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アトリエ訪問 大野美代子さん

大野 恵子

9月30日、東京の瑞穂町の閑静な住宅街にある、大野美代子さんのアトリエを、編集部の菱千代子と大野恵子で訪問しました。玄関にはかわいいぬいぐるみが たくさん置かれ、2階のアトリエは明るい雰囲気で、佐藤勤氏からアイディアをいただいたという収納式の制作パネルが4枚あり、そこに制作中の油彩のS100号がありました。大野さんの畑でとれた野菜を使った手料理をいただきながら、さっそくお話を伺いました。

絵を描き出したきっかけは?                           

私は北海道の紋別で生まれ育ちました。小学生のころは 緘黙児と言われたほどおなしく目立たない子どもでしが、掃除の時間には張り切って板張りの床のすきまの綿ぼこりをほじくりまわして先生に「もうお願いだからやめておけ」と言われたりしていました。すでにちょっと凝り性だったようです。5年生の時に描いた、働く人の絵を、絵など全く分からないと思われる担任の先生がほめてくれたのをきっかけに絵に夢中になっていきます。その時から村瀬真治という流氷だけを描く先生の絵画教室に通い始めました。この先生は当時の流行もあって、私がピカソみたいな絵を描くとすごく喜んでくれました。モチ-フはいつもりんごやバイオリンなどの静物でしたが、私はいかに本物に惑わされないか(?)に腐心して描いていました。そして気がつくと中学2年には 一生絵を描いていくということを疑わなくなっていました。

  高校では美術クラブに入り、相変わらず『ピカソ』をやりながら石膏デッサンを始め、やっとここで正統派の仲間入りをしました。顧問は顔を出さず先輩たちとの切磋琢磨での受験対策でした。いつも学校中の電気が消された後も部室の教卓に隠れて絵を描いていました。真っ暗でなんにも見えないパレットの絵の具が何にも見えないキャンバス上でどんなことになったかを翌朝確かめるのがとても楽しみでした。時々巡回中の当直の先生に捕まって取り調べられましたが、先生は『しょがないな-』と盛りそばを食べさせてくれたりして、相当大げさですが、規則の隙間でやっと生かされているありがたさとはこういう事かと思いました・・。

  1968年北海道教育大学美術科に入学しますが、絵画科の教授は体調が悪く、あまり授業にも出て来られず、絵はどうせ一生描いていくのだからと絵画科ではなく美学を専攻。しかし時代は学生運動のピ-ク。おとなしく本を相手にしていればいい時代ではありません。実際にゲバ棒を振り回す学生はほんの数名でしたが、数名対数百人でも学生大会が流れてしまうという事に暴力の不条理性を痛感しました。当時は多くの学生が自分自身のスタンスをどう築くかを必至に模索していましたが、『展開しろよ』『ナンセ-ンス』の応酬で相手の意見をあっさり押しのけ合っていたので、そこで賢くなったかどうかは定かではありません。『我』だけが強くなって今に至っているような気もします。当時は民主的知識 人文化人という言葉が流行していて、そういう視点から、卒論は『プロレタリア美術運動』を自分がどう評価するのかをテ-マにしました。絵画と政治との距離、写実絵画と自分のこれからの表現の関係を探っていたのだと思われます。 

  大学卒業後、本格的に絵の勉強をするために上京し、民美の事務所で紹介された新宿の中井駅のそばの故・吉岡憲さんのアトリエにあった中央美術研究所に入ります。そこで川上十郎さん、岡部昭さん、若山保夫さん、手島邦夫さん、李貞美さんなどと交流する中で、絵に向かう態度のようなものを学びました。これが私にとっての絵の大学だったと思います。しかし、26歳の時どういうわけか心の中にふっと『もう仲間はいらない』という思いが湧きました。そこで研究所をやめ、それからは一人で制作していくことになります。28歳の時、「何かやってる人がいい」という、私にとっては都合のいい夫と出会って結婚しました。その頃はまだ絵を描くお嫁さんなんかごめんだ、という空気が残っていた時代で した。しかし、結婚したにもかかわらず私は22歳の時から子宮筋腫をかかえていて、結婚したあたりにはもう子どもは無理だろうとなり、ついに30歳で手術をしました。自分の意志や努力ではどうにもならないことが本当にあるもんだな-、と感心したものです。これが、環境汚染や生命や自然の法則などへの興味の入り口になったと思います。

  こうして20代後半は闘病の影響で、傷ついたトルソを、そのあとは列島改造中の田中角栄の顔、そして、『生きものたち』シリ-ズ、『胎生の花』シリ-ズ、ゴミ問題に悩まされて『汚染地帯』シリ-ズへとテ-マを移していきます。社会性のあるテ-マは扱いが難しくそれをテ-マにする時は、止むに止まれぬ思いが、造形と切り離されていたり、思いが単純化されすぎて押しつけがましい理屈に走り、観る人に余計なおせっかいになっていないか、見直す作業に時間をかけます。

 

好きな作家は?
   
ピカソ、ムンク、ゴッホ、セザンヌ、クレ-・ドガ、ロ-トレック・ダリ、つまり誰でもいいんですかね。あまり絵を見ることには興味がないのかもしれません。 

  制作の時下絵は作るんですか?
   
たぶん一度も作ったことがありません。作ったらどんなに効率がよいかと思うのですが自分の場合は下絵をもとにたった一本線を引いただけで、道草が始まるのが目に見えているので直接キャンバスに向かいます。ただ下絵なしで、旅に出ると、最後には絵が乱れ、旅の後始末がえらく大変ってことになりがちです。

 

現在の制作テ-マは?                              

ゴ-ギャンの言うように『われわれはどこから来て、どこへいく』という心境で制作しています。近年、自分がどうして今ここに存在しているか知らずに日々を生きることに違和感を覚えるようになったため、必然的に地球物理学や宇宙物理学をはじめ、人間のたどり着いた諸々の科学や、文化について今更ながらに学んでいます。特に宇宙を学ぶには今はとてもいい時代です。そのうち(?)宇宙が広がりすぎてご近所にはどんな銀河の光も見えなくなると言いますから。今後はいらない知識を捨てていく作業をしてやっと自分の世界が見えてくるのだろうと思われます。                                     

 

3・11についてはどうですか?                         

3・11が起きて、日本中の人が人間や自然と文明について考えているところだと思いますし、まだまだそれぞれの立場からのたたき台の議論が十分に出ていないと思います。こんな隙に右翼ばかりの政治が進行中で、これを許す土壌を提供している自分たちの弱さがどこからきているのかと思います。下からのファシズムと言っている人がいましたが、当たっているかもしれません。もう私たちは次のファシズムの中にいるに違いありません。

 

3・11以後、『絆』が強調されましたが・・・                  

農耕民族であった日本の集団的な『絆』は一歩間違うとその空気に染まらない人々をあっというまに無言の人々にさせる圧力を持っているので簡単に『絆』を礼賛出来ないと思っています。排他的な『絆』とでもいいますか・・・。『絆』が『相互監視』と同義語となって戦争に向かった時代があったことを思い出します。

 

なにか趣味はありますか?
 
絵のほかにはピアノを通じてもいろいろ考えたりします。自分にとってこれはただ事ではないと思うのがベ-ト-ベンの最後のピアノソナタ(32番)です。苦悩に引き裂かれながら強靱な渦をを作り、しかし最後は澄み渡るような繊細さで人類に悲痛な信頼を残して空の彼方に逝った・・・ように感じられます。最近はバッハからも多くを感じます。私的な感想から作られていないので、かえって普遍的なさまざまな人間の精神を伝えてきます。それが神との交信であるとしたら、人間にとって神とは何なのかという問題も立ちはだかりますが。また、音楽が数学から分岐したということは、宇宙の始まりを探していたら微少な素粒子と通じていたということに似ているような気もしています。ちなみに、私には『 数字』に色がついていて、1は白、2は肌色、3は黄緑・・・。年表を覚えるときは賑やかなものでした。

 

北海道に生まれ育ったことは絵に影響がありましたか?
 
北海道は気温が低く、グロテスクに物が腐るという場面に遭遇することが少なかったように思います。歴史が浅いせいもあって建物も文化も人間もあっさりしているよう感じていました。白い雪にはどんな色も似合います。また、地平線の広がり方とか、真っ直ぐに伸びる針葉樹など、幾何的な空間が多く、自然自体が何か悲しみを含んだ純粋な精神状態を作っているように見えていました。こうした自然のなかで育ったためか、どうやら自分は有機物の少ない空人間だと20代の頃から自覚しています。

 

長年されてきた絵画教室は・・・
 
大学時代は合唱サ-クルにいたのですが、みんな学校の先生になる予定なわけですから、いい教師になりたいと意欲満々で、サ-クル内に自主ゼミを作ったりして活動してました。夏休みは毎年、鍋釜背負って僻地訪問で、そこの子どもたちや先生、青年団と交流していました。こうした学生生活で良くも悪くもすっかり教師根性が刷り込まれてしまいました。教室で生徒から一番学んだのはお互いの『人間性』を楽しむということです。あいまいさを生きる能力もいくらかアップしました・・・。

 

   大野さんは現在、多摩地方の作家の集まりの『TACネットワ-ク会員』としても活動しています。これは子どもや地域と作家の交流事業で、展覧会やワ-クショップはもちろん、鑑賞教室や学校で出張授業をするなど、市民ボランティアとともに様々なことをする集団です。これからも自分を含めた人間や自然や社会との偶然の出会いを楽しんで、その時々の苦労を味わって制作していきたいと最後に語られていました。

   スケ-ル大きなお話にぐいぐい引き込まれて、あっという間に長い時間がたってしまいました。大野さんの骨太の生き方に圧倒されながら、絵を描くとはどういうことか、絵に向き合う姿勢を学んだ気がします。ありがとうございました。