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書評◆久保田勝巳作品集「地に生きる」(発行:2018年3月 発行者:久保田勝巳)

北野輝(美学・美術批評)

火の海の中で 185×185 ㎝ 1995 年
火の海の中で 185×185 ㎝ 1995 年

 これは久保田勝巳さん(1936年~)の文字通り「画業生活60年の集大成」となる作品集である。布張り厚表紙の外装、200ページ余の本体の厚さと重みは、そのままこの作品集の内容の充実ぶりを表している。この作品集そのものが、何事にも手抜きせず全力で粘り強く取り組んできた彼の人となりを物語る「作品」となっている。

 

 収録された作品図版は青年期から2018年に至るまでの155点に及び、詳しい作品リストも付けられている。これにより彼の全画業とそこでの変化や発展をつぶさにたどることができる。また注目したいのは、彼が折々に発表してきた文章(「私の作品について」12篇)も収録されてことだ。そこには「20代の制作」から始まり「美濃赤坂シリーズ」「おやじシリーズ」などを経て現在進行中の「巨樹シリーズ」に至る、制作の動機や意図、表現手法、さらには父親の略伝などが縷々記されており、彼の作品とその背景をより深く知ることができる。一井建三氏(以下、職責・身分略)、真壁輝男氏、志賀和夫氏らの彼の作品と人物に誠実に向き合った寄稿文も、久保田理解にとって読み落せない。

 ところで私自身も同年齢の友人として拙稿「久保田勝巳の絵画とリアリズム」を寄稿しており、刊行された本書によって改めて拙稿の自己点検を迫られている身である。しかしここでは、本書を手にすることで?本書に触発されて?改めて確認できたことを述べてみることにしよう(なお本書掲載の拙稿について忌憚のないご意見・批判をお寄せいただきたい)。

 久保田勝己さんの画業を貫いているもの。それはこの作品集のタイトル「地に生きる」に的確に集約されている。社会的現実に目を向けその実相に迫ること、しかも地域に根を張って生きる身近な無名の労働者や庶民の生活と心に寄り添って描くこと。彼の追究したリアリズムは地域性と不可分である。それは1973年から始まる「美濃赤坂シリーズ」以来、一貫したものとなった。この「赤坂シリーズ」で、彼は「青年の憂鬱シリーズ」の自閉的世界から脱して、目前の現実に目を向け、石灰粉塵に覆われた公害の町(岐阜県大垣市赤坂町)の現実に向き合って描くことになった。

 だがこのシリーズの作品をつぶさに見てみると、それが公害や労働災害への批判として一面的にとらえきれないことが解る。むしろそこで彼が描こうとしたのは、「近代化」に立ち遅れてきた過酷な悪条件のなかで生き死にしてきた人々の姿、またその人々の苦しみや心の奥底にまで届く作品であろう。たとえば老朽化した粗末な建屋の廃墟めいた風景が一種の尊厳とモニュメンタリティをそなえているのは、そこで働いてきた人々への作者の共感と敬意が潜んでいるからだろうし、多くの労働者の汗と血の染み込んだ赤坂鉱山の歴史の暗黙の証言ともなっているからだろう。

 「赤坂シリーズ」の後半では、老朽化した建屋が撤去された新しい生産現場で働く人々の姿が描かれるとともに、採掘と石灰生産で事故死した人たちの死を「尊厳死」として追悼・顕彰し、記憶に留めることに費やされている。その過程で浮上した「愛と死」のテーマは、「おやじシリーズ」以下の各シリーズにおいて変奏を伴いながら受け継がれている。さらにその展開は、「巨樹シリーズ」において苦難にあえぐ原発事故の被災者への共感(エンパシー)と「生きること」への呼びかけに向けられている…。

 以上は、この「作品集」を手がかりにした久保田芸術についての私的な要約であり序論である。しかしそれは一種の「物語化」でもあり、この「物語」の中に久保田勝巳さんの画業が収まりきれないのは確かであろう。

多少補足したい。

 「青年の憂鬱シリーズ」から「美濃赤坂シリーズ」への転換は、久保田勝巳さんの社会的現実に目を開いた「(生活)態度としてのリアリズム」に対応した「(芸術)方法としてのリアリズム」への転換であった。それは言わば「モダニズムからリアリズムへの回帰」とも言えよう。しかし、「憂鬱シリーズ」に「大人たち」や「世間」の虚飾や欺瞞、人間疎外の状況への若者の批判や風刺の眼差しを感知することができる。この青年期の作品を「久保田以前の久保田」として切り離さないようにしたい。それは現在の若者たちの表現を理解する上でもおそらく必要だろう。

 久保田さんは「描き手と鑑賞者の連帯、共感」を追究してきた。鑑賞者なしに芸術は存在しないが、彼にあっては鑑賞者とは不特定多数の鑑賞者ではなく、何度も足を運び交流を深めた現地の人々であり、彼らの心に届かない作品は存在しないも同然なのだ。だから共感と連帯の所産としての作品は作者個人の所有物にとどまらず地域(「肥後赤坂」)の人々との共有物、つまり「コモン」となるべきものなのだ(この「コモン」の獲得は容易ではないが)。また「地歌舞伎」の場合、構造的には素人の演者(生産者)が同時に鑑賞者(享受者)であり、「見たいもの」と「見せたいもの」が一致している。地歌舞伎の公演は「コモン」の実例に他ならない。これらの例は、現代の美術(家)が「表現の自由(自律)」との結合においてどのようにして新たに「コモン」を回復するか、今日的な課題を指し示しているように思われる。

 久保田さんの絵画制作が視覚的対象の再現描写を基本としていることは明らかである。しかしまた、それが近現代美術のさまざまな要素や手法を意識的/無意識的に摂取し同化して表現世界を拡大してきたことも明らかである。「モダニズムからリアリズムへの回帰」を果たした彼が、モダニズムの摂取や参照によって「彼のリアリズム」を発展させてきたのも確かであろう…。

 この『久保田勝巳作品集』を一つの契機として、現代リアリズムのあり方と可能性について議論と実作が発展することを期待したい。