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表現の自由・異論 なにが差別を温存するのか

アライ=ヒロユキ 美術・文化社会批評

 20 世紀の価値観では検閲や規制は絶対悪で、その否定は絶対善とされた。だが、現代の「表現の自由」をめぐる状況はもっと複雑だ。おそらくこの問題に対し、表現ジャンルでもっとも後衛は美術だろう。

 マンガ表現の自由を擁護する活動でも知られるマンガ家の赤松健は(本稿の執筆時点で)参院選からの出馬を予定している。所属は自由民主党だ。

 いま文化施設では、政府に批判的、あるいは負の歴史を告発する言論や表現は検閲なり規制をしばしば受けている。新聞メディアへの圧力も強い。その元凶のひとつは自民党だが、赤松の出馬はいかなる思考の倒錯かと訝しむ向きも多いだろう。しかしこれは単純な方便や詐術でなく、そこに「表現の自由」がはらむ複雑な問題がからんでいる。

 マンガ表現(アニメなど多種多様の視覚表現も含む)には、「萌え」や「エロ」などジェンダー的観点から問題のある表象が散見される。これに対するフェミニストらの批判、あるいは別種の差別や不適切ゆえの批判に対し、攻撃的応酬も交え断固峻拒する人々を「表現の自由戦士」と呼ぶ。表現の無制限の自由は、差別表現も含むため、むしろ保守勢力に逆用される面もある。日本政府や自治体の広報などの萌え表象の活用は、根底に制度的差別があるゆえだ。そこにある種のおたくが乗っかり、自由を声高に叫ぶ現状がある。

ジェンダー不均衡との筆者批判がSNSで炎上した、 千葉市政 100 周年のポスター(本宮ひろ志・画)。
ジェンダー不均衡との筆者批判がSNSで炎上した、 千葉市政 100 周年のポスター(本宮ひろ志・画)。

 千葉市市政 100 周年ポスターはマンガ家の本宮ひろ志が起用されているが、土建的男性の太腕で千葉市が築かれたような表象イメージで成り立つ。筆者がツイッターで「いかにも本宮ひろ志の世界観だが、老若9人のうち女性が幼女2人だけはあまりにもジェンダー・バランスが不均衡ではないか」と書いたところ炎上した。「フェミタリバン」とも罵られた。これはマンガ家の過誤でなく、千葉市の図版選定と意図が間違っている事例だ。

 本宮の作品を探せば、おそらくは使用にふさわしい、男女平等的な趣の図版は幾らでもあるだろう。公的空間の表象には、公共性と使用目的に的確に合致する図像が求められる。しかし、表現の自由戦士はその桎梏が表現の自由を奪うという。最近は、温泉地域おこしの「温泉むすめ」、三重県の海女の萌え化「碧志摩メグ」など、似た事例は多数ある。「真面目な話、日本が自由な表現の最後の砦になりかねないと思ってるんですよね~」とは、赤松支持者のツイートだ。

 ここで論点は3つある。表現が無謬無垢でそれ自体無条件で肯定すべきものとの誤解、市民の共有理念でなく各人の利害と嗜好に基づく複数の「表現の自由」、表現の公共空間での使用と私的鑑賞の区別への無理解、だ。

 

表現の自由が他者、特に持たざるもの、少数者を傷つける可能性は、マンガ表現に限らず、どの表現にもある。もちろん美術表現もだ。美術界でも最近は表現の自由が論じられるが、主要トーンは表現の自由戦士と変わらない。「産業」全体の利害として、美術表現の性善説に基づく自由肯定論が主張されている。マンガ表現だけでは不公平なので、美術表現の「問題視されうる事例」を紹介しよう。

 2012 年、国際交流基金はモルディヴで「Breathing Atolls(呼吸する環礁)」と題した日本作家との交流展を開いたが、軍事クーデター直後のため、現地アクティヴィストから「自由のないところに表現もない!」と政治利用を批判された。2013 年、アート・バーゼルでの川俣正がブラジルの低所得者住居を模した《ファヴェーラ・カフェ》は、富裕者による貧困者の表象搾取だとオキュパイされた。

 

 2010年、カオス*ラウンジはSNS「ふたば☆ちゃんねる」のキャラクター「キメこなちゃん」の無断引用、また冒涜的行為が批判を浴びた。2018 年、写真家の荒木経惟によるモデル虐待が明らかになり、海外では広く報道され、抗議行動も起きた。2012 年、森美術館での会田誠展にフェミニストらから抗議があった。

 丹羽良徳の《ルーマニアで社会主義者を胴上げする》は共産独裁政権が災禍をもたらした国でのパフォーマンス。岡本光博はかつて日本の植民地、台湾で石燈籠や神社の一部を復元する《橋仔頭神社境内再現プロジェクト》を実施した。飯島浩二の《カンシカメラメカシ(仮題)》は、ドヤ街で知られる大阪・西成の5つの商店街の防犯カメラを造花やおもちゃで装飾し、意識喚起するもの。

 上記の大半は筆者が別媒体で既に論じているが、その是々非々はここで論じない。このような事例は美術界でまず議論にならない。仮にあったとしても、一面的に、肯定的議論に陥る傾向がある。被害者あるいは被傷性に留意した、多面的、複合的、公平な議論なり批評は倫理上必要であり、また多種多様な「正義」が叫ばれている世界情勢への応答性でもあるだろう。否定か肯定かの単純な二元論で解決しないことも指摘したい。

 一方、あいちトリエンナーレ 2019 の「表現の不自由展・その後」(およびシリーズ展示)が暴力的な表現との指摘もある。日本軍「慰安婦」、戦争/植民地責任、天皇制を美術表現のモチーフや主題に用いることが、日本人の心性なり民族性への侮辱や挑発との主張だ。現に表現の自由戦士系の物書きの言葉に「『表現の不自由展』中止問題と『萌え絵』忌避問題は同じ次元で扱われるべき」なるツイートがある。こうした理解の根底には、善悪、公共性や私的空間、歴史上の真偽など、さまざまな観点での(文化)相対主義がある。

 あいちトリエンナーレ 2019 では、社会の分断を克服するため対話が必要と主張された。その対話は被差別者と差別者との間のもので、被傷性や(権)力の不均衡は無視されている。こうした相対主義は結果的に差別などの社会矛盾を温存する。相対主義の対話は「表現の不自由展・その後」への批判とからめて主張されることが多かったが、主張した作家らは当時「Jアート」と左派系から呼ばれ批判された。言論や表現各々は等価でも平等でもない。そこに潜む権力構造を直視する必要がある。いま海外の公共空間の人物像が数多く攻撃、撤去されている。イギリス・ブリストルの奴隷商人、エドワード・コルストンが代表例で、差別制度の加担者が標的とされている。一方、2016年にニューヨークの公園設置の委嘱彫刻にアーロン・ベルが奴隷制批判の意味を込めたところ、強制修正の検閲を受けた。このふたつを同列に見てはいけない。

 

イギリス・ブリストルのザ・センター にあった奴隷商人のエドワード・コ ルストン像は、2020 年に市民の手 で引き倒された(現在博物館で展 示)。(ウィキペディアより)
イギリス・ブリストルのザ・センター にあった奴隷商人のエドワード・コ ルストン像は、2020 年に市民の手 で引き倒された(現在博物館で展 示)。(ウィキペディアより)

 日本ではリベラル勢においても、ヘイトスピーチにも表現の自由を認める議論が一定の広がりを持つ。被差別者と差別者の言論を同列に遇することは、前者を傷つける。ところが海外では事情は異なる。

 ドイツでは刑法 130 条の民衆扇動罪により、差別による憎悪煽動(ヘイトスピーチなど)やホロコースト否認は罪となる。同様の法律はフランスほかヨーロッパ各国にある。ドイツの例は「公共の平穏」を守るためとされるが、それだけではない。ドイツ連邦共和国基本法(憲法)の第一条「人間の尊厳は不可侵である」に依拠するという。

 日本の法解釈では、差別や侮蔑の罪の立証には個人あるいは特定の社会集団の法益(利益)が必要とされる。日本国憲法では、尊厳や権利は抽象的な「人間」(人類)でなく飽くまで具体的な個人に帰する。しかしドイツでは人類全体を法益とする考えがある。

 ホロコーストは人類全体の問題であり、被害者への賠償だけでなく、社会全体の記憶の継承、歴史問題も肝要となる。そうした歴史問題に関わる法を特に記憶法という。

 韓国では軍政府による民衆弾圧の光州事件(1980 年)に対する歴史歪曲を罰する「改正 5・18 民主化運動特別法」(5・18 歪曲処罰法)が 2021 年から施行した。光州事件は現在の韓国民主社会の出発点であり、かけがえのない社会的記憶だからだ。その点で、日本国憲法は現状では不十分、不完全であることに注意したい。

 世界の法思想、あるいは「正義」を掲げるアクティヴィズムから窺えるのは、負の歴史と被傷性の記憶に取り組むことが政治的公共性であり、それを礎にしてこそより良い民主主義が実現するという考えだ。そこでは言論も表現も、個人のみに帰する、収斂するのでなく、社会と密接に関係した公共的存在だ。

 しかるに日本の表現や言論は個人の権利の発露であり、その無制限の行使や権利を良しとする「思想の自由市場」に依拠する。これは弱肉強食の資本市場の欠点をそのまま受け継ぐもので、新自由主義(ネオリベ)に近しい。

 

  日本の美術界も個人と業界の利害を第一義とし、またネオリベ的価値観と共存状態にある。そこに少数者を、複数性を活かす公共性の思想はうまく根づいていない。ここに問題の根幹がある。


アライ=ヒロユキ

美術・文化社会批評。美術評論家連盟会員/国際美術評論家連盟会員。著作に、『検閲という空気』『天皇アート論』『宇宙戦艦ヤマトと70年代ニッポン』(社会評論社)、『オタ文化からサブカルへ』『ニューイングランド紀行』(繊研新聞社)、『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』(岡本有佳共著、岩波書店)、ほか