原始美術のふるさとを訪ねて

大塩幸裕

 原始美術の魅力にひかれ、私はスペインとフランスのいくつかの洞窟絵画遺跡やそれらに関する博物館などを訪問してきました。原始美術の素晴らしさとその歴史的な意味について、そして生きること、表現することの現代的な意味について等、感じたこと考えたことを書いてみます。

 

1.アルタミラの洞窟 〈約2万2千年から1万3千年前。代表的な天井部分の絵は約1万4千5百年前。スペイン、カンタブリア地方、サンティリャナ・デル・マル近郊。1879年発見の洞窟絵画遺跡。黄土色の地に赤茶色の縞や斑点のある砂岩質の壁面。黒は炭、茶色は赤土を用いて、石灰分を含む水で定着。牛、馬、鹿、ヤギを描く。自然の凹凸や壁面の色の濃淡、亀裂の効果も利用し、石器による線刻と顔料による彩色を併用。限られた公開。〉

・サンティリャナ・デル・マルは、スペイン北東部沿岸カンタブリア地方の石灰岩台地にある 中世の街並みと教会を残す海岸からも遠くない美しい村でした。村の中心から南に2km蛇行する坂道を登ればアルタミラの丘に着きます。旧石器時代、今より気温は10度近く低かったそうですから植生などは違うにせよ、地形や日差しはそんなに変わってはいないでしょう。当時の人々に思いを馳せつつ、この村に着いた夕方、宿の窓から見える古い街並とその右奥に見えるアルタミラの丘を描きました(図1)。

 洞窟の見学は、文書による事前申請で年間8500人に限り可能でしたが、残念ながら日程の自由が利かない私はこれをあきらめ、その周囲を歩き、遺跡に隣接するアルタミラ博物館でその絵画の主要部分の精巧な立体的複製等の展示を見学しました。

 

・ここは、人を芸術家にする土地。なぜなら、村から丘へ至る道の切通しの断面を見るだけで絵を描くことを誘われるのですから。―その土はきらめくような美しさを持つ黄土色の粒子の濃淡様々な集まりです。そこに鉄分の影響で赤茶色の、また酸化マンガン類の影響で黒色の層や縞模様や斑点が加わります。そして岩には、当然のことながら自然の凹凸や亀裂があり―それらすべてが動物の艶のある毛並みや体の一部、動きや姿勢を連想させるのです(図2)。私も思わず、そんな切通しの模様の一つをスケッチブックに写生。自分が描いてるとは信じられないほどリアルな牛の横顔。自然の形に導かれて視覚的な記憶が誘い出されてくる、ワクワクするような時間でした(図3)。

 

・博物館には旧石器時代の顔料を潰す石器、武骨な手作りの筆の復元等の展示がありました。また、一見優美な牝牛の絵も精巧な複製を近くで見ると、石器で刻んだ下描きの推敲の跡は荒々しく原始の画家の岩面との格闘と造形的な探求を物語るものでした。原始の画家とて「自然が描いた絵」を手軽に写し取っただけではない。原始美術もまた自然の恵みと人間の労働の賜物なのだ、と思いました。

 

2.ペシュメルルの洞窟

〈約2万年前。フランス南西部ロト地方、カブレレ近郊。1922年発見の洞窟絵画遺跡。淡黄色~明灰色の石灰岩の壁面。黒、赤茶色の顔料を石灰分を含む水で定着。牛、馬、マンモス、ヒトを線描で、手形、馬を吹付け画法で描く。見学可能。〉

 

・蛇行するセレ川によって石灰岩台地が削られ、両岸には所々オレンジ色の混じる白色や灰色の崖が続く景色の中に小さな村カブレレはありました(図4)。道端の石も緻密で控えめな輝きを放っていました(図5)。その丘の上にペシュメルルの遺跡があります。保存への配慮から予約制で1日当たりの人数制限がありますが公開されており、私も実際に見ることができました。まず、入口に設けられた博物館を見学し、ホールに集合。遺跡の概要説明と見学上の注意事項を確認したあと、約20人を一隊として懐中電灯を持ったガイドの先導で洞窟へと入っていきます。夏でも冷たく清浄な空気が漂う洞窟で出会う黒や赤の単色画の世界。2万年という時間はほんの一瞬のように、作者の手の動きや心の動きが、何物にも邪魔されずに伝わってくるように感じられました。

 

・鍾乳石の作るやや彎曲した象牙色の壁面に描かれたマンモスや馬の線描画は、それぞれの動物の体型、質感や力動感を簡潔にとらえています。また、大きく平滑な灰色の壁面に描かれた等身大に近い大きな馬の絵は、大画面に適した吹きつけの技法で、斑模様の胴体や首の立体感が静かな迫力を持って描かれています。

いずれも素朴な表現ですが、線描表現の的確さや、吹付けの馬に見られる側面観の形の流れ、大きく強調された胴、小さな頭部、短く動きのある脚などの特徴は、次のラスコーの表現へと発展しているように見えます。

 

・管理人やガイドの厳しくも親切な態度からは、「この原始美術遺跡は人類にとってかけがえのないもの、そして万人のもの」という、保存と公開への熱意が伝わってきました。

 

3.ラスコーの洞窟

〈約1万7千年前。フランス、ペリゴール地方、モンティニャック近郊。1940年発見の洞窟絵画遺跡。白色~黄土色~褐色の石灰岩で砂岩質~結晶質の壁面。ペリゴール石(この地方の特産、マンガニーズブラック)、黄土、赤土を用いて、石灰分を含む水で定着。馬、牛、鹿、ヤギ、バイソン、犀、ライオン、ヒトを描く。自然の凹凸や壁面の硬軟・粗密を利用。石器による線刻と顔料による彩色を併用。非公開。〉


・フランス南西部の内陸に位置するペリゴール地方、とりわけヴェゼール川流域で、原始時代の遺跡が多く見出されるのは、この地方が原始人にとって生存の好適地だったからです。現生人類の直接の祖先とされるクロマニョン人の化石も当地で1858年に発見されました。石灰岩台地が削られ、両岸に断崖が続く風景は先に見たペシュメルル周辺と同様で、天然の隠れ家となる洞窟等で風雪や外敵から身を守れました。山川の幸に恵まれるとともに、当地を移動経路としていたトナカイの大群から食糧や毛皮が得られました。

そしてここは、原始美術の発達にとっての好適地でもあったのです。黒い石、黄土色から褐色に至る美しい色土が容易に見出せます。ラスコー洞窟は絵を描くのに適した明るい輝きのある壁面や丸天井等を特徴とし、この地方の数えきれない洞窟の中でも絵を描くために選りすぐられた洞窟の一つと考えられています。


・ラスコー洞窟は、この地方の小村モンティニャック(図6)の少年たちによりヴェゼール川南岸のラスコーの丘で発見された遺跡です。当地の道端の石は華麗で繊細な表面に赤土や黄土をしばしば付着させていました(図7)。ラスコーの一般公開は、1948年に始まりましたが、年間10万人超もの見学者が訪れカビの発生や石灰成分の変化による白い被膜の形成などの問題が生じたため、1963年に打ち切られました。1983年に本来の遺跡の近くの地下に造られたラスコーⅡは、技法や使用顔料を原作に忠実に再現し、その中を通りぬけることができる精巧な洞窟の複製です。また、売店では関連資料が売られていました。


・そのラスコーⅡを見学しました。本来の洞窟のうち最も華麗な通称「雄牛の間」、「軸の奥の間」の二つの部屋を再現したもので、ラスコーの全彩色画の90%を見ることができます。吹付け(液、粉末)、ステンシル、タンポ(スタンピング)、筆での描画といった多様な描法が見られます。線遠近法、明暗法、両眼視表現、デフォルメによる量塊表現による3次元的表現の試み等、後期旧石器時代の人々の美術の技法と芸術表現の爆発的展開―複製とはいえ、迫力と優しさに満ちた世界です。堂々たる牛、躍動する馬、孤高の野生ヤギ、「山親父」のあだ名を思い起こさせる熊、血を吐くライオン、誰はばかることなくたたずむ犀―よく観察された動物の様々な姿はありのままの命の尊厳を教えるかのようです。また、想像上の動物か?といわれる通称「ユニコーン」の絵も謎めいて面白い。最後に見た頭部と角の輪郭だけを黒い線で描き、あとは、それに連なる壁面の自然の白い岩の凹凸だけで牛の全身を暗示している「絵」からは原始の画家の声を聞いたような気持がしました。「おーい、君がここに牛を見出す自由な心を持っている限り、僕はいつも君のそばにいるよ!」と。

 

4.原始美術と私たち

 

・原始美術の誕生は、人類史上画期的な出来事。なぜなら、人間の意識が頭の中の過程だけで終わってしまうなら、何を知り感じ考えようとそれは時とともに消えていきます。人間には記憶力や想像力があるといっても、それらは不確かで、人に伝えることも困難です。

ところが一旦、絵画や彫刻などの美術の形で人間が自分の意識内容―例えば、「馬とはこんな形をしている」という認識、「その走る姿は美しい」という感情、「群れを成し互いを守りあうところは人間も見習うべきだ」という思考等―を表現するとします。そうすれば、それを客観的に自覚すること、何度も見直し推敲すること、時代や地域を越え万人による批判的な吟味の対象とすること等が容易に可能となります。だから原始美術の誕生は、「科学と芸術の誕生」とさえいえるような重大な出来事だったのだと思います。それまでとは全く違ったレベルで、人間の精神は誰もが享受できる共有財産になり、その発展はみんなの共同作業になったといえるでしょう。


・「自由な発想を尊重し、人間精神の豊かさと普遍性を みんなで築きあげていくこと」これはまさに芸術の原点として現代の美術においても決定的に重要なことではないでしょうか。そして、人間の尊厳は自然の恵みと人間の労働に根ざすこと、人間性の発展とはそれに対立する力を克服する不断の過程だろうこと―原始美術はその限りない美しさとともに数々の教訓を私たちに示唆しているように思えるのです。

 

*参考図書1.「アルタミラ洞窟壁画」 岩波書店  大高 保二郎、小川 勝 訳 2000年   (原著は、スペイン・ルンベルグ社 アントニオ・ベルトラン監修 1998年)2.Guide de Visite de la Grotte du PECH‐MERLE Cabreret‐Lot Castelet出版 1999年 (ペシュメルルの洞窟見学ガイドブック)3.LASCAUX LE GESTE,L’ESPACE ET TEMPS  SEUIL社Norbert Aujoulat著 2004年(ラスコー研究の全体像を紹介)*アルタミラ博物館(MUSEO DE ALTAMIRA)、ペシュメルルの洞窟(LA GROTTE DU PECH‐MERLE)、ラスコー洞窟(LA GROTTE DE LASCAUX)は、いずれも公式ホームページを開設しており、インターネットで閲覧可能です。