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平和主義者 ケーテ・コルヴィッツ

志真斗美恵 (しまとみえ)

 

理屈抜きに美しい

プロレタリアートの生活

 「わたしたちは、死者を想う わたしたちは、友を想う」ケーテ・コルヴィッツは、1917年元旦、日記にこう記した。

 それから百数年経った。わたしも、いま「死者を想い、友を想う」。戦争を欲する勢力が身近にあるように感じて、いっそう強くそう思う。

 ケーテは、1867年、プロイセンのケーニヒスブルク(現在はロシア・カリーニングラード)に生まれた。この時代、女性は美術大学に行けなかった。才能を認めた父親は、絵画の個人レッスンを受けさせ、成長すると、ミュンヘン、ベルリンの女子美術専門学校へ行かせた。

 苦学の末医師になったカールと結婚し、ベルリンへ転居。第二次世界大戦で疎開するまで、終生そこに暮らした。二人の息子・ハンスとペーターを生み、育てながら、画家としての仕事に生涯をついやした。

 ハウプトマンの演劇『職工』初演(1893)に触発されて制作した連作版画『織工たちの蜂起』(1898)は、大ベルリン美術展に出品され、反響を呼んだ。このデビュー作に対して、皇帝ヴィルヘルム2世は、職工の現実をあからさまに描いているからとメダル授与を拒否した。しかしコルヴィッツは、これ以後も、貧しいもの、虐げられた人びとのたたかいや悲しみを描き続けた。「わたしがプロレタリアートの生活を描くことへ向かったのは、同情や共感といったものではなく、それを理屈抜きに美しいと思った」からだと書いている。

 

 『織工たちの蜂起』の後、彼女は連作版画『農民戦争』を制作する。16世紀ドイツの農民のたたかいを甦らせるかのように。牛馬のごとく鋤をひく農民、鎌をもってたちあがった農民たち、そして積み重なる死者のなか、カンテラをかざし息子を探す女、とらわれて両手を縛られた人びと――かれらは絵のなかで生きている。

次男の戦死から10年完成した連作「戦争」

 表現主義絵画の運動の中で、コルヴィッツは悩みながら、みずからの芸術を確立していった。それに前後するヨーロッパの激動はそのまま彼女の生活を揺り動かしていく。

 第一次世界大戦が始まると、人びとは〈祖国防衛〉の意識にとらわれ、戦争に反対するものは、少数になっていく。若者たちはこぞって戦争に志願した。ケーテの2人の息子も例外ではなかった。両親の反対を押し切り、志願兵となって出征、次男ペーターは、戦場に出ると一週間たらずで戦死する。18歳であった。

 それを知ったケーテの悲しみ――志願することを許してしまった母親としての自省と苦しみは、彼女についてまわる。

 カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが虐殺されたことを知って、ケーテは「卑劣な、けしからぬ殺戮」と日記に記した。彼女は、ドイツ社会民主党を支持していた。二人が属するドイツ共産党のメンバーではなかった。だが、リープクネヒトの遺族からのデスマスクを描いてほしいとの依頼に応じ、死体公示所を何度も訪れ、死顔のスケッチをした。コルヴィッツは、政治的主張の枠に自分を閉ざしてこだわる狭い心の人ではなかった。作品を労働者に渡すことは画家としての権利だとして、「この時代の中で人びとに働きかけたい」と描き続ける。「生者から死者へ 1919年1月15日の追憶」と言葉を刻んだ木版画「カール・リープクネヒト追悼」は、深い悲しみの表現にとどまらない。彼女自身の悲しみは、抑圧された人びとすべての悲しみへと転換され、リープクネヒトをみつめる生き残った人びとは、追憶から出て未来への道を歩みだそうとしている。この表現は、いまも私たちの胸を打ち、深いところで芸術のありようを考えさせる。

 1919年には、プロイセン芸術アカデミー初の女性会員にえらばれ、アトリエも提供される。「ウイーンは死に瀕している」「パンを!」「2度と戦争をするな」等々、次々にポスターを制作しながら、彼女は、木版画連作『戦争』を完成する(1923)。1914年の次男ペーターの死から足掛け10年を経て、『戦争』を創造した。「犠牲」「志願兵たち」「両親」「寡婦1」「寡婦2」「母親たち」「人民」――この7葉からなる『戦争』は、戦場を描くことなしに戦争を描ききっている。 ヒトラーが政権を握り(1933)、ケーテはアカデミーを脱退、アトリエを追われ、作品の発表もできない状況に追い込まれていく。ゲシュタポ(秘密国家警察)の尋問をうけて、激しい恐怖に襲われる。にもかかわらず、彼女は、見知らぬユダヤ人女性の願い――死んだ夫の墓標をつくりたとの頼みをひきうける。その作品「たがいに握り合う手」は、妻と夫の握り合う手だけではなく、ケーテが勇敢に差しだした手でもあろう。

 

力強い最後の作品ケーテの遺言

 最後の作品「種を粉に挽いてはならない」を、彼女は、「わたしの遺言」ですと長男に語っている。母の腕の中から外を見ている子供たちの目は好奇心にみち輝いている。母は子供を守り、目を見開いて、命を奪おうとするものに立ち向かっている。年老いた女性が描いた作品であることを忘れさせる力強さである。 わたしは、ケーテが1919年元旦の日記に記した言葉をいまあらためて胸に刻んでいる。 「出発しよう、そして、歩き続けよう。手をたずさえ、離れずに、前を向いて」


ベルリン:ケーテ・コルヴィッツの墓前にて
ベルリン:ケーテ・コルヴィッツの墓前にて

志真斗美恵 (しまとみえ) 

1948年千葉県生まれ ドイツ文学専攻 

現在、東京理科大学非常勤講師

著書:『ケーテ・コルヴィッツの肖像』『芝寛 ある時代の上海・東京――東亜同文書院と企画院事件』