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市村三男三とハンス・エルニの平和ポスター

1955年7月ヘルシンキで開かれた平和のための世界大会のポスターを縮写したもので、スイスの画家ハンス・エルニ(1909年生)の作。
1955年7月ヘルシンキで開かれた平和のための世界大会のポスターを縮写したもので、スイスの画家ハンス・エルニ(1909年生)の作。

日本美術会会員 小番 つとむ(こつがいつとむ)

 練馬区小竹町のアトリエで、プロレタリア画家、市村三男三(みおぞう):(日本美術会会員・明治37年~平成2年)が制作・活動していた。市村の絵を初めて見たのは、鵜飼勲(郵政労働者・練馬郵産労活動家)が、「市村三男三という絵描きを、知ってるか?。凄いプロレタリア美術作家で、労働運動にも精通していて、死んでしまったが、小竹町に住んで居たんだよ」と、教えてっくれただった。「東京十健練馬会館のホールに市村さんの絵を飾るから観てよ」というので、行ってみた。題名は「脱穀」F80号の堂々たる絵だった。鵜飼さんがどうだ?というから、情景表現が上手いな、などと生意気ぶって、そう言ったものの気になったので調べてみたら、なんと大変な人ではないか! 第一回日本アンデパンダン展から二十九回展まで連続出品であり。展覧会委員に、永井潔や赤松俊子、井上長三郎や林 武、安井曽太郎、松本俊介、等々とそのメンバーに入っている。日美委員として活躍。戦前は矢部友衛と共に、プロレタリア美術運動に参加、プロレタリア研究所を立ち上げるなど、組織能力を持つ実践的活動家の絵描きであった。

市村三男三のアトリエ整理

 「欲しい物があったら、どれでも好きな物を持っていっていいよ! 全部、ゴミとして燃やされるのだから」、と鵜飼さんは、悲しげな目をして笑うのだ。私も悲しかった。「このイーゼルもか? 時代物だよ。市村さん、古道具屋から手に入れたのかなぁー」と言ったら、鵜飼さんが「矢部が、矢部友衛が使っていたものだよ」と言った。私は貰うことにした。スケッチブック、油絵はまだまだあった。「主な作品は、永井潔さんや新潟県立美術館の学芸員にも協力いただいて、150点ぐらいは行き先は決まったから、気に入ったものははこんでよい」という。このイーゼルに誰が使ったものかあとあと解るようにしておこうと思い立ち、ペイントで、日美会員 矢部友衛 市村三男三 小番つとむ と記入した。私も84歳になったし、そろそろだと思うので、日美の方々に御譲りしたいと思い、何人かの人に話をしたが、未だ特別な反応はない。今は民美に寄付して使っていただくかな、とも考えている。

 何よりも市村絵画が、郷里の新潟県立美術館に所蔵されてあること、50点以上も修復して頂き、新潟での遺作展の図録も素晴しく、うれしいが、なんと言っても、鵜飼勲氏という男の功績は、記録に値する。

ハンス・エルニ(1909年生)作ヘルシンキ平和世界集会のポスター

 あれから随分時間が経ったが、鵜飼さんも亡くなって、昨年の暑い夏だった。鵜飼夫人の妙子さんから電話があって、「・・市村さんがず~とアトリエに飾ってあったというポスターだと思いますけど、鵜飼が持って来て自分の部屋に掛けていたのですが、家においても役にたたないし、・・・」と言われ私がいただいた。ポスターには裏書きがあり、『1955年7月ヘルシンキで開かれた平和のための世界大会のポスターを縮写したもので、スイスの画家ハンス・エルニ(1909年生)の作。1955年8月 日本美術会』と記してあった。55年と言えば、私はまだ学生で、砂川基地拡張反対闘争が始まった頃だ。ヘルシンキでの平和のための世界集会に、日美から誰を代表派遣したのだろうか? 市村さんは、どんな気持ちでこのポスターを入手したのだろう。私の興味は広がるのだ。鵜飼さんはこの話を聞いていたから、持ち帰って飾ったことは間違いないと思った。日美事務局に電話で問い合わせたが、資料部でも、エルニの作家名はわかるが、そのポスター資料は無いと言う。仕方がないので、カラーコピーを事務局へ送り届け、我が家にある日美関係資料をめくり続けた。年の瀬も迫るある日、あった!見つけた。「ハンス・エルニの平和ポスター複製頒布。」と、「日本アンデパンダン展25年-歴史と作品 P121 1955 2月の下3行。」 市村の作品も在る、「第11回1959 P42左上『Y子さんの像(油彩)-市村三男三』」である。よかった、鵜飼さん、妙子さん、ありがとう。役に立っているような気がして、ホッとした。(こつがいつとむ)