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韓国、花とARTの旅

公州のネーチャーアート

 

2012年4月の中旬、すでに何回も訪問した公州に又来た。友人の田宮さん家族と一緒だった。公州で独自に活動してきた美術運動であるYATOO「野投」の現在を感じるための旅だった。私が17年前にここに来て、錦江自然美術展&シンポジームに参加して以来、すでに20数回訪問している。コムナル公園の対岸に在るヨンミ山が、錦江国際自然美術ビエンナーレの野外設置場になっている。その登り口の道を挟んで、YATOO事務所、ギャラリー、野外展示舞台、会期中の食事や喫茶にもなる野外フロアー、小さな宿泊小屋、シャワー室などがある。あと公州近郊のウォンゴルと呼ぶ谷間の村にあるYATOOハウス。ここも小さな家を二つ増築中だった。ここでアート・イン・レディデンスが行われている。若い作家が長期に泊まって、作品制作をして発表する、年間の若手育成事業なのだろう。隔年のビエンナーレ、隔年のプレ展、ワークショップ、自然美術シンポジーム。など年中色々な企画展示、制作などやっている。専属の事務員、管理人なども紹介されたが、それらの人件費、設備投資など年間予算が、国や自治体から支出されているのだろう。
 ケナリ、桜、チンダルレの美しく花が咲く韓国の地方に、こうして30年継続するネーチャーアートの流派的な美術運動が在り、いま開花していることを確認できた。我々が到着した15日に終了したソウルでの「WIND OF PERSIA」のイランで開催したYATOO
とイランの地元作家らとのネーチャーアートの交流展のリポート展のカタログもいただいて、海外へも展開著しいこの運動体の総体を垣間見た。

 

民衆美術の画家 SON JANG SUP

 

ソウル仁寺洞は観光客であふれていた。かつての骨董屋と画廊の集中するこの町は、今や表通りはお土産物マーケットの感が否めない。画廊も売らんかなの作品 ばかりだが、偶然にKWANHOON galleryという場で展示していたソン ジャンスプという画家の真摯な作風に心を奪われた。記憶のアルバムのような小さな写真を描写した民主化運動の記憶が構成された大画面。それが大きな風景の 中にあったり、作者が隅っこに立っていたりする多くの作品は、生きた証であり、今も忘れない!と確かに言っている。この70何歳かの画家は民衆美術(ミン ジュンミスル)の人に違いない。大画面の多数の出品作をビルの1階から3階まで行ったり来たりして眺めて、清い泉を見たような、出会いだった。

 

DO HO SUH-Leeum SAMSUNG MUSEUM OF ART

 

 最近できたこのサムスンの美術館は企画展が「ドホス」という現代美術の個展、それと
韓国の伝統的な常設の古美術、近現代美術のコレクション展示と三つに構成された美術館で、その三つの建屋がそれぞれ西洋の有名建築家が自己主張した建物で話題になた。
 ソウルに行かれたら是非見て欲しい美術館だと思う、が、この企画展のDO HO SUH
-HOME WITHIN HOME-についてである。直訳すると「家の中の家」だろうか、彼のインスタレーション作品は本物の家をリアルに表現するが、素材は全く現実と違って、半 透明の布で出来ている。空間にその半透明の家がぶら下げられている。そして鑑賞者はそこに入って歩くことが可能になっている。韓屋スタイルのその半透明の 家は確かにそこに在るが、次の瞬間に霧散して現実には消えているような感覚を覚える。きわめて精巧に作られた部屋の部分は精巧であるが故に現実感が希薄に なる作用がある。ソウルに生まれ、ニューヨークからロンドンに住み制作してきたこの作者は、アイデンティティーの危機を内面に持ったのだろう。半透明の布 を使う前の作品で、ミニアチュールの西欧建築と内部の家具や装飾、生活の痕跡の中にまるで事故が起きたように、韓屋の伝統スタイルの家屋が飛び込んできて 破壊が起きたような作品は、そうした一連のテーマを象徴している。そこで
発見確認した自己内部の伝統という背骨を、ソフィスケートした形が、あの半透明の布の
家とその内部、そして韓屋という伝統スタイルのインスタレーション。-Gate-は文字通り門
のインスタレーションで半透明の布だが、そこにプロジェクターで映像を映している。時間の経過を風や鳥の動きを写したり、またはアニメーションで時代の経過も映し出す。両面からそれを映写するわけである。
 このLeeum samsung museum  of art で出会ったDO HO SUH(ドホス)は現代美術のあらゆる方法を使って自己の内面の危機を形象化して、設置空間の作品を提供していた。
多分アシスタントを使い、またエンジニアも使って多様な方法の作品を試みている。現代のアートの道はこういう形で進むのだろうな!と思った。それほど一人で職人的に作るにはメディアの多様な方法の進化は手におえない。そして可能性も大きく広がっている。

木村 勝明