共感覚・共存 ― 西良三郎の世界

9回アンデパンダン展 「マレービッチの回想」
9回アンデパンダン展 「マレービッチの回想」

私はとある専門学校で西良三郎にジャズ・ピアノを学んだ。もう30年近く前のことである。その時の生徒は私の他、今では電子オルガンの第一人者となった鷹野雅史や演歌の編曲家として有名な伊戸のりおもいたが西良三郎の弾くピアノ、長身でダンディな姿と知識と説得力のある言葉は私達生徒にとって常に刺激的であった。授業で西はよく「五感で弾くように」と私達に言っていた。この言葉は「深い志向のメッセージ」となって時々私の脳裏をよぎり未だにその意味を把握しかねている。いやむしろその意味をめぐり一生の課題を与えられたような気がする。

 

「五感で弾く」とは換言すれば「共感覚」や「共存」と言うことなのだろうか。「共感覚」とは、音を聴くと色を感じ、色を見ると音を感じる特殊な能力のことを言うようだ。もしかして音楽家であり、美術家でもあった西にはそのような能力が備わっていたのかもしれない。

あるいは心理学でよく使われる反転図形「ルビンの盃」で「2人の顔」に見える時もあれば、「盃」に見える時もあるように西の脳裏は意識によって音楽と絵画が共存しそれぞれが見え隠れしたのであろうか。

 

それを解く鍵は西が最も影響を受けた「セザンヌ」と「ジャズ」にある。メルロ=ポンティによれば、「セザンヌは宇宙を外からながめるような「上空飛行的視点」ではなく、身体をもった人間のパースペクティブのもとに現れる厚みをもった世界を垂直線によって描くことによって「なまの存在」「根源的世界」に立ち返ろうとしていた。それは表面の「見えている関係」ではなく、見えない奥行関係のなかに「今-ここ、に生きている私」と「世界」との根源的関係を、手探りで確認しながら生きてゆく世界である。」と指摘している。また西はセザンヌについて「それまで私たちがみてきたすべての絵画と一線を画する異次元の空間に招き入れる。たとえばショッケの肖像はフォルムの上で背景の余白面積と相互関係にあり音楽で謂う対位法を描く」と述べている。これらの言説はまさに西の音楽観と重なって見え隠れする。

 

西のレッスンは2台のピアノで行われ、生徒達には「ブルース」を引かせることが多かった。西がベースラインを弾いて伴奏役となり生徒が代わる代わる自由に即興するのだが、技術的な助言は一切なかった。「五感で弾く」ことと、もう一つ「他の人の演奏を聞くように」ということだけだった。

 

それで、十分だった。そこに正解はない。ただ弾くことが答えなのである。

 

近代クラシック音楽は、メルロ=ポンティの言う「上空飛行的視点」つまり、作曲家が自己の外側から観察者の立場で楽譜に音を固定させる音楽である。しかしジャズはそうではない。他者との対話(合奏)を通じ演奏者が作動のままにその都度、音を構築していくのである。

 

それは、自己の内面におけるカオスや無意識の情動と、音を分別(ふんべつ)する「言分け構造」(コスモス)が西の言うように相互関係の対位法となって喚起されるのである。生成する音は過去や未来は問題とならない。メルロ=ポンティの言うように「今-ここに生きている私」と「世界」との根源的関係があらわになるのである。

 

よく音は聴覚による時間芸術、絵画は視覚による空間芸術などと言われることがあるが、それはあくまでも、科学、道徳、芸術が細分化された近代的ディスクールの世界、古典的な美学の世界の話である。私たちはそのような分別された世界に洗脳されているに過ぎないのだ。

 

西良三郎の共感覚・共存という両義性は生成、関係性、無意識の構造をあらわにし、私たちが失われつつある人間本来の前自我的な世界へと私たちを開放するのである。

 

ところで、私の家には私が子供の頃からセザンヌの複製画(青い花瓶)が飾られていた。長い歳月が経ちキズも目立つようになったため、引っ越しを機会に処分したのであるが、西の訃報を聞いたのはそれからまもなくのことであった。仏教の無常の思想が示すように生あるもの、形のあるものは必ず消滅する。しかし、西良三郎の意志や業は流転しながら次の世代へと受け継がれていくことだろう「五感で弾くように」と。


河合孝治 (かわいこうじ)

サウンドアーティスト、学際芸術研究家。 

ISEA電子芸術国際会議、ISCM世界音楽の日々2010、opus medium

projectなどでパフォーマンスや作品を発表。