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永井潔アトリエ館の6年

永井 愛(ながい・あい)

アトリエにて 水沢武夫氏撮影(2007年)
アトリエにて 水沢武夫氏撮影(2007年)

永井潔の絵画や著作物を土曜日ごとに展示する永井潔アトリエ館は、今年の4 月で開館6 周年を迎える。館長は潔の長女である私、「10 年ぐらいやれたらいいな」程度の気持ちでスタートしたのだが、すでに折り返し点を過ぎたことになる。
 父の残した絵をどうすればいいのかという問題は、一人娘の私にとって常に頭上に漂う暗雲のようなものだった。それを察してか、父は「燃やせ」とか、「ゴミの日に出せ」とか言っていったが、何のフォローにもなっていない。私が怖れていたのは、父の絵がまさにそうなってしまうことだったから。 父の絵に囲まれて育った私は、父の死後も、その絵と暮らしていこうと決めていた。玄関には、いつも「トラクターのある納屋」がなければならなかったし、階段の壁では「ピーヒャラ」( 猫) が丸くなり、アトリエに入れば「注湯」が溶けた鉄を輝かせ、針を持った「母」( 私の祖母) がこちらを睨みつけてくれなければならなかった。

 問題は、私が死んだ後のことなのだ。いくつかの絵は売ったり、譲ったりできるだろうが、引き取り手のない絵は、「処分」するしかないと聞く。
 絵描きの子としては、絵に理解があるとはとても言えない方だが、それでも絵を描く父の姿はよく甦る。対象を見据えては目を細め、描いたものと何度も見比べ、首を傾げ、絵の具を混ぜ、また目を細めて対象を見つめ、ようやく次の一筆を入れる。そうやって描いた絵を「処分」するということは、絵描きとして生きた時間そのものをゴミに出すようなものではないか。
 そうなる前に、父の暮らした空間で、少しでも多くの方に絵を見てもらおうという試みが「永井潔アトリエ館」なのだ。10年やれば資金も体力も底をつき、あきらめもつくだろう。もちろん、「処分」以外の展開が生まれてくれないかという淡い期待もある。
 とはいえ、わが家にどれだけの絵があるのか、実は把握していなかった。片づけられない男だった父のアトリエや書斎には、丸まったり、畳まれたりした油彩画、数知れぬ水彩画やデッサン、パンパンに袋づめされた挿絵が無秩序に積み重なっている。これを全部整理するのか? 私の本業である劇作、演出はどうなる? 見通しの甘さに改めて愕然とした。
 それでも開館に漕ぎつけたのは、次々と有能な協力者が出現してくれたから。中でも、絵画修復家の武田恵理先生が近くにお住まいで、顧問を引き受けてくださり、絵の修復と保存、管理まで担当していただけることになったのはあまりにラッキーで、父があの世で遠隔操作してるんじゃないかと思えたほどだ。
 武田先生にご紹介いただいた平田善惠さんは一級建築士。主に作品管理のための資料整理をお願いしている。本業を活かし、図面を引いて額の配置の提案までしていただけるのが大助かりだ。
 佐野成子さんは、私のスカウト。度々いただく芝居の感想文に並々ならぬセンスを感じていた。平面デザイナーからコピーライターに転じたキャリアの彼女には、広報から掲示物制作、事務全般を引き受けていただいた。

 展示室は中二階にあるアトリエと父の寝室。一階の居間と祖母の寝室はカフェに改修、ここではご近所の友、大嶋律子さんが料理の腕をふるってくれることになった。
 ほかにも入れ替わり立ち代わり様々な人に助けられ、永井潔アトリエ館は2017 年4 月にオープンした。父が没して9 年目のことになる。
 すべての絵のリストができていたわけではないが、半年ごとにテーマを変えて絵を選び、企画展を開催することは決まっていた。
 第1 回企画展は、評価の高い人物画を中心にした「永井潔のすゝめ」。第2 回「ほぼ練馬、ちょっと世田谷」は、戦争をはさんで変わりゆく人と風景。第3回「男たち― 物語る顔」は男性だけ、第4 回「女たち―まなざしの先」は女性だけの肖像画。第5 回「ゆきなりさんぼう―ヨーロッパ紀行」は冷戦下の60年代、47 歳にして初めて訪れたヨーロッパ。第6 回「絵描きの一人娘」は51 年間にわたって描いた娘の姿。第7 回「やっぱり、デンマーク!」は「ゆきなりさんぼう」の後編、デンマークのフュン島で過ごした日々。第8 回「92 年の自画像」は幼少期から晩年までの自画像50 余点。家族の80 年間を絵でたどる、第9 回「FAMILY HISTORY 永井潔が描いた家族」は現在も開催中だ(7/29 まで)。
 企画展と並行して、カフェでは主に紙作品を展示している。 第1 回は絵本『ウィリアム・テル』( 世界出版社) の原画、第2 回以降は挿絵の原画で『さいゆうき』( 筑摩書房)、『外とう・鼻』( 偕成社)、『おやゆびこぞう』( 筑摩書房)、『日本のわらい話』( 偕成社)、『日本のとんち話』( 同) と続いた。第7 回「四季のコラージュ」は『民主文学』の表紙(2001 年から2008 年)を飾った54 点のコラージュ。第8 回「キヨシ君、よくできました!」は幼少期の絵やコラージュ。第9 回「色紙は楽し!」は今公開中で、30 点の色紙絵がご覧いただける。
 2 月と8 月を展示替えのために休館にして、年に2 回新たな企画展を開くのはなかなか大変だったが、二兎社公演のたびに宣伝チラシを配った効果も出始めて、芝居の観客がアトリエ館にも来るという流れができつつあった。ところが、コロナ禍で入館者は激減、止むを得ずの休館も重なったため、今は会期を一年間に延長している。

 武田先生によれば、アトリエ館には父の絵が1000 点以上あるらしい。どうりで、企画展のたびに見たこともない絵と出会うわけだ。
 「二人の男」「少年工」「よなべ」などの油彩画とも、そんな出会い方をした。どれも損傷が激しく、修復で蘇ったものだが、一目見て圧倒された。20 代後半から30 代後半にかけての父が、主観を排して「実存」に迫ろうとした気迫が瑞々しく伝わってくる。言わば、「真面目で誠実な永井潔」が反映された作品だ。

「むかでのお使い」 (『日本のわらい話』偕成社/1971年)
「むかでのお使い」 (『日本のわらい話』偕成社/1971年)

 一方で、父は物事を滑稽に読み解く皮肉屋で、よく笑い、笑わす人だった。そういう側面は挿絵に強く反映されている。
 父は、子ども向けの本の挿絵を多く描いたが、それは「お前を食わせるためだ」と言っていた。なので、生活のために仕方なく描いた絵としてとらえがちだったが、その認識は変わりつつある。
 カフェで『日本のわらい話』の挿絵を展示していたとき、父の描いた「たぬきときつね」「とうふとこんにゃく」「二ひきのカエル」「あほうどり」など、一点一点食い入るように見ていた知人がふと、「あなたのお父さんは、楽しい人生を送ったね」と言った。「こういう絵はしかめっ面じゃ描けないよ。描きながら、笑っていたはずだ」と。
 私は「むかでのお使い」の絵を見るたびに笑っていたが、描いた本人まで笑っていたとは想像していなかった。だが、足がいっぱいあるからと、急ぎのお使いを頼まれたむかでが、全部の足にわらじを履こうとして、かえって手間取っているこの絵は、確かにしかめっ面では描きにくいだろう。呆然と見ているへっぴり虫がまたおかしい。
 「こういう絵がたくさんあるということは、笑って、楽しんで描いていた時間がたくさんあったということだ。だから、お父さんは楽しい人生を生きたはずなんだ」と知人は結論づけた。そう断定されたことが嬉しくて、あえて反論しなかった。
 カフェではこの先も、挿絵画家としての永井潔に光を当てていく。企画展では「水辺の風景」「日本の風景」「外国の風景」「知人たち」「構想画」などの展示も予定している。 ぜひ一度、ふらりと寄っていただきたい。カフェごはんもおいしいですよ。


永井 愛(ながい・あい)
1951年生まれ。劇作家・演出家。1981年、「二兎社」を結成、公演活動の拠点にしている。『ら抜きの殺意』で第一回鶴屋南北戯曲賞(1998 年)、『?外の怪談』で芸術選奨文部科学大臣賞(2015 年)。著書に『書く女』『ザ・空気』など。