「美術運動」とは


3)ベトナム戦争

1964年から始まったベトナム戦争では、米軍の爆撃機が沖縄米軍基地から発進し、その残虐な戦争は日を追ってエスカレートし、世界中に反戦運動が広がった。日本美術会、そして会員一人ひとりがデモに参加、署名、カンパ活動そして創作へと立ち向かった。「ベトナム人民支援」の小品即売展が各地で幾度となく行われた。又、「沖縄を返せ」の運動とも連帯し、「沖縄全面返還のための版画展」が本土、宮古島、石垣島など6ヶ所で巡回展が行われた。「ベトナム人民支援」のための小品即売展は日本アンデパンダン展会場でも毎回行い、多くの支援金を集めた。この小品展は31回展(78年)頃から平和運動支援のためのカンパ活動として引き継がれ、以後20年余にわたり日本アンデパンダン展会場で続けられた。

 

いわさきちひろ 28回展「戦火の中の子供たち」
いわさきちひろ 28回展「戦火の中の子供たち」

ベトナム戦争をテーマとした作品では、それまでアンデパンダン展にはそれほど出品されていなかった糸園和三郎 25回展「友」、50回検証展「黄色い水」などのベトナム連作、いわさきちひろ 28回展「戦火の中の子供たち」シリーズ6点はいずれもベトナム人民への深い思いと、戦争を何としてもやめさせたい気持ちに満ちた出品であった。また、まつやまふみおは9回展「ダレスとカラス」、20回展「殺戮の王冠」、50回検証展「わたしはひばりがききたい」など多くの作品があり、風刺漫画で戦争の醜い本質に迫っている。滝平二郎18回展「鉈鎌」、50回検証展「赤い炎」がある。吉田利次、渋谷草三郎など多くの作家がつづいている。

9回展 まつやまふみお「ダレスとカラス」
9回展 まつやまふみお「ダレスとカラス」

 70年代の作家では、井上肇が26回展「忘れえぬ肖像」以降、19回連続で軍服シリーズを出品。白水興承は33回展「難民」から44回展「死者の跡」まで白骨が積み重なる鎮魂の連作であった。長谷川匠、川上十郎、川内伊久も注目された。

 

第24回日本アンデパンダン展会場風景
第24回日本アンデパンダン展会場風景

 1977年「美術運動」誌で「戦争と美術」を特集し、106号、108号で2回の座談会「戦争の中の美術家たち」、107号「戦中のデッサン選」を出した。この時期出された声明の主なものでは、1978年「有事立法反対」、1983年「新ファシズムに対する統一戦線のよびかけ」決議、1984年「トマホーク反対」決議、1985年「反核」声明・「国家機密法反対」アピールを出し国会請願を行った。国家機密法反対では内外の美術家へのアンケートを行い50人が答えた。山下菊二「戦争中、軍部の○秘や極秘印が捺印されると、都合の悪いことを秘匿してしまう。そして表現の自由が奪われた。このような危険性を持つ国家機密法に私は反対します」。野見山暁治「どういう性質のものか、又、どういう危険を内蔵しているものか、小生、無知なのである。しかし、ある事態が起こった場合、無知だったでは済まないので、早くその実体を知るように務めます」と答えている。

 

 以降の作品では戦時体験を風化させまいとする古参会員の杉本博 54回展「紅い花」、55回展「160(青春)」、上原二郎の39回展「戦争」、52回展「戦争の記憶・日本兵の生活」、小室寛52回展「家族の肖像」などがある。戦時中の記憶を焼夷弾などで造形化した首藤教之48回展「1945」、52回展「少年期」や鯨井洪49回展「731-MARUTA」、52回展「三光(万人坑より)」などの大作のシリーズも戦争の実態を暴き平和を願う。沖縄や広島では宮良瑛子、上原まさのり、渡辺皓司の沖縄シリーズ、四国五郎、下村仁一らが、その地方の歴史から「平和への叫びや核の脅威」を描き続けた。

 

渡辺皓司「沖縄と戦争より(祖母と孫)」
渡辺皓司「沖縄と戦争より(祖母と孫)」

 アウシュヴィッツをテーマに連作を続ける若山保夫や星功がおり、イラク戦争では、古澤潤「シリーズ・IRAQ BODY COUNT-死者の譜」31点連作は82,199もの死亡した市民の形を描き続けた。市井の人々を描いて来た岡本博は55回展頃から、人々は暗く悲しい表情をたたえ、後方には銃を構えたものやどくろがうごめく作品になり、現代の危機や人々の不安、怒りが伝わる。

 他に八柄豊、小池仁、小番つとむ、などがおり、その外にもここで取り上げていない作家が多数いる。

 忘れてならないのは直接の戦争を描いた作品だけでなく、人物像、母子像あるいは花や風景、日常の生活を描いている作家も、「いのち」をいつくしみ、それゆえに理不尽な戦争への怒りや悲しみを作品にこめて描いていることだ。

 1996年、日本美術会創立50周年記念講演「戦争と美術」で永井潔は「戦争の準備が着々と進んでいた時にわれわれは、まだ呑気だった。気づいた時すでに遅かった。そして今日は戦前の時と全く同じような感じがする」と語った。

 近年の戦争と平和に関わる会の「声明」やシンポジウム、九条美術の会の活動は「あゆみ7」「年表」に記載しているが、2001年以降でも講演会、シンポジウムは7回行っており、大きな注目があった。

 また、九条美術の会では広範な美術家に訴え、その賛同者も多く、九条美術展への出品やメッセージでは野見山曉治、宮崎進、辻惟雄をはじめ著名な方々も多数加わり、活動が広がっている。第5回展では一般新聞の夕刊にカラーで大きく取り上げられるなど反響も大きい。

 近年、藤田嗣治や横山大観の大きな美術展が度々行われたが、「戦争責任」には無視あるいは関わった記述さえ極めて少ない。会理論部の北野輝が「美術運動」誌などでそのつど批判や危惧を述べ、問題を指摘したが、メディアや主催美術館などの見識が問われるだろう。東京国立近代美術館の「戦争画」展示も併せて、今後も注視しなければならない。また、藤田「戦争画」(特に「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」など)の肯定的な評価が一般化する中で、われわれ自身の評価も厳しく問われる状況にあり、議論と検討を深めるべきだろう。

東京国立近代美術館の「戦争画」展示
東京国立近代美術館の「戦争画」展示

北野 輝(きたの てる)

藤田嗣治「戦争画(死闘図)」ノート Ⅰ

ー東京国立近代美術館「MOMATコレクション特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示」にちなみー


 65年前の「美術運動」誌(1951年再刊4号)「平和と美術」座談会では佐藤忠良、鶴岡政男、永井潔、吉沢忠(批評家)らが参加し、鶴岡「今後われわれはどういう風にするか、政治的意識も必要だが、仕事の上でやっていかなければならないと思う。しかし、仕事の上でやっていて果たして平和を守れるだろうか、どうか。我々より大きな世界的な力に対して守っていけるかどうか」。吉沢「しかし作品の上で平和を守ることが出来ないくらいなら、それ以外ではよりいっそう守ることが出来ないのではないでしょうか」(中略)佐藤「りんごを描いても平和を守ったといってもよかったかもしれないが、今はそれではダメだ。平和を戦いとるという考えが絶対に必要だ」。全員「なかなか難しい問題だ」。吉沢「この座談会で皆さんが真剣に平和を考えていらっしゃることは、他の若い美術家に大きな影響を与えると思いますが、それはここにいる方の画を尊敬するからで、作品で守るということはそういう行動に裏づけされた作品ということではないでしょうか」。永井「そう。結晶点が作品であるということで、作家の全行動の結果が作品に結晶することが必要でしょう。画家でなければ守れないまもり方でなければダメだというわけです」とある。美術家としての運動や創作のあり方を自問自答し続けた70年でもあった。

 

 2017年、今日の世界は極端な貧富の格差の中で紛争やテロは絶え間なく起こり、新たな国家主義や極右の台頭が危惧されている。日本でも憲法、民主主義、平和を守り発展させる闘いはこれからである。私たちの反戦平和の活動や作品は今後も一層重みを増すであろう。