「美術運動」とは


運動と創作活動の一部を紹介

「美術運動」は日本美術会の結成の翌年、1947年1月に創刊された日本美術会の機関紙です。

今年3月で刊行されて№144号を数えます。この間すでに70年が経過し、日本と世界の美術文化状況の変化は大変大きなものがあります。

「美術運動」創刊号
「美術運動」創刊号

 

会の趣旨に(1)日本美術会は第2次世界大戦後、新しい歴史を切り拓くことを誓って新憲法と同時期に誕生しました(後略)。(5) 会は、平和な世界を願い、戦争と侵略をやめさせ、核兵器の廃絶をめざし、地球環境を破壊から守るため積極的にとりくみます。(2011年改定)とあります。これは会の中心となる理念であって願いであり会の創立精神の骨格となっています。創立以来行って来た「戦争と平和」のさまざまな活動と残された作品は会と日本アンデパンダン展の特質として、質量ともに誇るべき貴重な運動と作品群です。会の運動や日本アンデパンダン展の作品がこれらに限定されるものではありませんが「戦争と平和」の視点から70年の運動と創作活動の一部を紹介したいと思います。


1)創立初期

「会が広範な美術家の統一組織として誕生し、自由で民主的な日本美術の発展を掲げたことは、軍国主義に蹂躙された悲惨な経験から必然的に生まれた」など「日本美術会のあゆみ1」の発端に詳しく記述されている。会の「自由と民主主義」の旗が反軍国主義、平和を願い美術家としてあらゆる努力をする事と深く結びついていることが判るだろう。

 戦争責任の追及の項では、美術界全体の反省を強調し、戦争責任の追及は政治問題として一時的手つづきに終わるのではなく、文化・美術問題として継続的に徹底して行う。美術表現、創作活動を通して反戦平和を希求する。としている(1946年)。

 

第2回アンデパンダン展 ポスター
第2回アンデパンダン展 ポスター

 第2回日本アンデパンダン展では「ファシズム反対・・」のスローガンを掲げ、靉光、柳瀬正夢、川上律江らの作品143点を「戦争犠牲美術家の遺作」として展示した。

 1950年「平和運動の提案」(6月、拡大中央委員会)が出され、各支部に実践の訴え、日本美術家連盟にも呼びかけた。(No.12美術運動誌)

 又、「巨匠マチスも署名ー戦争反対、原爆廃棄のストックホルム・アピールに際しては、わが国美術家の間でも多数の署名を得ているが、フランスでもピカソを始め、南仏ニースで画筆を振るっているマチスが参加している・・」(同誌No.13)と紹介。

「美術運動」13号 署名活動の記事
「美術運動」13号 署名活動の記事

  「ピカソの平和運動ポスターが第4回日本アンデパンダン展に飾られ、一般に多大の感銘を与えた。送料共90円で頒布中」とポスターの写真入りで報じている。(同誌再刊2号、1951年)その後、ピカソから4点のリトグラフが寄せられ、複製の許諾もあり、平和運動基金として頒布した。

 6回展では世界7カ国の平和ポスターの特陳があった。

 

「美術運動」再刊2号、1951年
「美術運動」再刊2号、1951年

1952年には朝鮮戦争や破壊活動防止法を契機として「平和宣言」を発表。その後「平和美術展」が発足し、全国で次々と開催され、日本美術会と共に平和を求める運動の母体となった。日本美術会会員もこれに積極的に加わり、大きな役割を果たしている。

 この頃、日米安保条約の下、自衛隊発足(1954年)や水爆実験(1954年)があり、基地闘争や原水爆禁止運動に取り組み日本アンデパンダン展でも後世に残る作品が発表された。

 

 初期の作品では1回展 佐田勝「廃砲」、3回展 丸木位里・俊「八月六日」(後に「原爆の図第1部 幽霊」と改題)、大塚睦「ハンスト」、4回展 矢部友衛「平和署名」、6回展 浜田知明「初年兵哀歌」、7回展 箕田源二郎「内灘」、池田龍雄「ぼくらを傷つけたもの」、9回展 中村宏「砂川5番」、本郷新「嵐の中の母子像」などがある。

 

 これらの作品は日本アンデパンダン展の歴史に残る記念碑的作品であるとともに、日本の戦後美術史に欠かせない作品であろう。