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アトリエ訪問 ~笹本忠志さん 焼津レポート~

「無言の少女」60 号不透明水彩 1971 年24 回アンデパンダン展
「無言の少女」60 号不透明水彩 1971 年24 回アンデパンダン展

ちょうど新春個展の最終日だった。慌ただしく訪問して、来客の間にお話を聞く。そして、撤去後にさほど遠くはないご自宅のアトリエに訪問した。展覧会があったので、整理してないよ~!って言われるアトリエに入ってた。その前に少し焼津を散策もして、どことなく私の育った三河の蒲郡と似た空気を感じて、懐かしいにおいを感じていた。新幹線を使えば静岡もさほど遠くはなかった。私より十歳上で来年3月で80歳という。お元気である。 2020年1月7日

木村勝明


■神田生まれが焼津へ

 笹本さん、東京は神田の生まれであった。父親の勤務先が蛇の目ミシンで、販売支店長含みの疎開で、静岡に来たという事であった。五人兄弟の長男で育った。家は静岡浅間通りにあってお祭りで毎年4月は賑やかだった。露店の人気スターのプロマイドを拡大機で引き延ばして、きれいに描いたり雑誌の挿絵の模写に夢中で小・中学生の頃はそれが自分をアッピールするもので、それが絵を描く始まりだった。静岡市立高校の美術部で森正一先生(日展)に指導されて、それが笹本忠志の今につながったらしい。森先生は対象に写生で迫る方法であった。1958年に電電公社に入社されて、労働組合の文化活動の中で、美術サークルを作り、職場美術協議会「職美展」などに出品。

 電電ビルの中にあった展示スペースで毎年作品発表をした。それがきっかけで知り合いになったのが今の笹本夫人。名作「無言の少女」のモデルは彼女で、当時電話交換手だった。

 1970年代頃が制作が最も活動的な時期、4つの展覧会を出品し続けた。日本アンデパンダン展、職美展、白日会展、平和美術展、車で毎回東京へ搬入・出と自らしたという。昭和57年焼津市に転居新築したが創作意欲・体力・お金などすべてに充実していた時期なのだろう。

 今は絵を教えることに重きを置いているらしい。公民館・朝日カルチャー・自宅のアトリエなど4か所で生徒さんに絵画指導されている。今はそれが美術活動の中心になっているといわれる。

■笹本忠志絵画の魅力

 笹本さんの絵画の魅力は何だろう?やっぱり写生の迫真性だろうか。対象と向き合ってそれを全身で受け止めて、一気に描き留める、その真摯な姿勢が、時に素晴らしいリアリティーを生むのではなかろうか?いつもそうとはいかないが、体力・気力が充実している時に、感動をもらう対象が見つかると、それが笹本さんの至福の時なのだろう。

 ■時代は変わる

 時代が変わり、なかなかそう簡単でない現実が出現しているという自覚もされている。しかし彼の年代でSNSやPCを使う人は少ない。そのおかげで「美術運動」の作業も手伝ってもらっている。時代をしっかり組合活動や平和運動などもやりながら支えてきたという自負が在るからなのだろう。コツコツと今でも我々を助けてもらっている。そういう意味からも、今回アトリエ訪問出来て、皆様に紹介できるのは無上の喜びである。