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リヒターとウォーホルに見る写真以降の絵画

森下泰輔(もりしたたいすけ)美術家・美術評論家

ゲルハルト・リヒター 《モーターボート(第1ヴァージョン)》 1965 年 油彩、キャンバス 169.5×169.5cm [CR 79a]  © Gerhard Richter
ゲルハルト・リヒター 《モーターボート(第1ヴァージョン)》 1965 年 油彩、キャンバス 169.5×169.5cm [CR 79a]  © Gerhard Richter

 2022 年の展覧会でも特筆すべきものの2つは、京都市京セラ美術館「アンディ・ウォーホル・キョウト」と東京国立近代美術館「ゲルハルト・リヒター」展だった。

 

 リヒター展はゲルハルト・リヒター財団の仕切りで、会場構成や出品作の選択にもリヒター本人がかかわっていた。2017年で大作の制作を辞めたリヒターの最後の大作といわれた《ビルケナウ》(2014) 連作が目玉だったが、本作はナチの強制収容所の問題を思考し続けたリヒターが満を持して制作した作だ。いままでもリヒターのタイムカプセルともいえる触発された画像、写真、素描を並列した《アトラス》シリーズなどで強制収容所の写真をポルノグラフィーと同様に積極的に用いてきた。リヒターの叔父がナチス党員だったことやマリアンネ叔母さんが統合失調症者断種政策によって処刑・粛清されていたりするので、リヒターのトラウマは終生尾を引いている。《ビルケナウ》の写真は収容所の死体処理人が隠し撮りで撮影したものだといわれ、ナチ収容所の悪辣な実態を証明するものだという。それだけにリヒターがこの写真素材を用いて下絵をつくり、その悪魔的残虐性を告発するのにも覚悟が必要だった。

 だが、意外なのは、ナチ収容所の証拠写真などありふれていると思っていたが、事実はそう単純ではなく、強制収容所にはユダヤ人だけが入れられたわけでもなく、反ナチ分子のドイツ人やソ連兵も入れられていた。リヒターが参照した写真こそアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所におけるユダヤ人虐殺の証拠写真だといわれる。結局は写真をそのまま描くことに偽善的な疑問をいだき、スキージーによるアブストラクト・ペインティングによって覆いつくしてしまう。

 同展はそればかりではなく、初期のフォト・ペインティングからリヒターの長期の画業を俯瞰する構成となっていた。

ゲルハルト・リヒター 《ビルケナウ》 2014 年 油彩、キャンバス 各260 x 200cm 左から[CR 937-1][CR 937-2][CR 937-3][CR 937-4] ゲルハルト・リヒター財団蔵  All images c Gerhard Richter 2022 (07062022)
ゲルハルト・リヒター 《ビルケナウ》 2014 年 油彩、キャンバス 各260 x 200cm 左から[CR 937-1][CR 937-2][CR 937-3][CR 937-4] ゲルハルト・リヒター財団蔵  All images c Gerhard Richter 2022 (07062022)

 一方のアンディ・ウォーホル・キョウトは、イラストレーター時代の1956 年と大規模個展で来日を果たした1974 年の2 度訪れた京都でのウォーホルの歩みにスポットを当て、2 度とも訪れた蓮華王院三十三間堂の千手観音1001 体の繰り返しの荘厳さがウォーホルのポップ以降にあらわれる繰り返しの手法に潜在的な影響を及ぼしたのではないか、というのと、1964 年の8 時間実験映画《エンパイア》のスタティックな手法が京都の石庭で石を終日鑑賞する人々からヒントを得たのではないか、という仮説、また、京都の旅により日本食や着物と日本の生け花に興味を持ったウォーホルがその装飾性やポップ時代の傑作《フラワーズ》ないし「生け花シリーズ」の顕著なヒントを得たのではないか、といった興味深い展示であった。もちろん、ウォーホルを世界的作家にしたポップの定番作品の紹介も忘れてはいない。ピッツバーグのアンディ・ウォーホル美術館の全面協力で開催された。

 さて、リヒターとウォーホルという20世紀現代絵画を代表する二人だが、共通する姿勢は「写真以降」の絵画という問題だろう。1962 年にウォーホルはマリリン・モンローを映画「ナイアガラ」の宣伝写真から写真製版。シルクスクリーン技法でキャンバスに写し取り、「デッサンよりも写真のほうが早い」といった。リヒターが東ドイツでの社会主義リアリズム画家の成功を捨て恋人と西ベルリンに逃亡してきたのは1961 年、ベルリンの壁がつくられる数か月前のことだ。リヒターは1959、ドクメンタ2 でフォンタナやポロックを見て現代絵画に覚醒し、西側のアートシーンで名をあげるべくボイスが教鞭をとっていたデュッセルドルフ芸術アカデミーに入学。当時の美術学校は絵画の死といわれるほど、前衛芸術やアクションが主流であった。そんななかで、自らの関係した親しいものたちの写真や広告写真に着目した。

 当時は彼らならずともフレンチ・ポップアートの レイスやブリティッシュ・ポップのR. ハミルトン、R.B. キタイらも写真を作品化していた時代である。19 世紀新古典主義のアングルが当初写真を否定しつつも「われらの誰がこれほど正確に描けるだろう」といった通り、写真機の登場によって大量の画家が失業した。その後、印象派やセザンヌ、ポスト印象派は写真の再現性を乗り越えて絵具そのもののペインタリネスに向かった。そしてピカソやダダイスト、未来派などにより一層の抽象化が行われ、美術は再現性ではない独自の領域を形成していった。だが一方では写真を複数貼り合わせて新たなイメージを作るダダイストやシュルレアリストのコラージュなどの手法を使用しながら絵画と写真は一定の関係を持ちながらも美術の潜在的抑圧となってきた。

 ポップアートを経由して写真の問題が再度浮上してきた。その頃には印画紙写真というよりも、印刷技術が世界を覆うようになり、ベンヤミン「複製技術時代の芸術」、ブーアスティン「幻影( イメジ) の時代」を経、情報としての写真を主題に扱い始めた。

 

 62 年にウォーホルがドイツで紹介されると、ドイツのアート関係者は左翼的な反体制運動の美術と誤解をする。同時期にリヒターは「資本主義リアリズム」を提唱し、ポップアートを標ぼう。1963 年ジグマー・ポルケと展示も行った。

    「僕にとって当時重要だったのは、リキテンスタイン、ウォーホル、オルデンバーグだった」( ゲルハルト・リヒター「写真論/ 絵画論」1996 淡交社刊 p26)。 ボヤけた写真、ともすれば虚偽フェイクすら醸し出す、情報としての、とりわけ言語学でいうシニフィエとシニフィアンが写真では同時表示されてしまうその欺瞞性を巧みに作品化していった。リヒターやウォーホルの絵画作品を筆者はグリーンバーグにちなみ「ポスト・ペインタリー・ペインティングス( 絵画以降の絵画)」と命名、「情報」に重きを置いた絵画作品が生まれていった。おそらくそこからポストモダンが始まったのだろう。いわゆる近代絵画とは基本構造もアプローチも一線を画している。写真が持つ意味論と絵画特有の主題の扱い方が、いわば絵画によるコンセプチュアル・アートになっている点にも注目すべきである。近代の見方と解釈では両者のキャンバスは読み解けないのだ。

 マリリンは彼女の死やメディアに弄ばれる有名芸能人の悲哀、大衆社会の残虐性、リヒターのフォト・ペインティングは、ボート遊びに興ずる作られた幸福感を巧みに皮肉っていた。もとは広告写真であり、現在のネット社会の拡大するフェイクニュースの本質にすでに迫っている。アブストラクト・ペインティングも近代の抽象画のような絵画的な追及というよりは、ケージやデュシャン的偶発性をこめたポーリング絵画以降、写真以降の情報論を含んでいる。

 

 リヒターやウォーホルは写真を通過することにより芸術に古典的な「窓」を復活させ、芸術の名のもとにレディメイドを社会や現象界外部に拡張したともいえる。レディメイドとしての外部情報の再解釈である。フォト・ペインティングに始まるリヒターにおける外部拡張性と絵具の物質性の再確認は、とうとうアウシュビッツの証拠写真をそのまま拡大することを避け、絵具の偶発性を伴ったスキージーの軌跡により塗りつぶされた。そのことは写真が塗りつぶされたといった二重の意味において、画像の持つメタファー(たとえば人間の悪魔性)を超え、まるでボブ・ディランの名曲のように「風に吹かれて」いる。


 森下泰輔(もりしたたいすけ)美術家・美術評論家