白川昌生(しらかわよしお)美術家
2021 年 7 月 17 日から 9 月 5 日まで、埼玉にある丸木美術館で個展「ここが地獄か、極楽か」を行った。太平洋戦争はどういうものであったのかを、地獄図的な絵と、当時の標語を展示して戦争への国民的狂気の姿をみせたかった。それと現在、日本の中で勢力を拡大し、政治運動にもなってきている歴史修正主義者たちの存在を告発することも行った。歴史修正主義者にとっては、まだあの戦争は終わっておらず、日本は敗戦などしてない、だから戦争前の時代へもどるべきだという妄想がその中心にあるから、その視点から太平洋戦争をみると侵略戦争でも植民地戦争でもなく、聖戦であって、自分たちは戦争にまきこまれてしまった被害者であり、すべてにおいて正当性は自分たちにあるという主張になる。その彼らが、今求めているのが憲法改正であり、それによって敗戦後にアメリカから押しつけられた日本国憲法をすてて、かつての大日本帝国憲法へ回帰する、アメリカから押しつけられた民主主義をすてて、かつての専制国家へ回帰する、「日本の誇りをとりもどす」ことを実現したいという政治運動へと変容してきている。
つい先ほど衆議院議員選挙が終わったが、まさにこの戦前回帰への姿が結果として出現してきたと私はみている。
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展―その後」への出品
私は 2016 年に愛知トリエンナーレの「表現の不自由展・その後」に作品を出した。私が出品したのは、群馬の森にある「朝鮮人強制連行追悼碑」の布でコピーした立体作品である。公園にある碑は、碑の前で政治的活動をしたという理由で撤去されるべきと、群馬県議会で決定されたため、碑を守る会と現在、裁判中になっている。90 年代後半になってからは、こうした戦争碑にまつわる撤去、文字の削除、他の作品への交換(交換という名目での撤去)などがおこってきている。日本会議が政界をうしろから押しつけるようにして、戦争碑を全国から消去しようとしている動きがはじまり、その成果のひとつが群馬の碑に露出してきたということなのだ。
私は 93 年から「場所、群馬」という活動をはじめてきた。日本中にひろがり、はじめから普遍性をかかげて美術作品をつくっていくアメリカ・フォーマリズムの作品制作方法とその定着に反対し、具体的な場所、地域の風土、事件、歴史、人物等々をとりあげて作品をつくることを提案して実践してきた。
歴史的に考えれば、アメリカ・フォーマリズムも、20世紀はじめからはじまり、冷戦体制の終わりまでの時代の中でつくられたひとつのイデオロギーであり、美術をみるひとつの理論でしかないと私は思っており、それひとつですべてを説明できる大理論、総合理論は美術においてはないだろうと私は考える立場をとっている。多様な表現があり、多様な理論があるのが普通なのではと考えている。70 年代以降の日本は、アメリカ・フォーマリズムにつかりすぎで、その多様性を見てこなかったし、表現の現実、具体性を見ないで抽象理論、概念だけで作品をつくろうとしてきたのではないかと私は疑問を抱いたので「場所、群馬」という活動をはじめたのだった。
私にとって、群馬朝鮮人の追悼碑問題へのかかわりは「場所、群馬」の活動の延長線上に出てきたものであるのだが、そうは見ない人もいたということは知っている。はじめから政治的問題をあつかうことで関係してきたと思う人もいたが、私には私が生活しているこの場所でおきている問題というところから出発している。私と場所との具体的関係から出発する、これが私のやり方なのだ。
群馬朝鮮人強制連行追悼の碑の撤去と裁判
このため私は、2015 年に東京の表参道画廊で「長崎原爆落下中心地碑」と「群馬朝鮮人強制連行追悼碑」の 2 つの碑についての作品を展示した。戦争碑にかかわる、公共彫刻にかかわる問題として作品を出した。その後、これらは鳥取県立美術、博物館でも展示された。2017 年に群馬県立近代美術館での「群馬の美術」に追悼碑の作品を出したところ、撤去ということになった。裁判中でもあり、当事者になっている群馬県の美術館では、展示できないという一度も撤去理由が私に伝えられたわけでないが、こうした理由からだと関係者から聞いた。
90 年代半ばには、太平洋戦争への加害者意識から戦争をうけとめる見方もあり、全国に加害者側から全国にある朝鮮人強制連行碑が立てられたのだが、96 年以後になって日本会議の力が政治家にもおよぶようになっていくと、逆に碑の文字削除、そして撤去へむけての動きが活発になっていく。ちなみに群馬は保守王国、自民党王国でもあり、県議会員の 8 割が日本会議の会員でもある。そこで県議会で多数決でなんらかの理由をつけ、碑の撤去をきめることはたやすかったといえる。碑の前で朝鮮人がうたをうたったとか何か言ったということを政治的活動、発言をしたときめて、撤去にあたいすることをやったというのが、県議会の決議の根拠になっているのだ。2021年の現在では、前橋地方裁判所での判決に不服で、県は東京の高等裁判所へもちこみ、先日判決がおり、裁判所は県の言い分を認めた。それに対し碑を守る会が、再審請求を出しているところである。安倍政権下の時に、右翼寄りの裁判官が長官に任命されることもあったし、日本会議の会長を元最高裁判所長官が 2 度もつとめていることを考えると、再審請求が認められるかどうかわからない状況であるといえる。
自分は戦前にいるのかと錯覚したぐらいの驚き
丸木美術館での個展では、動画で長崎と群馬の碑の問題を提示しておいた。両者ともに歴史修正主義と関係している事案であるので、同時に展示した平面作品とともに出してある。欧米での歴史修正主義者に対しては、法律的に罰則があたえられる事もあるし、学術的に否定されている事もあるが、日本ではまったく野放し状態でというか、自民党政権自体が歴史修正主義者の集団となっていることもあり、むしろ逆に法律、学術の面において欧米とは真逆の、いわば国家専制主義の方向で歴史修正主義を肯定する流れを作り出している。日本会議の草の根運動が地方行政、政治へも浸透し、市民の自主的活動を圧迫、排除しようとしてきているのが現実である。たとえば護憲運動をかかげる人達が公民館で集会をひらこうとしても、行政が政治的中立などをかかげて公民館を貸さないことや、護憲や沖縄辺野古反対の俳句、詩、絵画などを市民展に出しても展示されないこと、慰安婦問題の資料を公民館で展示することが許可されなかったりなど、また原発問題をとりあげて反原発の集会、展示も公民館では許可がおりないなど……さらには国際展に出している日本の現代美術の作品で被災地で作った動画の中に「原発」「放射能」という言葉が出てくる場面を削除して展示しろと、現地の日本の領事館から文句が出てくるなど、歴史修正主義をかかげる政治、政党、政府の思想統制的な圧力が、現実に実行されている。
愛知トリエンナーレにおいて「表現の不自由展・その後」が行なわれた理由は、こうした現実的状況を多くの人々に知ってもらうためであったのだが、展示は右翼団体からのおどしや圧力に美術館、行政が屈する形で中止されてしまった。私は会期中につくられた電話のサポートセンターに 1 度出てみたが、電話をしてくるさまざまな年の右翼思想、歴史修正主義の人達とはじめて話しを聞いて、こんなぶっ飛んでしまった人達がいるという事実に驚いてしまった。会話はできない、話しが通じないし、「表現の不自由展をやることは国家反逆罪だ」と言われた時、自分は戦前の昭和にいるのかと錯覚したぐらいの驚きがあった。
民主主義の危機が迫っている
特に第 2 次安倍政権以後の日本は、急速な早さで国民全体を愛国党化させる作業を実行していってたのだなとその時、思ったけれど、今回(2021 年)の衆議院議員選挙でますますその感を強くした。日本の民主主義は国家専制主義におきかえられていくのかと。当然ながら、自民党の改憲案の中には、個人の自由(権利)よりも国家、公益が優先されると書いてあるので、民主主義ではなくなることになるが、彼らはこれを彼らの民主主義だと主張している。表現の自由、権利もなくなることになる。多くの人々はこうしたことに気がついているのか、危機感を持っているのか、非常に不安な気持ちになっている。90 年代以後の教育では、社会、政治に関心をもたない、もたせないようにやってきてるので、その成果がここにあらわれてきているのかと思う。
美術においても社会、政治的問題をあつかう、かかわることはしないで、おもしろい、楽しい、視覚的にきれいなものばかりを表現するのが美術だという、すりこみが完全に成立してしまっている。表現し創造していく力が劣化してしまっていることを気がつかなくなっているのだろうと思うばかり。 来年は参議院議員選挙があるが、日本がころげ落ちる道へいくのか、ふみとどまり再建の道へいくのかがそこできまるのかと思っている。
白川 昌生 / YOSHIO SHIRAKAWA
1948 年に福岡県北九州市戸畑に生まれる。
1970 年に渡欧、ストラスブール大学文学部哲学科にて哲学を専攻。
1974 年、パリ国立美術学校入学、
1981 年、国立デュッセルドルフ美術大学を卒業。
デュッセルドルフ時代にヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」の思想に強く影響を受ける。1983 年に帰国、群馬に拠点を構える。自らの住む場所をテーマに作品制作に取り組む。また、美術家としての制作活動のほかに、精力的に執筆活動も行っている。
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