術史全体を観察するならば、人間の形象的認識の客観的進歩は疑う余地なく明白である。

 芸術の起源ではなく、芸術の原型というものは、それがもしあるとすれば過去にあるのではなくて未来にある。人間の本質もまた未来にあるように。芸術とは何か、を論ずることは結局芸術とはどうあるべきか、どうありうるであろうか、を論ずることにほかならない。未来の芸術形象を想定するなら、現実は知り尽くされてはいなく常に未知なるものとして自分の前にはっきりとおき、その未知なる真相を一歩一歩自分の手によって既知に変革していきうると信じて努力する者にとってのみ理解の道が開かれるものだろう。この現実、興味津々たるこの現実、探っても探ってもつきることのないこの現実の深奥な魅力、いったいそれなくして何の芸術がありうるだろうか。未来において芸術がどうなるかは、それをつくる人間の動向にかかっている。どうなるかではなく、どうするかと考えるのが大切である。

 人工的な形への愛着は実生活における形の現実的客観的な有用性にもとづいて生まれた。形は実践の結果であるばかりではなく、実践の指針にもなったのだった。もしそうであれば、形のいっそう高度な発展である形象が、いっそう高度に実践の指針になったとしても何の不思議もない。


5 表現

 A 対象と意識 対象把握

 なんらかの意味において対象的なものを描写することなしに、人間は自己の感情や見解を表現することはできない。また、自己の感情や見解としてでなければ、対象を描写することはできない。それは、人間の感情や見解は、もともと対象に関しての感情であるからである。だから、自己とは、対象に対する自己なのであり、対象がなければ自己もないのである。自己の意識は結局対象の意識であり、対象の意識によって自己が形成されるのである。動物的人間の自己表出から形象が発展してきたとしても、その独自的本質は、それが単なる自己表出ではなく、対象把握であり対象描写である点でこそ形成されるのである。人間の自己表現は、単なる自己だけの表現ではなく、対象世界の表現であり、対象描写なのである。

 

 B 仮象とリアリティー 真偽の弁証法

 現実の反映を受け取る感覚は眼だけでなく耳などもあり、見えないけれど音が聞こえる時のように仮象は他に在る現実を伝える。仮象はわれわれを直接に与えられた現実よりも広い領域に導き出し、現実をより深く把える手がかりになるものである。仮象こそ、与えられた現実とは区別される真実、リアリティーの直接的な担い手である。

 ところで空想力は労働と生活体験から得られた知恵であり、空想は人間の精神文化の原点であり、真理の萌芽でもあった。すなわち空想は因果関係の発見であり、虚構の発明であり、目前の現実から離れて因果関係の仮説でもある。それはいわば、虚構の発明であり、嘘のはじまりであったけれども、それゆえにまた真理の発見であり真実のはじまりでもあったのである。真と偽は相対概念であって互いに支えあっている。嘘や誤りを認めることなしに真実を発見することはできない。空想的虚構のなかに真偽の区別がはじめて発生するのである。また真理/真実は反映によって、一面的であれ顕れ出ようとする。虚構の中にのみはじめて真実が生まれる。虚構を通じてしか明らかにならない真実は、即自的な現実よりもはるかに深い本質的な内容をもっている。この<虚構のリアリティ>の獲得こそ認識活動と呼ぶにふさわしいものであろう。

 意識のないところにも虚実の区別は客観的にありうるけれど、真偽の区別はありようがない。虚実と真偽は同じではない。模擬や虚構のないところに真偽の分岐は生じないのであり、仮象とはフィクション、虚構で、芸術はそれを通じて誠の真実を表そうとする。

 

 C 表現と社会

 芸術的表現活動が芽生えるのに観衆/鑑賞の要因を指摘しておいた。それは表現の社会的形成と言える。殊に意識の人間化にとって社会的交信活動や表現活動が決定的に重要な意味をもつのは明らかである。各種の人間的感情の生産や想像力の発達に表現活動は不可欠である。ここで必然的に、反映論は表現論に移行して行く。この<移り>は一方から言えば<映り>の発展であり、仮象の対象化である。人は仮象によって、移し伝える社会的交流を行う。表現が表現として成り立つには、その表現を表現として受けとる人がいなければならない。形の表現力は、形が人の心を他人に伝える手段として役立つ時、はじめてほんとうに実証されるだろう。心は本来物質形ではないから見ることも聞くこともできない。その形のない心に形を与えることは最高の表現であり、本質的な表現活動である。

 

 D 真実感  リアリティーとリアリズム

 まず永井さんのリアリズムに関する見解を大まかに言うと次のようになる。芸術を問題にするかぎりリアリズムを問題にすることになり、リアリズムと呼ばれるものが芸術の基本的創作方法にほかならないことが、現実そのものとして明らかになるであろう。

 彼は、リアリズムの発展を、態度としてのリアリズム、流派としてのリアリズム、創作方法としてのリアリズム、という三段階に区分して示したことがある。これは、リアリズムはまず生活的必要を基礎とし必然の領域において無自覚的に発生し、やがて次第に自覚的に活用されるようになり、その結果として自由な意識的方法となり、真の自由の領域においては最終的には、それが創作方法という概念そのものと完全に同義になることが実証されることによって、リアリズムという名称は不要なものとして消滅するだろうという考えである。

 永井さんはルネサンスや17世紀の美術を語るとき、後世の写生主義的自然主義的堕落はまだ本格的にはじまっていなかったと述べている。一つの絵画は人間によって鑑賞されるかぎりで絵画なのである。具象絵画は無条件的に対象(に似た)の描写だと思う人は、おかしい。犬はそう思わない。リアリズムは単に現実を反映することではない。現実を反映したところで、それを歪めて反映したのではリアリズムではないだろう。現実の本質、現実の真相を正しく把えるのでなければリアリズムとはいえない。

 芸術的形象は、自然の姿に近づきすぎても離れすぎても真実味を失う。それは芸術の真実が鑑賞者の創造活動に依存して実現するものだからであろう。見る人の想像力を挑発し活発に発動させるように描かれるほど芸術的リアリティーがでてくる。また表現手段の材質感も想像力をかきたてる。芸術の真実感は、こころよい美的感動をよぶものである。科学は理論的操作に依存し、感情の作用を保留しようとつとめるが、芸術は感情の作用を理性に結びつけ、積極的に活用する。たのしく、おもしろいということが芸術の一つの要件である。

 リアリズムはリアリティーを感じさせるものであるといえよう。鑑賞者の自発的想像活動に方向をあたえ、たくみに誘導して現実の核心にまで触れさせたとき、鑑賞者の心に現れるイメージがリアリティーを持つのである。想像が形象をこえて背後まで進出したときに真の芸術性が生まれる。あとに残る深い感動の余韻において、われわれの想像力がつかむものはもはや具象性を失っており、個々の現実の創造ではない。もっと広い普遍的な法則につきあたることによってそれは真実となる。芸術のリアリティーを科学上の真理と対比すると、芸術の真実感には、〈ありうること〉や〈あらせたいこと〉への願望が含まれているといえる。

 芸術的リアリティーは日常的現実感よりもずっと客観性を帯びた真実感であり、経験や階級の範囲にとどまらない。作者をも鑑賞者をも、それぞれの経験をこえた未知の領域、客観的現実へとさそいだすのが芸術の機能である。マルクスが<自然必然性の領域をこえる真の自由>とよぶ方向へ、芸術はつねにすすもうとする。経験の範囲内にとどまる経験の記述ではない。階級の範囲にとどまるものでもない。自然は絶えず自己自身を乗り越える、自然の超自然性を最も典型的に体現した存在が人類であろう。超自然という観念は、自己内に投影した人間自身の姿であるということになる。超自然とはつまり自由のことなのではなかろうか。

 永井さんはリアリズムと自分の論の革新性を次のように表明している。一般にリアリズムは、観念と現実のどちらに基礎をおくかという問題に関わっているから、唯物論とリアリズムは本来密接な関係にあり、現実的実践体験が世界観をたえず再構成するのだから、リアリズムは、自分の母体である唯物論をさえたえず固定化しない着想を含んでいなければならない。彼は自からの論を試論としているが、試みとしての方法は、むしろ常に何らかの程度に既存の世界観や世界像を破壊し、現実に直結しようとするところに本領があるだろうと考えている。

 


※本稿は要約であるから、論旨の更なる理解を求める方は、下記に問い合わせてください。

筆者 上野一郎のメールアドレス:y50mv★ja2.so-net.ne.jp

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