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「少女像」について思うこと

浦川登久恵(うらかわとくえ)朝鮮近代文学

 『美術運動』No.148 に2019 年のあいちトリエンナーレ「表現の不自由展」をめぐる特集が組まれていた。ここではそこで展示された慰安婦を象徴しているという「少女像」について少し考えてみたい。私は「少女像」をいたずらにこうした場から排除しようという勢力に与するものではないが、「少女像」の扱われ方や、慰安婦問題に対する韓国政府の姿勢や運動の進め方にはかなり違和感を覚えている。

 

  私が初めて「慰安婦」の存在を意識したのは今から40 年以上前、学生時代に観た『沖縄のハルモニ』(山谷哲夫監督、1979 年)という映画だった。7歳の時に一家離散し、他人の家で子守などをして育った貧しい朝鮮の女性が女衒にだまされ、従軍慰安婦として沖縄・渡嘉敷島の特攻基地で働かされた体験を淡々と語る、という内容だった。彼女は戦争が終わっても朝鮮に帰らなかった。彼女には帰る場所がなく、帰っても性道徳に厳しい朝鮮では蔑視にさらされてしまう。こうした「慰安婦」についての事実は歴史の中に埋もれて行ってしまうのだろう・・・若かった私は、映画の内容をそう理解した。

 そう思っていたので、1991 年に金学順さんの告発にはじまりこの問題が大きく取り上げられるようになったとき(韓国ではその前年に運動体「挺対協」が結成されていたが)、私は少し意外な気持ちがしたのを覚えている。なぜ今?何かの力が働いて?と感じたのだった。その後、周知のとおりこの問題は日韓の間で大きな政治問題となり、30 年を経た今も「解決」となっていない。そうした中、「少女像」は2011年にソウルの日本大使館前につくられ、その後何体も製造されて世界各地に設置されている。

 この像に、私は「ミランダ」を連想してしまう。今から90年近く前、アメリカの政治学者メリアムは権力基盤として情緒に訴える「ミランダ」と知性・合理性に訴える「クレデンダ」を挙げて説明した。「ミランダ」は国旗、国歌、儀式、記念日、芸術作品などによって大衆を情緒的に扇動する。知性に訴える「クレデンダ」より支配効果が高いという。「少女像」は、日本帝国主義の横暴による民族の受難を想起させる象徴であり、きわめて情緒的に民族の怒りを掻き立てる装置だ。権力基盤、とは少しずれるが民族の受難を情緒的に効果的に訴える、という意味で「ミランダ」であるといえるだろう。そもそもなぜ「少女」の像なのか。実際には二十歳を越えた女性たちがたくさんいたという証言がある(朴裕河『帝国の慰安婦』)し、『沖縄のハルモニ』のぺ・ポンギさんも日本に渡ったのは29 歳のときで、十代のときに結婚も経験していた。「少女像」は、ともすれば中学生ぐらいにも見える年ごろの純真無垢な顔で、端正な民族衣装のチマチョゴリを着ている。慰安婦の少女時代をモチーフにした、と作者は語っているそうだが、ここから連想される、こんないたいけな少女が無理やり連れていかれて蹂躙されて・・・という型にはまった被害者像は、何十年もの間人々があまり関心を寄せることがなかった慰安婦問題を「民族の大問題」という共通認識にまで高めるのに十分な役割を果たしたと言っても過言でないと思う。

 

 91 年に最初に実名で名乗りをあげたとされる金学順さんは、「生活が苦しくて14 歳のときに母親に妓生の検番に売られて・・・」と語っていた。この問題には植民地支配という時代状況のもと、貧困、女性への差別、当時の性道徳、中間業者の存在、などさまざまな要因が絡んでいる。逃げ場のない戦地の異郷に追いやられた彼女たちは、心身ともに過酷な環境に置かれながらも、己を保とうとたくましく生き抜いた人も多かったことだろう。「兵隊の方がひもじかった、私たちは炊事場にいたから」とぺ・ポンギさんは笑って語り、他にも「軍人たちもかわいそうだった」と語る慰安婦の証言もある。だがそうした証言は表立って取り上げられることなく、絶対的な被害者と絶対的な悪である加害者(日本)という構図のみが強調され、ひたすら虐待・蹂躙された「かわいそうな」少女たちの記憶が「少女像」と連動して増幅し伝えられ、「少女像」自体に憐憫の情が注ぎこまれる。だからこそ、この「少女像」がバスに乗せられソウル市内を見て回る、それに当時のソウル市長も同乗する、というパフォーマンスも成立したのだろう(2017 年)。

 慰安婦問題は、あまりにも政治利用されてしまったというのが私の感想である。純粋に問題に取り組もうという人々の善意も取り込む形で。日本帝国主義の残虐性をこれによって知らしめる、日本を糾弾し謝罪させる、という意図が目的化され、真相究明に関してはいい加減な部分も多かったと思う。勤労動員の挺身隊と慰安婦の語を長い間混同して使用していたり、元慰安婦の女性たちの証言も年齢や期間、経緯などについて整合性がとれなかったりしたものも多々あったが看過されてきた。韓国政府は、慰安婦であったという一部のおばあさんたちを海外の議会で証言させ、ローマ教皇やアメリカ大統領などの要人が来韓したときは最前列に座らせ会わせるように取り計らい、はては「慰安婦をたたえる日(8 月14 日)」という記念日まで作った。日本政府が総理のお詫びの手紙を伝えても(2001 年)、「当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた責任を痛感している。心からおわびと反省の気持ちを表明する」という声明を発して10 億円の拠出を決めても(2015 年)、「解決」には至らなかった。「真の謝罪ではない」「天皇陛下に謝ってもらう」「総理大臣に私の前で跪いてもらう」などと元慰安婦のおばあさんたちは叫び、少女像の死守が継続される。運動の主導者が寄付金を私的に流用していた、という疑惑が持ち上がっても、基本的にこの日本徹底糾弾の姿勢は変わらないと伝えられている。着地点はどこにあるのだろう。

 

 韓国では、運動と政治が、慰安婦であった彼女たちを政治目的で「英雄」にまつり上げてしまった。それは彼女たちが本当に望んでいたことなのだろうか。自分のつらい体験を後世のために残しておきたい、という人はぜひ残してほしい。だが、そのうえで、老後の生活を、経済的にあまり不安なく、そして過去について好奇や蔑視にさらされることなく穏やかに暮らしたい、というのが多くの人間が望むことではないのか。あれこれ考えると、あの「少女像」が平和の像として建てられ続けることに、私はどうしても違和感を覚えずにいられない。


浦川登久恵

1958年横浜生まれ。現在、熊本大学、鹿児島国際大学などで非常

勤講師として韓国語・韓国文学の授業を担当。

著書『評伝 羅蕙錫(ナヘソク)ー女性画家、朝鮮近代史を生きる』,訳書に『韓国文学ノート』『東アジア市民社会を志向する韓国』(いずれも共訳)などがある。