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森本仁平を探して――みちのく一関へゆく

鶴岡征雄 (つるおか・ゆきお)

河口夕凪 M50 1991
河口夕凪 M50 1991

 私は、たまたまネットで油彩画「河口夕凪」(M50号)を見た。この底なしの寂しさ、無限の寂寞感はいったいどこでどうしてうまれたのだろう。冬枯れの寂しさにつつまれながら、朽ち果ててはいない。人気がないにもかかわらず、働く人の匂いがする。季節の色彩は灰色がぴったり似合いそうだ。ところがそうではない。意外にも明るいセピア色を基調にしている。春遠い景色は空も重く沈み、川面には風紋もない。古びた川舟、砂浜に打ち上げられた廃船。斜陽の地上には鳥影さえもない。寂しい。それでいながら、やすらぎに満ちた風景画なのだ。

 

 美しいセピア色を筆先にふくませて息をつめてイーゼルの前に立っているわけあり風の画家を連想した。常にひとり岸辺に立っているかのような森本仁平のうしろ姿が目に浮かぶ。

 茨城の片田舎に生まれ、土埃の匂いのする町で育った私には、懐かしい関東平野ののっぺらぼうなどこやら寂しい枯れ葦の匂いのする川岸の風景と重なり、ぜひとも原画を見てみたいと思った。

 一関市博物館で開催中という企画展「画家の目のつけどころ」展に、「河口夕凪」も出ているらしい。

 「無限の寂寞感」に心を強く打たれた私は、矢も楯もたまらずにという切羽詰まった思いで2018年6月5日、東京駅から東北新幹線やまびこ5号に乗った。

 一関行きの同行者は友人である木村勝明氏、一関の宿は同地磐井町在住の造形作家・菅原順一宅、厚かましくも木村氏とふたりして3泊4日もの間、菅原夫妻にご厄介になった。

 

 管原、木村、私の3人で「画家の目のつけどころ」展の会場を訪れたのは、6月6日、学芸主査・大衡彩織さんが対応してくれた。同館所蔵の一関市ゆかりの洋画家、白石隆一(1904~1985)、森本仁平(1911~2004)、福井良之助(1923~1986)3氏からの寄託作品、油彩画、水彩画、孔版画を展示した、という。展示された森本作品は20点。すべて油彩。以下、題名のみを記す。 「早春の峠」「漁夫」「労働者の顔」「鉄屑のある風景」「労働者」「荒野の譜」「時計のある風景」「夕暮の歩道」「バス待つ人」「階段のある道」「黄昏」「海へ続く道」「河口残照」「から松と白樺」「浜ひるがお」「鎌ケ谷(中沢)」「木立」「砂浜の廃船」ほかに作品名不詳が2点。題名も平易、それでいて味わいがある。

 森本は、93歳で没するまで千葉県鎌ケ谷市のアトリエで制作をつづけたという。

 一関では過去にも森本仁平の展覧会は開かれていた。

 

 2000(平成12)年「森本仁平展」展示作品21点。

 2008(平成20)年「静謐なる世界へようこそ 日本画・矢野茫土 油彩画・森本仁平 孔版画・福井良之助」森本作品は6点。

 2011(平成23)年「生誕100年森本仁平展」展示作品は18点、などである。

 私は、森本仁平はてっきり一関生まれなのだろうと思い込んでいた。郷土の画家の範疇で見ていたのだ。ところがそうではなかった。生まれは1911(明治44)年、石川県大聖寺町(現加賀市)だという。森本と一関の関係は戦前・戦後あわせて10年、それにしては一関の人々に格別深く愛されているように思えた。というのも森本が本格的な画家活動をはじめたのは、一関を離れた後のことなのだ。一関は、森本が美術教師として教壇に立っていた8年を含む10年なのである。

 私は絵を見るだけでなく、画家の経歴を詳しく知りたくなった。森本仁平の資料から略年譜を抜粋して写す。

 1932(昭和7)年 東京美術学校師範科学校(現東京芸術大学)卒業。

岩手県立一関高等女学校に教諭として赴任。

 1936(昭和11)年 朝鮮に赴任。

 1937(昭和12)年 8月14日、朝鮮全羅北道で長男・草介生まれる。

 1938(昭和13)年 日中戦争はじまる。臨時召集を受け京城歩兵第79連隊に入隊。

 1940(昭和15)年 満期除隊。

 1943(昭和18)年 東京府立第四中学校に転任。足立区小台町に住む。

 1944(昭和19)年 疎開地指定地域となり再び朝鮮黄海道海州師範学校に転任。

 1945(昭和20)年 臨時召集を受け野戦、築第12791部隊に所属。終戦時に捕虜となり、シベリアに向かっての連行中、脱走に成功する。約1000Kmを1ヵ月以上かけて踏破し、家族のもとへ帰る。11月中旬、家族を伴い海州府脱出、38度線を越えて京城に至り、釜山港より引揚げ船にて山形県に上陸、12月9日一関に帰る。(朝鮮から帰還まで、「一家での逃避行を強いられた」と息子であり、画家である森本草介の「生い立ち」に記されている)。

 1946(昭和23)年 一関授産所にて木工芸品絵付けに従事。

 1947(昭和22)年 一関市立山目中学校の教諭となる。(’51年に東京に転任) 森本草介の「生い立ち」に記されている「一家での逃避行を強いられた」とあるが、これは父である仁平が脱走兵として追われていたということなのだろうか。敗戦時、日本人の誰もが引揚げ船に乗ろうとして先を争っていたがそれを〝逃避行〟とはいわないだろう。 ともかく、一家で怖ろしい体験をしていることは想像に難くない。

 前出の「森本仁平展」のパンフに森本にしては珍しいという一文が載っている。森本の書いた文章は少ないらしい。

 

 ――私が初めて一関の土を踏んだのは、今から68年前の昭和7年4月だった。昔のことで、東京から普通列車で12時間、急行で8時間。その頃の一関はやはり遥かなる北國だった。 「みちのく」という古い呼び名が醸し出す詩情を胸一杯にふくらませて、私は一関の住人となる。その頃の一関はローカル性に富み、私が最初に下宿した家は中級の武家屋敷で、その附近一帯は昔のまゝ保存されていた。私は感動した。(2000年)

 

 話が前後するが、私たちの一関行きは新幹線、夢の超特急は2時間余、昔とは大違いである。しかし、一関は森本が昔話として綴っているその町の景色はいまもさして変わらない。一関はみちのくの古風な面影を色濃く残している穏やかな町だった。風景だけではない。人もまた礼儀正しい。朝の散歩ですれ違った女子高生に、おはようございます、とあいさつされたといって、木村氏はいたく感動していた。

 森本はそんな町の人々が好きだったのだろう。なにしろ菅原宅のご近所からして歴史上の人物が往来していた町なのである。詳しく述べる紙幅はないので、簡単な紹介に留める。

 まずは松尾芭蕉、渡辺貞夫が出演するというみちのく有数のJAZZ・SPOT「BSSIE」、シネマプラザ1・2も健在だ。建築物は一関藩家老・旧沼田家武家住宅が保存・公開されている。酒造元・世嬉の一には「いちのせき文学の蔵」があるが、ここに島崎藤村が寄寓していたというし、井上ひさしの中学時代、一家はここの土蔵で暮らしていたというエピソードも伝わっている。さらに世界遺産・中尊寺、毛越寺、日本百景猊美渓、文人から歴史、観光地などをめまぐるしく案内してくれた。菅原氏はわれわれを一時たりとも退屈させまいとして精一杯もてなしてくれたのだ。

 にもかかわらず、私は森本が新卒で赴任した一関高等女学校(現岩手県県立一関第二高等学校)や下宿した旧武家屋敷、戦後になって転任したという山目中学校を見落としたことを悔いた。毎日、博物館に足を運ぶべきだったと反省もした。しかしそれは帰京後のことである。菅原氏はよもや私が森本仁平にお熱をあげているとは思いもしなかっただろう。

 とにかく、私の森本仁平探しの旅はまだ緒についたばかりなのである。

 森本仁平は、一関からスタートした美術教師の生活を全うした。その間、画家として自由美術協会会員となり出品、アンデパンダン展にも出品していた。自由美術を離れた後は個展を作品発表の場としていたという。

 私が森本への関心を深くしたもうひとつの理由はソ連軍の捕虜となった森本がシベリア送りの途中で〝脱走に成功〟、〝一家での逃避行〟など、戦争に打ち克って犠牲から免れたことである。

 しかし、なのである。「画家の目のつけどころ」展に、残念ながら森本仁平の「野の墓標」(F60)は出ていなかった。戦争画は極端に少ない。すくないどころか私の知る限り、この1点だけである。戦争は絵にならなかったということなのだろうか。

 敗戦後、ソ連軍の捕虜となって地の果てシベリア送りとなった日本兵は57万人、その内、飢えと強制労働によって5万7千人もの兵士が異土の骸となっている。

 森本の戦後の〝静謐の世界〟と戦前のその人生との落差の大きさに私は首をひねった

 

 シベリア帰りの画家といえば、香月泰男がいる。

 一口にシベリア送りといっても、香月と森本とでは、その体験は天と地の違いがある。香月はシベリアに抑留され地獄を生き延びて帰還、精力的に戦争画を描いた。「シベリア・シリーズ」は香月の代表作となった。

 香月と比較するまでもなく前述したように、森本には戦争画はないに等しい。森本の世代で戦争に引っ張られた表現者であればなんらかの形で戦争に触れている。作家なら小説に書き、画家はキャンバスに描いた。

 大陸での逃避行がモチーフにはならなかったのか。それとも逃亡したという兵士の負い目から目をつぶったのか。

 陸軍大臣・東条英機が唱えた「戦陣訓」、「生きて虜囚の辱めを受けず」とは思えない。脱走は家族愛、私には一重にそうとしか思えない。

 ――脱走に成功。

 年譜の中のこの1行は森本自身によるものなのかどうかはわからない。しかし、森本の誇りが感じられる。だが、それだけではないものを感じる。

 森本の「漁夫」は漁師の正面からではなく、赤黒く日に灼けた背中を描いている。

 正面から描くことを憚られるような作者の気おくれを感じる。正視を避ける気おくれ、それが「脱走」の負い目とつながりはしないだろうか。戦争は人を卑屈にする。軍国主義に染まったものも、そうでないものも、心に傷を負った。

 戦争という狂気にふりまわされた美術教師は、荒ぶる心境を鎮め、抑え込んで「静謐の世界」に辿りついたのだろうか。

 森本の「底なしの寂しさ」「無限の寂寞感」は、一朝一夕に完成した美の世界ではない。

 森本仁平は「内生の人」だったのであろう、と思う。 香月泰男と森本仁平はともに1911年生まれ。香月が東京美術学校の受験に失敗しなければ、学科はちがうもののふたりは上野の山で出会っていたかもしれないのだ。

 森本仁平を愛しているのは、一関の人々だけではなかった。 今、生誕の地、加賀市立美術館に申し込んであった森本仁平の図録が送られてきた。石川県立美術館や加賀市立美術館においても「森本仁平展」は大掛かりに開かれていたことを知った。森本仁平は多くの人たちに永く愛され続けてきた大きな画家だったのである。

写真(右)鶴岡征雄、写真(左)木村勝明
写真(右)鶴岡征雄、写真(左)木村勝明

鶴岡征雄 (つるおか・ゆきお) 

作家。1942年茨城県生まれ。

日本民主主義文学会会員。著書・短編小説集「夏の客」評伝「鷲手の指―評伝冬敏之」エッセイ集「私の

出会った作家たち」(いずれも本の泉社刊)ほか。