篠原一夫(しのはらかずお) 美術運動・編集
セブ島の洗礼
目覚めるとベッドを滑り降り、分厚いカーテンを開くと突然閃光が室内に飛び込んできた。射られた目を一瞬閉じてから、ゆっくりと開くと眼前は一望の明るい青。水平線の先には沸き立つ白い夏雲。その下は深い群青。それがグラデーションをつけて近づく。眼下はエメラルド。そのグリーンの上を、手漕ぎのアウトリガーが一艘漂う。リゾート・アイランドの鮮烈な光線、セブ島初心者の洗礼。 マクタン・セブ国際空港に着いたのは、前夜午後10時を過ぎていた。入管手続きでは、日本で予めインターネットで入手したコロナ陰性証明の提示を要した。それ以外では、通常の通関手続き。比較的スムーズなコロナ禍の入国といえるだろう。
スペイン抵抗の記念碑
投宿したホテルの所在は、正確にはセブ島ではなくマクタン島という。セブ本島と橋で連絡された地図上は点のような小島だ。
マクタン島で最も繁華な地域は、ラプラプ・シティ(LapuLapu、人口約40万) だ。さすがに道路が縦横に走り、人出も車も一部渋滞が起きるほど多い。建物も隙間なく立て込み、一般消費財を商う店から観光地らしい土産物店まで品物は溢れ、ごったに賑わっている。
町の名称になっている「ラプラプ」は、人名だ。しかも島の英雄。
こんな歴史がある。あの世界一周航海を目指したフェルディナンド・マゼラン(1480-1521)が上陸。襲ってきた。島の領主・ラプラプは、配下の勇壮な戦士たちと共に迎撃。そしてマゼランの死により戦闘は短時間で終わる。
マゼランはセブ島に1521年4月7日初上陸。同島での布教(そして植民地化の足掛かり)を成功させてからマクタン島に攻め込んだが失敗。思わぬ反撃で命を落としたのが同年4月27日。フィリピン到着からわずか20日後。一方マクタン島民はラプラプによって自由が守られた。
そんな抵抗の記念碑であるラプラプ像の周辺は公園になっており、周囲に土産物店が開いていた。お決まりのロゴ入りT-シャツを購入。木陰に入ると涼やかな風が感じられる。
コンキスタドールの支配
大砲と火縄銃で島民を脅して、セブ島での布教が容易に成功したマゼランは甘く見て、わずか46人という手勢でラプラプに挑んだ。挙句マクタンの海岸で殺される。しかし、満を持して44 年後(1565)に再びスペインからきたレガスピ(MiguelLopez de Legazpi)
の遠征隊により占領される。それから陸続とやってきた軍人、商人、宣教師たちにより、セブ島を含めフィリピンは植民地化されてしまう。いわゆる右手に剣、左手に十字架のコンキスタドール( 征服者) による約330年間に亘る圧政の始まりである。
他方、キリスト教徒が来島する以前から貿易を通じてフィリピンはアラブ諸国とつながりがあった。ミンダナオなどのスールー諸島のイスラム教徒は、他の多くの島々がキリスト教化されてもスペインに抵抗し続けた。それはキリスト教化されたフィリピン中央政府との今日まで続く確執にも現れている。また真偽は不明だが、現地の人からラプラプはイスラム教徒だったという話を聞いた。独自の情報網からマゼランの来襲を予知したラプラプは、1500
人の戦士で待ち構えていたとのことだ。
ラプラプ余談
シーフードがマクタン島では有名。中でもラプラプと呼ぶハタ科の魚が珍重される。筆者が試した中では、“清蒸”という中華式の蒸す調理法が最適。
しかし、なぜ英雄の名前が魚の名前でもあるのか? マクタン島滞在中、いろいろと聞いて歩いたが、しかるべき答えを聞かせてもらえなかった。だが四方を海に囲まれ、水産市場を見物しても魚種が豊富な中で、最も美味かつ高価であることは事実。しかも他のものより水揚げが少なく希少。正に英雄と呼ぶのにふさわしい魚と考えたのではなかろうか、とは筆者の根拠のない推定。
セブ島に渡る
マクタン島から、広めの水路ぐらいの海峡に掛かる橋をタクシーで渡り隣のセブ島に着く。 セブ島の中心都市はセブ・シティという。ビジネス機関、行政機関、それに病院、大学が集まり、巨大ショッピング・モールもある山手と、歴史的建造物や遺跡が多く見られる旧市街の下町とに分かれる。そして投宿したのが山手のホテル。
さて、今回のセブ島訪問の大きな目的は、親族訪問にある。
2020 年、コロナ騒ぎが拡大しつつあるころ、筆者の息子が所帯を持った。その息子の嫁、メリー・ジェーン(MerryJane 略してMJ とみんなが呼ぶ)がたまたまセブ島の出身。時期が時期だけに彼女のセブの親族とは会えず、SNS で挨拶するに留まっていた。そして翌年(2021) 二人に男児が誕生。
時期も良かった。コロナ感染の蔓延による初年度のパニック状況も三年目に入ると、人々にも警戒に軽重をつける余裕が見えてきた。そして、国内はもとより海外旅行の機運もわずかに力づいてきた状況の中での出国だった。
セブ島に移動したその日が、招待を受けている日。たまたまMJ の弟の誕生日にもあたり、我々一行の歓迎が合わさって盛大な祝宴が待っている模様。
ホテルの部屋に荷を下ろすと早々に、嫁の実家に向けタクシーに乗り込む。ほどなくガラケイが鳴る。息子たちは実家に滞在しているので、連絡のためにラプラプ・シティで予め購入したもの。電話はそのMJ
からだ。「ドライバーと替わって」と言うのでケイタイを渡すと何やら道順を説明している様子。話し終えた運転手がニヤニヤしながら、「友人の家に行くというから、相手は男かと思ったら女だったねぇ」。どうも誤解しているようだ。面倒なことだが、誤解されたままなのも不快なので説明したら、ようやく筆者(73歳)の年恰好に気付いたのか、腑に落ちた顔となった。ともかく誤解は解けた。
余談だが、70
年代の昔、筆者が初めて旅したフィリピンでマニラのホテルに泊まっているとき。夜、フロントから電話があり、部屋まで女の子の派遣が可能だが希望するか?と聞かれた。当時日本人の男性旅行者が、アジアの国々でなぜだか煩悩に負けて大金を落とすツアーが隆盛だった。運転手の誤解に拘泥したのは、〝日本男児〟の恥ずべき歴史を思い出したからでもある。ヘンに誤解されちゃ、たまらない・・・のである。
実家で待ち構えていた嫁の親族一同には、満面の笑顔で迎えられた。初対面の紹介と挨拶が一通り済むと、子豚のグリルをメインに盛大な手料理と歓談の場に移る。アルコールも巡り、やがてカラオケセットが持ち出され、歌謡ショウが始まった。若者たちや親族たちに囲まれ、その中で筆者はどうやら最年長のようだ。食べ物やら飲み物やら、みんなしきりに小生に気を配る。そんなホスピタリティに包まれた時間は、いつしか深夜に及んだのである。
若き国フィリピン
フィリピンは日本と同じ島国で、国土は約299km2。日本(約378km2) の8
割ほどだ。人口は日本より幾分少ないが、それでも1億を超える。しかし人口増加率は年2%前後あり、日本のマイナス0.51%(2021年度総務省統計局)とは比較にならない。当然人口ピラミッドはきれいな三角形。日本の倒れそうな瓢箪型と比べると、明らかに健全なスタイルだ。(総務省および国連人口部のデータによるグラフ参照) 実際、市街に限らず村落でも、圧倒的に若者の姿が目立つ。日本では団塊の世代が後期高齢者層に突入したが、フィリピンではそもそもその年齢まで生き延びるのはわずか。だからなのか、年長者に対する敬愛精神が若者たちに浸透しているように思われた。例えば筆者なども、MJ
の弟やその友人たち、いとこたちなど身内の若者たちから、言わば長老として大事に扱われた。
博物館で見る日本の側面
セブ島観光と言えば、到着早々にマリンスポーツの現場に向かうか、歴史探訪に足が向くかである。
筆者は、シュノーケリングなどリスキーな遊びには年齢的に無理もあり、どうしても後者となる。そしてシティのダウンタウンでは、マゼランがフィリピンで最初の十字架を建てたという遺跡、スペイン統治時代の壮麗・豪壮な教会、スペイン商人や宣教師の邸宅、1565 年に建造が始まったサン・ペドロ要塞などの歴史遺産が豊富に見られる。
その中に、古くは監獄だったという堅牢な石造りの大きな建物が、現在は歴史博物館としてあった。「ソクボ博物館」という。先史時代から近代までのセブ島の歴史が一望できるのであるが、そこで日本軍が統治した時代の負の歴史を改めて認識することになった。
米西戦争の結果、1898 年から米国の領有に替わり、そして1941 年12月8日の真珠湾攻撃からひと月も待たず翌年の1月2日、日本軍がマニラの米軍を制圧してフィリピンは日本の統治となる。新たな悲劇の始まりである。
米国時代と異なり、それからの月日が島民にとって過酷なものとなる。(例えば日本軍の糧秣は、現地調達が原則。裏付けの稀薄な軍票などで食料その他を島民から取り上げた。他方米国はアジアの橋頭保とするのが統治目的。住民から搾取するほど貧しい国ではなかったということだろう)
同博物館には、その日本統治時代の遺物を納めた一室がある。そこには、日本軍が用いた兵器類や軍票、軍服、様々な装備品のほか、住民統治のため軍当局が掲示した警告文などの実物が展示されている。
その文面からは、セブ市民に対する当時の日本政府のそして統治する日本軍当局の姿勢が、はっきりと見て取れる。いわく、“日本軍人および日本人に対し、傷つけあるいは傷つけようと試みた者は、誰であろうとも銃殺刑に処されるべし”または“フィリピン人は我々当局の真正なる意図を理解し、フィリピンにおける公民の平和と規則を維持すべく、我々と共働すべし”などという文言が並ぶ。無論ここでの“公民”は一義的には全ての日本人のことである。
そのフィリピンが解放されるのは、ほぼ3年後、1945 年8月15日。そして翌年7月4日、独立。フィリピン共和国が成立し、今日に至る。
反日感情と日系二世問題
日本の統治がもたらしたものが、日本コーナーの展示物で見たように、日本軍当局の非道な扱いと全土の戦場化。そのことで人々の間に生まれたのが“反日感情”だ。しかもそれは、戦後根強く残る。 一方、フィリピンには、明治時代から新天地を求めて移民した多くの日本人と現地妻がいた。日系二世も生まれていた。しかし軍の統治が始まると、一世も軍属として協力させられる。そして日本の敗戦。移民家族は築き上げた財産の全てを失う。その上、一世たちのみ、捕虜となった兵士たちと同じく日本へ強制送還される。仲を引き裂かれた妻と二世たちは、反日感情の強いフィリピンに取り残される。彼らは出自を秘匿し、無国籍で生きることを余儀なくされた。これが日本軍によるもう一つの悲劇、日本人移民世界の物語である。 二世たちの国籍を回復し、帰国の道筋をつけるため日本政府(厚生省)がしぶしぶ動き始めたのは80年代後期。二世の存在を認識していたにも関わらず、それまでの40年間近く日本政府は全く手を付けようとせず、民間ボランティアの独自活動に任せていた。これが、フィリピンの日系二世問題である。
過疎化に無縁のフィリピンの村落
息子の嫁、MJ が小学生時代を過ごしたという、セブ島中南部の山間の農村に住む彼女の祖父母を訪問した。
山の麓は海岸に近いアルガオ(Argao) 市。スペイン植民地時代の整然とした街路が碁盤の目のように残り、当時のスペイン式石造の建物が多数残っている。落ち着いた静かな街並みの町だ。 かつては裁判所であったという剛壮な建物は、現在もそのままに機能していて、知らずに足を踏みこもうとしたら何用かと官吏の制服を着た女性の係官から不審がられ、慌てて外に出た。
クルマでアルガオから山中に向かって登ると、途中いくつもの村落を過ぎた。着いた先は入り組んだ山々が迫る斜面がちな土地で、段々畑に耕したわずかな平面はヤシ林や野菜畑になっていた。途中のどの村落でも、多くの若者たちの姿が見られた。過疎化で放棄せざるを得ない日本の山村とは、雲泥の差だ。
ヤギ料理で伝統の継承
ヤギという動物は、祝い事などで饗せられる大事な生き物だ。そして祖父は村一番のヤギ料理の名人とのこと。我々の訪問を歓迎して子ヤギを一頭屠るというので、と殺の現場に立ち会った。
ヤシ林を抜けた先から、鳴き声が聞こえてきた。そこには、精悍な顔つきの男性と小さな男の子が待機していた。祖父の息子と小学生の二人の孫だ。
と殺の手順は以外に単純。ヤギを床几台の上に横たわらせると前脚と後ろ脚を叔父が押さえつける。祖父はヤギの口元を左手でつかむ。そしてヤギが動きを止めた一瞬に、右手の鋭利なナイフでヤギの首を半月に切り裂く。流れ落ちる血潮を待ち構えた一人の孫がバケツに受ける。その血は調理に使うという。ヤギは体を震わせ、後ろ足をバタつかせる。押さえつけたまま絶命するのを待つ。時折、祖父はヤギの瞼を指先で弾いて様子を見ている。反応で分かるらしい。完全に召天するまで、随分と長い時が過ぎたように思った。
その間、孫たちは黙って祖父や叔父の作業を見守り、傍らで湯を沸かしている。ヤギはやがてピクリとも動かなくなると、沸騰した湯を柄杓に取り黒い体に流し掛ける。そして、スプーンでその体を擦る。黒い体毛が剥げ、白い肌が露わになる。一度にわずかの部分しか剥がせないので、子ヤギとはいえ、全体を処理するのは骨の折れる労働だ。その作業は孫が祖父に代わり、叔父を手伝う。“こうして一頭の動物の命を戴くための伝統技術が、次世代に承継されるのか”と粛然とした気持ちになった。
山村の豊富な農産物
乾期か雨季の他に際立った四季のないセブ島。気温はほぼ一定で、一年中、半ズボンとT シャツで過ごせる。
セブ島は細長い島で、南北を山地が背骨のように通っている。稜線からは左右どちらかに海が望めるほど、平地が少ない。そんな斜面ばかりの土地を耕し、野菜や熱帯の果物を栽培している。
田舎の祖父の家に滞在中、近隣をドライブした。山道をクルマで走ると、時折にぎやかな町にでる。市場があり、近隣の農家が持ち込む豊富な産物が売買される。見物して歩きながら、日本のような寒暖の差がないこの島では、季節野菜というものはないのだろうかと思った。どんな種類の農産物でも年中手に入るならば、季節感が食生活からは感じられないことだろう。そもそもそんな概念さえないのかも知れない。そうは言っても日本だって、ハウス栽培や流通システムで季節感が相当失われているのであるのだが。
動く時代と経済発展
前回のフィリピン訪問(90年代)から約30年のブランクだが、その間に同国の経済の著しい発展がインフラ整備などで見て取れ、見違えるほどだ。
経済関係の資料を見ると、成長率は、昨年(2022)のGDP成長7.6%(日本、1.75)を達成。2023 年も6.3%(同、1.3)程度の成長が見込まれている。ちなみにIMF の2022年10月版の世界経済展望データベースによると、90年代から今日まで、日本がフィリピンの経済成長率を上回ったことがない。
時代は動いている。移民二世たちは、ほとんどが鬼籍に入りすでに三世、四世の時代だ。かつて日本軍により酷い思いをしたフィリピンの人々もすでになく、今日のフィリピン国民にとって、戦時の記憶は歴史の彼方。彼らは、経済成長の恩恵で余裕が生まれ、将来に希望を抱いているように見えた。それがためか、今回の訪問中、昼下がりの下町の雑踏の中を一人で歩いても、昔経験したようなすれ違う人々が向ける険しく鋭い一瞥はなく、緊張感など全く意識しなかった。かつての反日感情も、時代とともに消えたのだろう。
自助・共助が築く将来の若者
2021 年12月16日。最大瞬間風速75 メートルのスーパー台風“オデット”がセブ島を直撃した。建物やインフラ被害はもちろん、400 名を超える死者、行方不明者を出す。被災者数約350 万人とのこと。
それから1 年もしない9月、その19日間の旅の間、ホテルやレストランの従業員、タクシー運転手などから台風の話を聞いた。また、MJ を通じて田舎の農地の被害や叔父の養鶏施設の壊滅など、親族中の罹災の模様も知った。人々は住居も職場も失った。しかし彼らは衣・食・住を分け合い、助け合って難局に向かい復興を急いだとのことだ。「政府や自治体はどう動いたのか?」と問うとMJ
は、「島民は元来政府や自治体など当てにしていない。台風が治まった直後から片づけを始めたし・・・」と言う。
彼女の話では、セブ島民のメンタリティーに“基本は自助・共助”があり、だから人々は他人にも親切。これは実際に体験したことだが、行きずりの我々旅行者に、見返り期待もなくホスピタリティを発揮する。どこかの国が喧伝した“お・も・て・な・し”とはエライ違いだ・・・。 自助・共助には、しかし、と思う。“政府に期待できない”、それはある意味で政治の貧困なのではないだろうか?セブは中央政府のマニラからは距離がある。辺境としての扱いをされてきた歴史が、逆に政府を信用しない姿勢になったのか、などとも思う。
今回の旅では、嫁の身内の家庭に入り、また同年代のいとこや友人たち若者に囲まれても過ごした。知らずこちらも気が若くなったようで、一日だけ、アイランド・ホッピングやシュノーケリングに年甲斐もなく挑戦した。
そして若い彼らからは、日本の若者たちと違い、自身のそしてフィリピンの将来に夢や希望を抱いた熱い話が聞けた。しかし、かつての高度経済成長時期の日本と重ね合わせ、“余り急ぐなよ”とも言いたくなったが・・・。
光と影の島
この島は、書店の旅行ガイドブック・コーナーの旅先として、フィリピンの単なる一つの島が「セブ島」という独立した一冊になって紹介されるほど人気が高い。見出しには、「青くきらめく海や、スパに買い物に南国グルメを満喫!」と異口同音に誘う。
ここでは確かに、鮮烈な明るい光と陽気な浮き立つ空気に満ちている。しかし一度掘り下げて見ると、ガイドブックでは知れない被支配の歴史の黒々とした鉱脈が横たわっていた。太陽と月、光と影、明暗、陰陽‥‥正反対の印象が同時に存在する。だが今日、そんなギャップを乗り越える若者たちが絶対多数を占めている。彼らに影は感じられない。その視線の先にあるのは、“未来”であろう―そんな印象を抱いて、19
日間の旅は終わりを迎えた。次にセブ島に来るときは<もし、次があればの話だが>この若者たちに再会したり、展覧会を開いたり‥‥そんなことを夢想しながら、帰国の便に搭乗した。(了)
セブ島の画廊訪問
今回は、セブ・シティの画廊3か所を厳選して訪問。 「クベ・ギャラリー」と「クベ・コンテンポラリー」、それにフィリピン国立大学内にある「ホセ・ホヤギャラリー」。前二者は、オーナーによる企画専門画廊で市内中心部にある。 クベ・ギャラリーの方では若い作家の個展開催中。事務を執っていた女性、マリエ・ネレ・ヴァルモリア(Marie NelleValmoria)
が説明してくれた。借し画廊ならばと教えてくれたのが、ホセ・ホヤギャラリー。フィリピン大学のアート系学部の教授と学生たちによる運営とのこと。彼女もその学生。「明日大学に行くのでご案内 こちらでも若い女性、ポーレット・ネリ(Paulette Neri)
が応対してくれた。やはり同大のアート系学部の卒業生で、先ほどの学生の先輩とのこと。セブ在住フランス人作家とフィリピン人作家による二人展の開催中だった。ロケーションはやはり市内の繁華な地域で、こちらはクベ・ギャラリーより広い。
翌日ミス・マリエとタクシーでフィリピン大学へ向かった。同大は首都マニラが本校で、こちらはセブ校という。理学部、社会学部、経済経営学部そして美術学部の備わった難関大学。日本では言わば筑波大学か。全国から選抜された優秀な学生が集う。彼らの英語が極めて流暢かつ癖のない発音で聴き取りやすいのは、当然のことだろう。
ホセ・ホヤギャラリーでは、美術学部の教授陣による展覧会の開催中。マリエの担当教授がキュレーターとのこと。ギャラリーの名称のホセ・ホヤ(Jose Hoya 1931-1995)
はフィリピン現代美術の作家で、最も重要な抽象表現主義の画家との話。フィリピン大学でも学生たちの指導に力を注ぎ、フィリピンの美術界を牽引してきた。その功績を顕彰してギャラリーの名称にしたとのこと。 訪問したその時間、教授が来るので会うかという。願ってもないことと学部室に案内され、ほどなく若々しい壮年の男性が満面の笑みで入ってきた。ジェイ・ナサン・ホレ(JayNathan Jore)
教授。話題はホセ・ホヤギャラリーの説明からフィリピンの現代美術、そしてフィリピンの経済・社会・歴史までと広がり、フィリピンについてのあらゆる疑問に、時にユーモアを交え即座に答えてくれた。学生たちもそうだが、さすがに同国最高学府の人物らしいインテリジェンスに触れ、歓談に一時間を超えてしまった。
ギャラリー運営の実践で学ぶアートビジネス
ジェイ・ホレ教授の説明によると、当ギャラリーの責任者は教授自身が兼務している。しかし、具体的な運営は美術部の学生に任せているとのこと。
学生生活において作品の創作活動に限定せず、ギャラリーのキュレーションからファイナンス面までの運営に関わることで、卒業後にアートビジネス業界で即戦力となる人材の育成につながるとのことだ。
学生たちは実際に、展覧会主催者の意向を聴き、展示方法からパブリシティ(広報活動)まで、予算の管理も図りながら様々な支援業務を行うという。そこで、「例えば、日本の若い作家たちとフィリピンの作家とのコラボレーションなど可能でしょうか?」と聞いたところ、面白い試みだと応じた。そして、参考にして欲しいと、「ホセ・ホヤギャラリー利用費」の一覧表を渡された。そこには、会場費、ボランティアスタッフの日当、ソーシャル・メディア(SNS)
用告知原稿(英文及びビサヤ語)の作成費、写真・ビデオ撮影費、メディアや来場者向け招待状作成・発送などプロモーションとパブリシティの費用などの細目が記載されている。ジェイ・ホレ教授が窓口となり、まずは企画書、すなわちアイデアと作家のプロフィールや作品写真などを送信して欲しい。実現するためのプランを検討するとのこと。
セブのアートシーン
セブ島のアートシーズンのピークは、9月に始まり11 月末頃までの期間。ちょうどクリスマス・シーズンでもある。中でも大きなアートフェアが二つ。一つは9 月のトゥボ・セブ・アートフェア(Tubo Cebu Art Fair)。地元のアーティストを紹介する場であり、収益はセブ芸術評議会財団の奨学金基金に寄付される。またもう一つは、11 月のビサヤ・アートフェア(Visayasu Art
Fair)。40ほどの画廊が各自のブースを構え、来場者は一般愛好家からプロのバイヤーまでが集う規模の大きなフェアだ。セブで展覧会を企画するには、このクリスマス・シーズンが最適というジェイ・ホレ教授の話だ。
セブ島での展覧会。その道が開けた今回のギャラリー訪問であった。
資料 一部の記述には、下記の資料を参考にしました。
●「フィリピンにおけるモダンアートの歴史」アリス・ギリェルモ(フィリピン大学准教授)筆
●ハポン フィリピン日系人の長い戦後 大野俊著 第三書館
●総務省統計局 ●IMF データベース
●「物語フィリピンの歴史 盗まれた楽園と抵抗の500 年」鈴木静夫著 中公新書
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