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プロレタリア美術研究所に交差した青春達

木村勝明

プロレタリア美術大展覧会

1928 年 第1 回 出品数181 点・撤回19 点・入場者2,899 名

1929 年 第2 回 出品数281 点・撤回27 点・入場者4,458 名

1930 年 第3 回 出品数422 点・撤回51 点・入場者5.601 名

1931 年 第4 回 出品数200 点・撤回多数  ・入場者3,324 名

1932 年 第5 回 出品数189 点・撤回48 点・入場者1,337 名

1933 年 2 月小林多喜二虐殺 プロレタリア美術研究所も閉鎖・破壊さる

1934 年 3 月日本プロレタリア美術家同盟(略称ヤップ旧称PP)解散声明

※撤回と言っても作家に戻されるわけではなく、持ち去られて行方不明。


1928年11月から第一回プロレタリア美術大展覧会が開催された。(東京府美術館)1932年の第五回展までが実施され、他にも移動展、出版活動など活発に行われた。分けても1929年~1933年存在したプロレタリア美術研究所について、世界的な左翼文化運動の視野からも、特筆に値する活動であったことを書き残したい。と言っても私も生まれていない戦前の事なので、インタビューや文献によって知る以上のことは無い。1986年に「美術運動」NO.116の特集のために、すでに高齢の当時のプロ美参加者にインタビューした事を思い出す。1929年、池袋の現在西武池袋線椎名町を少し南下したあたりで、木造平屋で建坪七十坪、のちに池袋モンパルナスと言われる地域にあった。そして、(1930年に大阪にも開設されたという)最初は「造型」と「プロレタリア美術研究所」と二つの看板が並べて掲示されていた。19 3 3 年には「東京プロレタリア美術学校」の名称変更があったが、その年内に閉鎖・破壊された。学校長は矢部友衛、小野沢亘さんは事務員に頼まれて、住み込みで働いた。柳瀬正夢や松山文雄さんは7・8歳上の世代で、活躍中の先輩だったと小野沢さんは語る。

 しかし1930年頃までの盛り上がりは当時としては凄く、プロレタリア美術研究所が作られ、一種のブームがあったことが想像できる。文化学院のハイヒールの女性らが見学に来たと小野沢の証言。とにかく研究生の自治会とか、カリキュラムも斬新だったらしい。と言っても4年弱の短期間しか存在しなかった。大日本帝国の侵略的軍事国家は国内では、治安維持法の際限なき拡大解釈によって、10万人を超える逮捕者を出し、プロレタリア文学の小林多喜二を拷問して虐殺。プロ美の作家も何回も捕まり拷問を受ける。ねらいは、共産党員を探す事だが、実際は良心的な知識人を転向声明を発表させて、国の侵略的な政策の先兵に仕立て上げることであった。そのための暴力と死の恐怖を与え、代用監獄と言われる酷い人権無視の拘束状態を続けることが治安維持法の仕組みとして作られていた。したがって、プロレタリア美術研究所の20歳前後の若者の逃れる道は4つしかなかった。

 

1. 地方・実家のある、大都会ではない、特高警察からなるべく遠いところへ(鈴木賢二とか常田 健)

2. 都会の中に潜伏(貧民窟のようなところに潜伏し、のちに映画会社に入った黒澤明)

3. 中国へ、大陸に行く(柳瀬は仕事で中国へ、小野沢亘→のちに八路軍へ)

4. アメリカなどへの逃亡(岩松淳→八島太郎・新井光子)

※外務省の親類の助けがあった

※八島太郎や鈴木賢二は東京美術学校を軍事教練反対で退校して、プロレタリア美術研究所では教える立場だったのだが、若い世代だった。小野忠重さんなども若い世代で連作版画「三代の死」などプロ美に発表。

メーデーの写真 1931 年 安井仲治

初出文献『アサヒカメラ』1934 年9 月号

「仲井岩太 安井仲治 福原信三 福原路草 -ペンタックスギャラリー旧蔵品展―」

JCII PHOTO SALON LIBRARY 245 より転載

当時の日本のメーデーの様子をよくとらえている。びっくりする発見だった。急いで、日本カメラ財団の文化部の方に、「美術運動」への掲載許可をお願いした。

 地方に戻った場合、地元の人間関係で何とか妥協も必要になる。海外の場合、中国の八路軍に入って漫画や美術関係の仕事をこなす事になるが、重用されると早くは帰れなくなる。アメリカで生きるためには戦争相手国である日本人は軍の諜報活動(ビラ・チラシ)でアメリカ軍側に加担することになる。もちろん美術専門家としての立場を生かす特殊な在り方。映画の大所帯で守られても、監督になるとそれなりに戦争国家の目的に沿うことが要求される。いずれも大変な困難な課題を背負うことになる。したがって、戦後の日本に復帰し、民主化の中で復活できるか否か、一定の期間が必要となるが、ある程度その地で評価されて基盤が整うと、復帰も困難になる場合がある。八島太郎・新井光子の場合などがそれだろう。しかし絵本「からすたろう」で賞を受け、息子(マコ岩松)はハリウッドのスターとなり、離婚した光もマイノリティーグループの進歩派の母のような存在ともなれば、帰国の道は低くなるだろう。青森のリンゴ農家として生きながら、日本アンデパンダン展に出品し、作品で存在感を持ち、評価も高い常田健さん。先日栃木県立美術館で大きな回顧展のあった鈴木賢二さんなど。これからもプロレタリア美術20 21研究所に重なった青春達は、その闘いと創作を再評価される日が来るに違いない。先日も永井潔アトリエ館の下見会で偶然お話した薗田猛さんのご家族、彼もプロレタリア美術研究所に学んでいる。他にもたくさんいるのだが、朝鮮からのプロレタリア美術研究所生も何人かいた。

 

 柳瀬正夢の4年前に実施された大きな回顧展の大きな分厚いカタログを見ながら、プロレタリア美術運動の勢いというものを考える。1900年生まれの柳瀬のアバンギャルドな展開や仕事の幅の大きさを思うとき、10年ほど後に生まれてきて、プロレタリア美術研究所にその青春が交差した彼らは、その才能が開花する前に特高警察にマークされ、酷い拷問と代用監獄によって死の恐怖を味わい、そこから逃げなければならなかったわけだが、戦争へと向かう時代と、その権力への抵抗を示した世代であった。それは今なお日本人の誇りとして記憶されるべきだ。のちに民主日本で大成し、成し遂げた芸術的成果の研究は又の機会に譲りたい。(1936年2月には右翼からのクーデター2・26事件が青年将校によって起こされ、この時代の社会矛盾の大きさが露呈した。)   

1931 年東京女子美術専門学校の友人

写真左から二人目山代巴、四人目は矢野綾子(堀辰雄の『風立ちぬ』のモデル)

五人目松尾ミネ子、上右- 伊藤孝子、下右- 赤松俊子。「1930 年代―青春の画家たち」創風社 よりその後、山代・松尾はプロレタリア美術研究所に入る(女子美は退学したと思われる)1930 年5 月14 日木更津にてという記入のある同じ写真を赤松俊子がもっていた(原爆の図丸木美術館:岡村さんから)