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美術批評の未来と現状

宮田徹也 (みやた・てつや)嵯峨美術大学客員教授

我々は何も知らない

 私はこれまで美術研究を美術の専門家のみに理解されるだけではなく、多くの方々に興味を持たれるように工夫してきた。美術の理論を拡張したところでも結局はそこに留まってしまい、興味のない方々には届かない。法学や経済学、社会学といった学問からの視点が不可欠だ。かといって、そういった学問からの発想が本当に正しいのかも疑問となる。

 一方で美術が乱立する現代に、何を対象として批評を行なっていくべきかの根拠も見つからない。同時代の世界の最新の動向など、日本にはほとんど入ってこない。古澤潤たちが主催し夏に横須賀文化会館で開催される「ヨコスカ平和美術展」では、正に今日のヨーロッパから送られてくる版画が展示され、その人間味溢れる作品に感動する。

 しかし例えばクリスチャン・ボルタンスキーの大がかりな展覧会(新美術館|2019年6月12日-9月2日)を見ても、作品が余り良いと感じない。むしろ私は公立ではなくデパート経営の美術館で見たという記憶で、「カッコいい」と思い込んでいたのかもしれない。すると、J・ボイス、A・キーファーなどのことも、結局我々は何も知らないことになる。

 毎年新美術館で開催される「アンデパンダン展」と「白日会」の両方を見ている人は、どれだけいるだろうか。私は両方見ているが、そうするべきだとは言わない。全ての現代に制作される作品を展示する公募展、画廊を回ることができないし、これに海外、古美術、クラフト、工芸が加わると、私達は何を見て何を考えればいいのか、途方に暮れる。

繰り返してきた批評

 私は『美術運動』にこれまで現代美術を展示する場所の考察、アーティスト・イン・レジデンスの報告、「美術運動を読む会」の動向、1960年代前半のアンデパンダン展のあり方、神奈川臨調による県立近代美術館本館の消滅、国内の展覧会の状況、韓国の展覧会の展開、岐阜現代美術館での展覧会と報告してきた。私の、他の媒体の美術の記事の傾向も同様である。

 私は大学院時代、従来の美学美術史の作品分析に加えて音楽学、日本歴史学、童話|マンガ研究、現代哲学を加えた。修了後はアングラ演劇、前衛映像、暗黒舞踏、コンテンポラリーダンス、建築とデザインを含む環境芸術、現代音楽|ロック|ジャズ、活け花|人形劇の伝統と革新、工芸クラフト、様々な書評とその裾野を広げて批評を繰り返してきた。

無知を知る

 近年では科学、医学、医療、福祉、戦争学、サブカルチャーなどの新書を濫読し、J・ロック、A・スミス、T・ペイン、J・ケインズなどの法学|倫理学|経済学の基礎を学び直し、J・ミル、A・ニイル、F・フレーベル、霜田静志、皆本二三江といった教育学と、A・アインシュタインとS・ホーキングの物理学|宇宙論を新たに学び始め、小論を書いた。

 2019年はロック音楽の経済学、ホイジンガの歴史学、オルテガの社会学、ゲームの発想、カッシーラの綜合哲学、高橋眞司の戦争学、今道友信の美学を前提に、佐伯啓思の経済|法|歴史|社会学を学び、その上でスヴァンテ・ペーポなどのネアンデルタール人とホモ・サピエンスを区別する人類学という過去と同時に、AIの動向という未来の姿を追い求めている。

 このように学んでいくと、自分が如何に無知であったかを知らされる。時代の盛衰を直撃する社会構造が前提でなければ、今日の美術など語れるはずがない。1905年には相対性理論が発見され、物事の考え方が大転換されていたことにも気付いていなかったことにもなる。来るべきAIがどのように形成されてきたのかといった、人間の歴史も知るべきだ。

幾らでもある考えること

 様々な学問を学びその結合を話せば話すほどオカルト扱いされ、返って私が伝えたいことが伝わりにくくなる。それぞれの人達には人文、自然科学、数学的な化学などの学問の前提があり、そこに立脚した上での立場からの見解で生きている。人間の発生、宇宙の消滅といった今日の研究で解明されていない内容は、オカルトが全て引き受けている。

 例えば佐伯啓思はスミスやケインズなどの古典をしっかり読めばいいと言うが、佐伯の理論にはF・ソシュールの記号学、H・アレントの哲学どころか広告の理論まで含まれているので、経営経済学を学ぶ学生や歴史学すら学んできた社会人ですらも、佐伯の理論を解読することにはハードルが高いことであろう。

 また佐伯は、民主主義で不可欠なのは自分の身なり国家なりは自分で守るべきだと主張し、この提案は意義が挟めないほどに説得力がある。だからこそ、我々は平和を目的とした、確固たる「戦争論」をいますぐ発案する必要がある。生活とは、民主とは、防衛とは、攻撃とは、戦争とは、経済とは、文明とは、文化、美術とは。考えることは幾らでもある。

批評より広告か?

 精密な科学者達の発想は、確かに素晴らしい。しかし、例えばNHKスペシャル取材班『ヒューマン』(角川書店|2012年)を読むと、ホモ・サピエンスの化粧を「おしゃれ」(13頁)であると、現代の定義と同じに解釈している。首飾りは装飾品ではなく、当時では「芸術」や「必需品」であるという可能性を探る必要がある。死生観も忘れてはならない。

 小林雅一『AIが人間を殺す日』(集英社新書|2017年)では、2013年に英オックスフォード大学の研究者らが発表した『雇用の未来』のなかで、職が失われる可能性があるファッションモデルに対して「一体、ロボットの着た服を着たがる人がいるだろうか」(17頁)と問いているが、初音ミクを見れば充分に研究者の指摘が的確であるか分かるであろう。

 実証的なデータを重視する科学者の頭が固い、と私はいいたいのでは決してない。ここに想像力を駆使する芸術系のアーティストや研究者も含まれていくべきだし、芸術の分野からも、過去と未来の人間の解明を行なうべきであると考えているのだ。学問を乗り越えようとするからこそ学問以外を考え、未来に新たな発想を導入すべきなのである。

 私のこのような主張があったとしても、現状はどうであろうか。ボルタンスキー展の評を書いたので画像を広報事務局に請求したところ「展示期間中でなければ提供できない」と返信がきた。東京後の長崎、または今回のような批評で使用したいといっても広報事務局は覆さなかった。批評などいらない。広告ならよい。これが、常識となっていくだろう。