藤田嗣治「戦争画(死闘図)」ノート Ⅰ

北野 輝(きたの てる)

 

 ー東京国立近代美術館「MOMATコレクション特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示」にちなみー

 

「この秋、藤田の魅力/魔力と『MOMATコレクション』の底力をどうぞ感じて下さい」

 

 これは昨秋、「戦争画」14点を含む藤田嗣治の全所蔵作品25点の展示に踏み切った東京国立近代美術館による挨拶文の結びである。同館には1970年にアメリカから「無期限貸与」の名で返還されたアジア・太平洋戦争中に描かれた「戦争画」(当時「作戦記録画」と呼ばれた)153点が所蔵されており、今回はじめてその中の全藤田作品が公開されたのである。

しかし私はこの藤田「戦争画」の全面公開を誇らしげに謳う挨拶文に収まりの悪い違和感を覚えた。家的プロジェクトと美術家のかかわり、「表現の自由」と美術/美術家の「自律/自立」と美術家の「主権者」としての「責任」、広くは現実と美術家の関係、美術家と市民・鑑賞者の関係、等々…。かつての戦時下とは異なる、しかもかつてと重なり合う状況下で、私たちが対応を迫られ、対峙すべき多くの問題が浮上している。

藤田嗣治、全所蔵作品展示
藤田嗣治、全所蔵作品展示

 

 私はこれら「戦争画」の公開そのものに反対ではない。しかしその公開には、それに見合った「戦争画」の歴史的位置づけと「戦争責任」問題の明確化(さらには「決済」)や甚大な被害を与えたアジア諸国民への十分な配慮が不可欠であろう。戦後70年、「アジア諸国民への配慮」の必要が薄れたかに見え(?)、国内では「戦争画タブー」も消え「戦争画」公開の声が優勢になった情勢に合わせての全面公開だろうが、実は私たちが主体的に問わなければならない美術家の「戦争責任」問題は依然として未決のままなのである。この未決の問題にたいして、同展の図録は、「[藤田は敗戦の]翌年、一説によると、戦争協力責任を負うよう美術界の説得を受ける」と書き、館内の解説は、「同じ頃、仲間から戦争協力の責任を代表して負ってほしい、と説得されたといいます」と述べるにとどまっている。言い古された、しかもそれ自体真偽の定かでない伝聞に「下駄を預けた」に過ぎないのである。

 

 今回の藤田嗣治「戦争画」の全面公開は、これまでなされなかったその全面的点検に道を開いた点で、確かに「画期的」なことと言えよう。しかし反面においてそれは、「戦争画」を描いた藤田らの大半が未決のまますり抜けた「戦争責任」問題を今日までほとんどそのまま放置して来た、日本の美術界の「戦後責任」回避の姿を象徴的に示してもいるだろう。しかし、いま各地・各分野で表現の自由への抑圧が起り、戦争国家へと大きく舵が切られ、戦争参加の危険がリアリティをもって目の前に迫っている。「戦争画」と「戦争責任」問題はたんなる過去のことではなく今日的問題となっているのである。戦争と美術、戦争への美術家のかかわり、国家・国策・国家的プロジェクトと美術家のかかわり、「表現の自由」と美術/美術家の「自律/自立」と美術家の「主権者」としての「責任」、広くは現実と美術家の関係、美術家と市民・鑑賞者の関係、等々…。かつての戦時下とは異なる、しかもかつてと重なり合う状況下で、私たちが対応を迫られ、対峙すべき多くの問題が浮上している。

(1)数年前、私は藤田の「戦争画」、中でも「死闘図」の評価について試論を述べる機会があった(「戦争画の『芸術的』評価——横山大観の『富士図』と藤田嗣治の『死闘図』」、『季論21』第14号、2011年秋、150〜168頁)。しかしその時点で私が実見していたのは、2006年の生誕120年を記念する藤田展に出品された5点に限られていた。今回、東京国立近代美術館で同館所蔵の全14点を見る機会を得て前稿の自己点検を行うことが可能となった。そこで以下、新しく気付いたこと、補足、修正などを交え、藤田「死闘図」に限って私見を書き記してみることにしよう。

 今回の展示作品にとどまらず「戦争画」に至るまでの作品を振り返ってみると、アジア・太平洋戦争期に入り本格的に「戦争画」に取組む以前から、藤田嗣治は「争闘」をテーマとした作品を多少モチーフを変えつつ断続的に描いていたことに気付かされる。彼はまだパリ時代の1928年に大作《争闘》と《構図》の各2点、計4点を発表している。いずれもミケランジェロの裸体表現を意識した人体の様々な運動とそれらの構成からなり、《争闘Ⅰ》は男同士の、《争闘Ⅱ》は男女の争う姿を描いたものである。ここでは多様な人体表現の追求というおもむきが濃いが、抽象的ながら人間同士の闘いがテーマとして明示されている。《馬とライオン》(1928/29年)、《猫》(1932年、1936年)などは獣性の闘いであり、それは1940年作の著名な《猫》*(当初「争闘」と呼ばれた)に繋がっている。(さらにさかのぼると、藤田幼年期に描かれた《逃げる支那兵》(1895年)という絵が残されているという。)

 興味深いのは、今回公開(上映)された藤田の監督による映画《現代日本 子供篇》(1937年)である。海外向けに日本文化を紹介・宣伝するための8分ほどの短編だ。特徴的なのは男の子たちのチャンバラごっこに大半の時間が割かれ、しかも最後は二人の男児が刺し違える一瞬のシーンに続き切腹場面が現れて終っていることである。「チャンバラごっこ」、「刺し違え」、「切腹」は、はからずも藤田の「「死闘図」の本質にかかわるキーワードとも言えそうだ(後述)。

 

(2)藤田にとっての戦争、また彼が誰よりも深くのめり込んでいった「戦争画」における戦争とは、何だったのだろうか。上記の作例でまず分かるのは、藤田が持続的に関心を持っていたのは、「争闘」、つまり「争い」や「闘い」であり、「戦争」そのものではなかったことであろう。藤田の関心は、一方では、1940年の《猫(争闘)》に代表されるような猫たちの獰猛な獣性(闘争本能)の表象として、他方では、残酷な人間行為の「刺し違え」や「切腹」の「チャンバラごっこ」への仮託として示されてもいる。

 戦時下の藤田をよく知る批評家の尾川多計は、思想をもたない“描く熟練工”であった藤田は、戦争そのものに無条件的な共感をもっていたと述べ、彼の「戦争画」にかける人並みはずれたバイタリティーを、その「傍観者的な好戦性」と結びつけて考察している(河田明久「〝絵そらごと〟の消長」、河田他『イメージの中の戦争』岩波書店、1996年)。ここで尾川の言っている戦争とは「戦闘」という局面と意味での戦争であり、藤田が「無条件的な共感」を寄せていたのは、その限りでの戦争=戦闘であろう。その限りでの戦争は、侵略/防衛、加害/被害の区別や犯罪性、非人間性などが問われない「戦闘」、「チャンバラごっこ」やゲームに等しいものと言える。もちろん尾川の藤田評の真偽が問われるが、藤田の美校の後輩で藤田と交際もあった野見山暁治氏の言葉が、その信憑性を後押ししてくれていると思う。野見山氏は、戦時下で藤田は「戦争ゴッコ」に夢中になっていたのではないか、また藤田にとって戦争は「たんにその時代の風俗でしかなかったのか」と疑っており(野見山『四百字のデッサン』河出書房新社、1982年)、かねてから私は、自由、率直、的確な氏の卓抜な人物評に大きな信頼を寄せているからである。

 

(3)以上、藤田をよく知る尾川・野見山両人の評言は、藤田の「戦争画」を戦争そのものには基本的に無関心な「無条件的な『好戦画』」とみる私見を傍証してくれているだろう。簡単に作品をたどってみよう。

 日米開戦以前の初期の「戦争画」の代表作として、《南昌飛行場の焼打》*(1938-39年)と「《哈爾哈河畔之戦闘》*(1941年)が挙げられる。どちらも超横長の画面にパノラマ風に戦闘が描かれており、大陸での広い平野での戦闘を一望のもとにとらえようとする意図と工夫が見られる。しかし後の「死闘図」の陰惨さはなく、青空を背景にして色調も明るく戦闘の緊張感も薄い。そこには子どもの好奇心にみちた戦争絵や「戦争ゴッコ」に通じる「楽しさ」さえ浮かんでいる。これらは、それまで断続的に現れていた「争闘画」の延長線上にあり、新たに「戦争」という正規の主題を与えられて「戦闘画」への転化したものだと言えよう。もちろんこれらは名目上「戦争画」と言いうるが、戦争を描いたにしては——ある論者も適切に指摘しているように——「表層的」な描写にとどまっている。作者の関心はもっぱら戦闘場面とその描写にあり、それを楽しんのでいるかのようで、「戦闘画」としても「表層的」とすら言えるだろう。(なお、「ノモハン事件」を描いた《哈爾哈河畔之戦闘》には別途検討を要する問題がある。同作は、軍部による発注ではなく、その戦闘で多くの部下を失った荻洲立兵という私人により制作が依頼されたもので、しかもそれには日本兵の死体が敵ソ連軍戦車によってひき殺されている凄惨な光景を描いた裏ヴァージョンがあったと伝えられている。この二つのヴァージョンにより、藤田の戦争にたいする「醒めた認識」がうかがい知られるとの見方もあるが、むしろ後の「死闘図」において顕著になる「凄惨への嗜好」を示す先例とも解されるのではなかろうか。)

 1940年5月、ナチス・ドイツ軍がパリに迫った危機的情況下で帰国の途についた藤田は、洋上でパリ陥落のニュースを聞いたという。この時彼はパリ画壇への復帰の道が決定的に断たれたことを知っただろうが、祖国日本には軍部(国家)による「戦争画」(「戦争記録画」)の委嘱(発注)という「救済」が既に準備されていたのである。「戦争画」は彼にとっていくつかの点で、幸運と救いであったろう。それが彼年来の「争闘画」の発展的な展開であるだけではない。フランスを後にして中南米を歴訪し、非西欧的なものへのエキゾチシズムやグロテスクなものに心を寄せたり、「公共性」のある壁画に活路を探ってもいた彼にとって、画家として「腕(ブラ)一本」(藤田)で生きるためのもっとも強力な公的支え=軍部(国家)と彼の作画に欠けていた主題=戦争が、「戦争画」の委嘱によって与えられることになったのである。このことは藤田にとっての「幸運」ではあったが、実は彼自身と日本の近代美術にとっての大きな「不幸」でもあったと言わなければなるまい。