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東北にあった「萬鉄五郎記念美術館」と「縄文芸術館」

日本美術会会員 小野章男

 岩手出身、大正期に活躍し41歳の若さで亡くなった洋画家萬鉄五郎。2017年の没後90年の展覧会は、葉山の近代美術館にも巡回し、私も感動を新たにしたが、「僕の中の原始人が歩き始めた」「僕の希望は野蛮時代にかえる事ではなく、新しき原始時代を始めることである」多くの作品だけでなく、萬自身の言葉も新鮮に響いた。萬を考える場合、東北の文化や民俗にも目が行くのもおもしろい。例えば縄文時代の土面、鼻曲がり土器(青森、岩手計6点しか見つかっていない)と萬の自画像の類似点を指摘されるなど、無意識に同じ地方で似た作品を生んだことには驚く。縄文時代といえば、縄文の若者向け?のフリーペーパーも何年か前からあり、アイドル?の姿が表紙を飾っていて、それはブームと言えるほどだ。確かにそれは我々のルーツなのだから当然だろう。私も今回は6月に東北を、萬の美術館と縄文関係の地と芸術館を再訪した。この文章も学術的な立場?とは別なのは言うまでもない。惹かれるものをどれだけ見ることができるか、理解し認識し力にすることができるかということだ。 

 

 萬の生家土沢は花巻駅から10キロほど離れた盆地だ。萬もよく歩いた丘にある「萬鉄五郎記念美術館」、私は3回目の訪問だ。萬を慕う町民の要請で1988年美術館開館、多くの油彩は岩手県立美術館にあるため最初は小品等が主な所蔵品であったが、それ以後多面体の画家萬を再発見させる企画をたてる活発な活動には驚く。

 今回見たのは常設展と「萬鉄五郎、死者の肖像」という企画展。萬が29歳で故郷に(生活、製作その他の理由で)1年半ほど帰った時領布会を開き、そのために製作したものが主だ。それぞれの家庭で大事に保存され、今回発掘されたものもある。それは自分の表現意欲の満足のためというより生活を支えるためのものであり、原色を散りばめたような作はないが、サインはどこにあるかなど見ていくと、いろいろ興味ある問題がある。亡くなった人の写真から描いたものもあり、柔らかく人間に、イメージに対応している。これだけ肖像画が並ぶと既視感があった。遠野の写真集で見た白黒写真、先祖の写真?肖像画?絵馬のように居間?に埋め尽くされてあり原初的な怖さを感じたことがある。この地方には特に強く祖先のイメージをうやまう気風があるのか、平泉に行った時には駅前に肖像画専門の画廊?があったのには驚いた。

 萬も不思議な画家で、抽象画とも思えるここの館所蔵の「丘の道」は、土沢に帰った時期の作と思っていたが、家族を連れて東京へ戻ってからの1918年の作。キュビズムの代表的な作「もたれて立つ人」(1917年)、表現主義的な作「かなきり声の風景」は1918年の作のようだ。土沢に居る1915年はもっと緑の重たい、山や木が地面に強く根を張っている風景画を残している、東北の夏の無情なまでの強さとでもいうものか。(しかしこの時期の充実さには驚く。肖像画だけでなく風景画、掛け軸の画会作品も作る、もちろん水墨画も描き、毎月20枚の色紙の注文受ける。)さいころが色々な目を見せながら転がっていく、その動きとともに色々な作を作っていくようだ。「ぼくが目を開いている時は絵を描いている時だ」画面の、文章の力が強い。見て感じたものが自分を超えていく。見たものが塊となり、浮遊力を持ったその重たさが自分と画面の中を動く。

 文章化することも作品の包装紙にはならぬ。萬の書いた(死後編集発行された文集であるか)「鉄人画論」はまったく遠慮のない他者の作品への批評が多くびっくりする。「意味を徹底させ整頓を付けず今云いたい事を無秩序に述べるまでである」その言葉は忖度中心の日本の批評には珍しい。そして生まれた宿場町、田園を歩いている姿は、萬より11歳年下の花巻出身宮沢賢治を思い起こさせる。宮沢は絵も描いているが、水彩画が多く宇宙的ともいえるモチーフもある。また同時代には梶井基次郎なども短編で「視ること、それはもう(何か)なのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」というモノローグを登場人物に与えている。これらの芸術家は短命であったが、大正期を中心とした時期に生きた。芸術面では個人の個性を育てることが要請された、そしていくつかの貴重な明るさを含んだ果実の生まれた時代といえよう。

 その他ここの美術館では岩手の美術に関係する企画展も開かれている。日本美術会員であった寺島貞志の展覧会も2017年にあった。(これは二回目の展示で今回は戦後の作が中心)寺島は戦前からプロレタリア美術で活躍していた画家で、妻の実家の花巻に疎開していたようだ。 

 

 新青森駅からバスでいけば三内丸山の縄文遺跡は遠くない。前回行った時は大雪の中で景色は見えなかったが、ここは八幡平の山の重なり、その端に位置する。授業の一環か学生もきままに歩き回っている。大きく整地されていて縄文の「ムラ」を体験できる公園だ。復元された大型竪穴住居は長さ32mの大きさ、どうしても町の大型公民会館、体育館を想像してしまう。そしてシンボルとなるものか、直径1Mのクリの柱が残っていたという大型掘立柱、その後に復元された塔は巨大なものだ。ただ何に使われたかは議論がある。墓は集落のはじ、道路をはさんで向かい合うように配置され、成人は500基ほど、子供は土器に入れて800基ほど確認できるようだ。

 今は穏やかな風景の中であるが、ここで社会を築いていた人たちの姿も知りたいと思えば「縄文時遊館」という博物館が付属し、そこで資料を展示している。その時代平均寿命31歳、どのような生死感があったのか。ここのムラの繁栄したのは約4500年前といわれる。5000年前の年平均気温は現在より1度高い。それから500年の間にどんどん寒くなる。現在より1.2度まで平均気温が下がったという。どれだけ不安であったか、温暖化が問題になる現代人も遠い話ではない。この気候のきびしい縄文晩期にかけて、宗教人であった縄文人は神を失ったと詩人の宗左近が書いたことがある。確かに中部や関東では、人口も集落も減り、あれだけ力のあった土器も力を失ったのは事実だ。

 

 次は青森より一気に仙台の一つ前、新幹線の停車駅吉川へ下る。ここからバスで中新田へ行く。広い田んぼ、平地が続く。「中新田」はナカニイダと読むが合併により加美町へ。つまり宗左近記念「縄文芸術館」、芹沢長介寄贈による「東北陶磁館」、そして音響の美しい「バッハホール」は宮城県加美郡中新田町立だった。しかし近隣のふたつの町と合併して「宮城県加美郡加美町」となり、行政上は由緒正しい「中新田」の名は消えてしまった。ここは宿場町として栄えたが、風の強い土地で火事に苦しめられたようだ。(池内紀著「祭りの季節」みすず書房刊、には中新田の「火伏せの虎舞」のお祭りを紹介。)

 1993年に亡くなった宗左近は縄文をテーマにした詩集も10冊以上、縄文関連の評論も多い。そして集めた縄文土器等約200点を中新田町へ寄贈。「世界に類を見ない、縄文土器を芸術作品として展示するため」1988年新田町による美術館が開館。(現在では発掘された完成品に近い土器は個人の所有にはできない。昭和25年以前に発掘され、宗が古美術商から買ったもの。)この館のユニークさとは、考古学の資料として眺めることを厳しく拒否し、縄文土器の魅力を見せる。そして宗のとらえた縄文人の思想、それがこの展示で顕すことが可能か。まだ理解されることの少なく(また歴史上無視されてきた)人達を現在に蘇させる、私達のこころと交流させることができるか。その問題提起がユニークだ。このような美術館は他にない。

 「縄文芸術館」は、昭和初期の木造醤油醸造蔵を転用している。外部の白壁とともに素朴であるが建物の形も好ましい。入ると最初のケースに縄文人からの挨拶のように、下半身の欠けた遮光器土偶、伝青森出土が迎える。左目と右目を繋ぐ一本の線の迫力に驚く。この直線は、見たもの全てをこの線が飲み込んでいるのか、それとも内から混沌がでていく一本の線なのか。そして大きな展示空間に入るのだが、この長方形の建物の内部は、事務室トイレ等を除くとほとんどひとつの吹き抜け、すなわち箱に入ったようだ。三角形の白い天井の梁は黒く細いので幾何学的な動きを上の空間に感ずる。二階は壁にとりつけられたガラスケースと一周歩くスペースしかない。入ってすぐの展示の一辺には奥まで三列にさまざまの高さの箱、それぞれ異なった高さの赤みがかった土色の台の上に(美しく調和した展示台、土の上に縄文土器を載せた新潟市美術館であった土を使い問題になる展示を思い出したが、もちろんこちらは土ではない)ふくらみ、がっちりした土器が20個ほど配列されている。表彰台のようでおかしいが、箱形のガラスケースでなく天井は開いている。乗っている土器の大きさはさまざま。音階を表すように、もちろん前の段の土器の方が小さいのだが、眺めているうちにお互いの土器が響き合うのだろうか、ゆったりした回転音を奏で空に土器も吊り上げられるようだ。もっとも前にこのスペースを見た印象と違う。ここには天井まで阻むものがない、宇宙を向く「らせん状中吊り」と宗に評された深鉢、円筒上層式深鉢の群(阿玉台式、加曾利式等らしい)垂直性強くロケットの並んでいるイメージがあった。しかし今回見ると、これらの長身の土器は違う場所に、アタマを抑えられるように入っているので苦しい。震災で破損をうけた土器もかなりあり、しばらく閉館、展示も変わったのかもしれぬ。その展示の近くには「東北人の祈りの塔よ」という言葉。書き忘れたが、展示品のデーターというものはケースにも壁にもなく、見る上でのヒントになるような宗の言葉がついているだけ。まずあなたの目で作品のこころを見てくださいという願い。作品の作られた時代、場所、様式についてはカタログ(これも品切れ中)を覗き記述するしかないのだが、確かにここには知識を増やすために来ても得るものはないだろう。共感する力がなければいくらデーターが正確になってもむなしいということだろうか。

 この一角を離れ、室内の真ん中にあるケースを見る。その上から強い照明が当たり、赤味がかった小さな土器の陰が重なった葉っぱのように見える。これらの土には触覚することを誘うような紋、縄文がつき、それは湖で見た波の動き、青い空に浮かぶ白いゆったりした雲、水中で雲がイルカのように遊ぶ、それを伝える波が表面に現われ消える。そのわずかな水面の動きが土器にはりついたようだ。

 この芸術館。一見あまりにもブアイソ、この土地の観光資源にもほとんどなっていないようだ。場所を聞いてもわからない人が多い。現代日本は新しい工夫された美術館もでき、ハナヤカな展覧会も盛んだ。しかし大きく見ると、美術館に行けば「美」がありそれを味わい楽しみ充実した時間を過ごす、そのような志向はもう曲がり角にあるようだ。美術品とは何か、展示するとは何かが問われている。しかしこの芸術館には小さい施設であるが、人間の他者と共感し生き延びるヒント、歴史を突き抜けた願いの強さ、それら貴重なものが美術館を通して顕われているように思えた。