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あいちトリエンナーレ検閲事件とその後、その先

森下泰輔(もりしたたいすけ) 美術家/美術評論家

「表現の不自由展:解放への長い道程 Non-Freedom of Expression Exhibition: A Long Trail for Liberation」台北當代藝術館 Installation view 写真提供:表現の不自由展実行委員会、写真撮影:MOCA Taipei
「表現の不自由展:解放への長い道程 Non-Freedom of Expression Exhibition: A Long Trail for Liberation」台北當代藝術館 Installation view 写真提供:表現の不自由展実行委員会、写真撮影:MOCA Taipei

 2019年に騒然となったあいトリ「表現の不自由展・その後」検閲事件の本質は何も解決していない。あいトリのひとつの判定基準は大村実行委員長のしきりで参集した「あいちトリエンナーレありかた検証委員会」(のちに検討委に改名)だろう。座長を国立国際美術館長・山梨俊夫が務めた。検証委は同年12月18日に結論である118pにわたる最終報告書を提出した。要約は概ね次の通りだ。

 平和の少女像(慰安婦像)、天皇肖像の焼却に関しては、「クレームはあったが、展示すること自体に問題はない」「(表現の不自由展・その後実行委の)キュレーションは問題で、作家の意図がうまく伝わっていない」「津田大介芸術監督は開始前に企画を断念するか、または、あいトリの正規のキュレーターにまかせるべきであった」。検証委は、「展示自体は無問題だが、キュレーションが悪いので騒動になった。事前に専門のキュレーターにまかせれば事態は回避できた」といっているのである。

 果たしてそうか? 第一にいわゆる美術専門のキュレーターにゆだねた場合、最初からこうした展示はないだろうからそもそも論点がずれている。百歩譲ったとしても、たとえばコロナ禍にウェブサイトを駆使して強行されたヨコハマトリエンナーレ2020のように、政治性アートを無解説でそれとなく忍び込ませるような無難な展示ですませていたことだろう。つまり、「断念」でも「正規キュレーター」にまかせても、結果は不自由展・その後自体の開催中止にいきつくという寸法だ。

 検証委の言う「キュレーションがだめ」ははじめから不自由展・その後実行委をピンポイントではずし、少女像や天皇作品をパージする方便のようにしか聞こえない。国際展における「展覧会内展覧会」では狭小な空間に資料展示のように多量の展示物があるのは普通だ。こうした新形式の表現は、個々の作品内容ではなく企画意図のベクトルを見るアート作品なのである。加えて展示中止の主たる理由だったはずのセキュリティ対策に関してはほとんど検証されないお粗末ぶりだった。

 さらに、この問題は同年10月のひろしまトリエンナーレ・プレ企画展「百代の過客」に引き継がれる。天皇像焼却騒動当事者、大浦信行の検閲された版画全点、小泉明郎「反天皇デモ」映像作を展示し講演会も開催した。これが右派の知るところとなり、トリエンナーレ本番の展示前にクレームをつけてきた。

 ひろトリにおいては、事前検閲委「アート委員会」を新設。あいトリ検証委結論「はじめから断念すればよい」は、堂々と日本現代美術の定跡となってしまった。で、結局は美術家、関係者が反発し「新型コロナ禍により中止」に至った。権威・権力は表立って検閲したとはいいたくないため、新型コロナはこんな形で口実に使われるのである。

 さて、あいトリ事件の背後にあっても、芸術論としての争点は皆無であった。少女像のソーシャリーエンゲイジド部分の「社会と芸術」をめぐる論点、主権在民と天皇タブーないし美術館をめぐる論点、「靖国神社と反戦」「平和憲法」など、このようなじかに美術・芸術にかかわる基幹の問題の深部が少しも掘り下げられずじまいだったのだ。

 右派の論点はいかなるものか? たとえば不自由展否定派の美術史家・田中英道は、「左翼グローバリズムとの対決」(扶桑社刊2020)のなかで、「(あいトリのような)現代美術は、デュシャンは認めるが、以降はデュシャンを超えられず無価値だ」とまで言い切り、不自由展はおろか現代アート全体を否定してしまっている。クレメント・グリーンバーグはすでに「アヴァンギャルドとキッチュ」(1939)で、「ピカソのような前衛芸術は主体的に勉強しないと理解できないもので、だからこそ価値がある。一方で大衆が見てすぐに理解できるものはキッチュだ」と分類した。日本は印象派までは人気だがピカソの抽象から理解不能になっているといった感すらあり、右派の理解度はキッチュそのものだといえよう。不自由展・その後否定派の論点としてもポピュリズムを前提とするそのような大雑把なものなのだ。ましてや現在世界的な潮流となっている政治性アートを理解するのは到底不可能だろう。

 政治性アートといっても、そこは芸術である。純政治的な存在であるはずがない。芸術の基本、理想的なイデアを捉えるという思想は、現代においてもルネサンス以来美術の本質だ。不自由展が抱える、慰安婦・朝鮮問題、原発、靖国、天皇などの諸問題を、イデアとしての人権、人間存在、人道主義、自然権などから形而上学的に思考しようというものであって、ただ政治的なことを表現しているわけではないのだ。ここをキッチュの視点で無前提に見た場合、著しい誤認が生じる。

 もう一つの問題は、政治権力の一方的な介入にある。内閣官房、外務省は、昨年、ベルリン・ミッテ地区に建った少女像の撤去問題に執拗に干渉、抗議していたり、2019年ウィーンで開催された「ジャパン・アンリミテッド」から外務省の公認をはずしたりと、現代美術をめぐる動向にさかんに介入してきた。「表現の不自由展 台北展」の際も外務省筋が任意の圧力を加えたとされる。この台北展は、台北当代芸術館からオファーされた展示。表現の不自由展実行委(アライ=ヒロユキ、岡本有佳)キュレーションだ。あいトリ出品作の何点かに過去の検閲の歴史を加えた構成。東アジアを中心とするポストコロニアルの視座で同展を捉えていた。

 

 一方で、2020年オリンピック・パラリンピックを当て込んだ文化庁の官邸主導事業「日本博」では、縄文やアニメ、出雲と大和などを軸に「日本すごい」プロパガンダを連続企画していた。国威発揚に文化を露骨に利用している姿がみえる。先住民の縄文を日本古来の原点などとするとんでも歴史修正主義もはびこっている。機運を盛り上げて憲法改正に持ち込みたい保守勢力は、左派的な戦後民主主義リベラリズムを弾圧しようとしているように映る時代の趨勢である。実際に2022年よりあいトリは国際芸術祭「あいち2022」と名称変更されるが、背後には自民党からの圧力があったとされる。

 実はこうしたことは明治以来幾度か繰り返されている。明治20年を軸とする国粋化による洋画排斥運動、大正末期のアナルコサンディカリスム的芸術、プロレタリア美術運動に対する弾圧。戦時期におけるシュルレアリスム弾圧などだ。美術評論家・日夏露彦は、日本近代美術を「上からの近代化」とし、「つねに公が上意下達で文化を飼いならしてきた」と看破するが、管理できないものを弾圧する傾向にあるといえよう。 そのあたりを著した足立元「裏切られた美術」(ブリュッケ刊2019) 「前衛の遺伝子」(ブリュッケ刊 2012)では、日本美術会もさかんに言及されるが、明治・大正から昭和にかけて日本近代美術史の権力主導による作為の軌跡を暴露している。

 戦後芸術の自律性の瓦解と欺瞞に関し、単独者ともいうべき美術家・富山妙子は、「解放美学」(未来社刊 1979)でブルジョアモダニズムを切って捨て、真の人民解放のために美術はあるべきであると、政治性美術史からの抵抗を表明する。日本美術史の主流からは大胆に距離を取り狙い撃ちしてくる視点は痛快であり、今日のソーシャリーエンゲイジドアート出現を40年ほども前に予見している。

 

 何度目かめぐる政治の季節。芸術・美術の自律確立のため、筆者も「表現の不自由展東京実行委員会」に参加することとなった。「表現の不自由・その後」のさらなる先へ、解放を希求しながら新しい美術の未来を模索することになろう。


森下泰輔(もりしたたいすけ) 美術家/美術評論家

著作に「美術評論2001」(ギャラリーステーション)。

「しんぶん赤旗」で美術批評を14年務める。

美術家として、「遷都1300年祭」公式展示(平城宮跡)やバーコードを用

 

いた資本主義主題作品を制作。表現の不自由展東京実行委員。