· 

香港 民主化運動の記憶

中村康伸(なかむらやすのぶ)

『アドミラリティの占拠地』 「2014 年12 月11 日、香港、アドミラリティの朝。 雨傘運動は行政による強制排除を数時間後に控えて いたが、夜明けとともに活気を見せようとしていた。」
『アドミラリティの占拠地』 「2014 年12 月11 日、香港、アドミラリティの朝。 雨傘運動は行政による強制排除を数時間後に控えて いたが、夜明けとともに活気を見せようとしていた。」

 私が香港を初めて訪れたのは2014年12月で、終盤にさしかかった「雨傘運動」を取材するためであった。この年、香港行政長官の「普通選挙」を求める香港市民と、「普通」とは程遠い選挙制度を押し通そうとする香港政府が対立し、市民による巨大な抗議運動が勃発した。「雨傘運動」の名は、香港警察が放った催涙弾を避けようとして市民が開いた雨傘に由来する。

 12月11日の朝5 時前、到着した香港の空港からまっすぐ、現場のアドミラリティに向かった。

 たどり着いたアドミラリティで見た光景は日本で培った常識を超越していた。立法会(日本で言う国会議事堂)前の幹線道路がおよそ1キロに渡り、バリケードで封鎖され、占拠されている。広い道路を見渡す限りに色とりどりのテントが並び、木材とビニールシートで作った小屋も見える。バリケードや小屋などは、すべて運動の参加者たちによる手作りで、彼らは占拠地に寝泊まりして生活していたのだ。私が訪れた12 月11日までの路上の占拠は75 日間を数えると聞かされた。そしてその占拠地は、その日のうちに行政によって強制的に排除されるとのことだった。実は、その情報を聞きつけたからこそ、旧友の雑誌記者と共に慌てて香港に渡ったのだった。
 日が昇るに連れてテントから人々が出てきて占拠地は活況を呈し始めた。抗議を表現するための落書き、印刷物、創作物は至る所で色彩を放ち、「雨傘運動」のイメージカラーも鮮やかな黄色に統一されていた。何かしらのパフォーマンスを披露する若者がいれば、メガホンを手に演説する運動の若き指導者もいる。「政治運動」と聞けば、うすら寒くて味気ないものを想像していた私にとっては、衝撃を覚えるほどのカラフルな熱気がその場を満たしていた。

『警官隊の待機』 「雨傘運動の強制排除が開始される直前、 警官隊が配置について待機する。」
『警官隊の待機』 「雨傘運動の強制排除が開始される直前、 警官隊が配置について待機する。」

 バリケードの向こうには強制排除のために警官隊が集結する様子が見えたが、人々は落ち着いていた。
 正午を過ぎた頃、約7000 人の警官隊が占拠地の強制排除に着手、道幅いっぱいに並んだ警官たちが路上のバリケード、テント、小屋やオブジェを撤去しながらゆっくりと占拠地の中心に向かって進み始めた。テントをそのまま残してその場を去る人、または、最後まで残ることを決めて占拠地の中央に集まって座り込む人、大まかにいえば、人々はこの二通りに別れた。最後まで座り込んで抗議を続ける人々には警察の逮捕が待ち受けている。そのためか、こちらを選択する人は参加者全体からすれば少数派だった。

 私は、香港警察の指揮官が座り込んで抵抗を試みる人々に対していちいち令状を読み上げ、続いて警官たちが二人から四人がかりで抗議者を一人ずつ連行する様子を、写真を撮りながらずっと見ていた。午後10 時を過ぎた頃に最後の一人が連行され、香港警察がスピーカーを通してアナウンスを始めた。広東語で何かを言った後、英語で「本日の作業はすべて終了したので、気を付けて帰ってください」と言っている。取材を続けていたメディア向けのアナウンスだった。熱気が冷めていくのを感じた。それは別れるのが惜しい熱気だった。忘れていた疲労感が全身に押し寄せる中、カメラバッグを担ぎ直して歩み去ろうとした時、道路の反対側、つまり高架道路のスロープの向こう側から、大勢の人々が声を合わせて叫ぶ声が響き渡った。その声は雨傘運動のスローガン「我要真普選」(我々は真の普通選挙を要求する)を叫んでいる。帰りかけていたカメラマンたち、警官隊がスロープの下を渡って声の方へ駆けていった。もちろん私も走った。
 高架の下をくぐり抜けた道路の向こう、歩道に大勢の香港市民が集結して溢れていた。テレビで中継される強制排除を観ていた人々が終了のタイミングに合わせて集まった。と、後に聞かされた。それはいわば、「簡単に終わらせない」という香港市民の意思表示だったのだ。
 香港の人々の、諦めずに民主を求める強い意志を知ったその瞬間が、私の転機となった。それ以降、ずっと香港の民主化運動に惹きつけられている。
 結局、「雨傘運動」は政府から何の譲歩も得ないままで終結した。香港政府を背後で支える独裁政権にしてみれば、民意など無視すればそれで済む、という事なのかも知れない。しかしこれ以降も香港での民主化運動は形を変えて連綿と続けられた。

2019年、「逃亡犯条例改正案」に反対する抗議活動が巨大化した時、私は「雨傘運動の再燃」という印象を抱き、かつての運動参加者が再登場したと想像した。が、香港の若者からは「雨傘運動には参加しませんでした。今回、初めて政治運動に参加したのです。」と、聞かされた。政治運動の熱気はいつの間にか次の世代にも引き継がれていたのだ。
 昨年、横浜で香港民主化運動の写真展を開催する機会に恵まれた。そこで出会った40 代と思しき日本人男性は、眼を大きく見開いて私にこう語った。「中国政府が決めた事には何も出来ないですよね。僕らも日本政府が変な事を決めたらもうおしまいですよね。」
 この男性は「民意」の存在を知らないのだろうか? 「民意」が為政者の決定を変更し、「民意」が為政者そのものを更迭し得る事、これらは想像すら及ばないことなのか。私は圧倒されながら男性の顔を見ていた。が、考え直した。政治には触れないようにする事をある意味で常識とする日本社会の雰囲気がこのような考え方の源となっているのかも知れない。私にしても、香港での経験がなければ、この男性と同じような考え方をしていた可能性がある。
 「日本人は民主主義を大事にしていない」と香港の人から何度か指摘を受けたことを思い出す。民主主義を渇望する香港の人々は、「雨傘運動」で無視されてもなお諦めずに、為政者に挑み続けた。
 香港では2020 年に「国家安全維持法」という強力な法律が中国政府により唐突に施行され、残念ながら、あらゆる抗議活動が抑え込まれる結果となった。強権による恐怖に香港の人々も沈黙せざるを得ない状況だが、彼らのことだから静かに次の抵抗の機会を窺っているに違いない、と私は想像する。
 写真にできること、また写真の役割は、「状況の記録」、または「瞬間を拡大して解釈を促す」など、その他にも様々に考えることが出来るだろう。私としては、写真を通して香港の人々の熱意が少しでも観る人に伝わればいいと思う。


中村康伸(なかむらやすのぶ)
写真家