· 

「ソ連における日本現代美術展」研究序説

はじめに

2011年4月23日、東京都現代美術館で開催された《『美術運動』から読むアンデパンダンの時代》において私は〈日本美術会と青年美術家連合について〉と題し、当時からフリーで活動している池田龍雄がどのような団体に参加し、どのような作品を読売と日本美術会のアンデパンダン展で発表し、どのように様々な団体と離別していったのかを示した。そこで〔ソ連における日本現代美術展〕(仮称)という興味深い事象に触れ合うことが出来た。本稿では〔ソ連における日本現代美術展〕の実体を浮き上がらせ、重要性を論じ、その上で今後の課題を引き出す。

 

1.日本美術会における検討

 

〔ソ連における日本現代美術展〕について1962年2月に発覚した当初、日本美術会の機関誌「美術運動」上では取り上げられたが62号から65号までの一年間という僅かな期間で抽象的曖昧な議論に終始し、明確な内容が記されることはなく紙面からその名が消えた。

 

 日本美術会の出版物で、その内容を客観的に伝えているのは「総会第三日を持つに至った経過についての中間報告」(1962年4月3日印刷/日本美術会事務局)である。この裏表のみのチラシには総会第一日(2月25日)と、第二日(3月10日)に行われた討議が簡潔に記されている。

 

「ソヴエトに於ける「日本現代美術展」が問題として取り上げられ この展覧会が 日美結成以来の会員によって計画 運営され 殊に 洋画の部に於いてその推進者及び出品者の殆んどが 日美の委員 古くからの活動家であることが 進歩的美術家の指導団体である 日美本来の趣旨 又特にその綱領に 国際交流の促進を強く謳っているにも拘らず 之を 日美の大衆討議の場に持ち出し得ず二年の間 一般会員 出品者外の委員相互に 詳細が秘匿された形で行われた点に対して 之を非難する 多数の激しい発言がありました」。

 

日美結成以来の会員が一般会員にこの展覧会を隠蔽して進めたという趣旨が読み取れる。このままでは委員の投票が行えないとして、二日目が用意される。

 

 二日目は「参加者からの説明により 次第にその概要が出席者に明らかになったと同時に 又その参加者自身もその経緯と 交流委員 出品者の進出方法 氏名等の全貌を知らないことも明か」になる。そして名前を明らかにされていない29名の共同提案の内容の抜粋が記されている。

 

「1 会員相互の「日ソ展」参加者の責任追求と 新中央委員会を 問題解決までつくらない/1 日美として「日ソ展」モスクワ受入側に声明を送る/1 総会を二回目で完結させてはならない/1 日美の「年表作製委員会」をつくる」。

 

続けて小委員会より丸木位里氏に対しての質問が為され、丸木の口答が記されている。日ソ出品者の最終的名簿の質問については日本画37人、新井勝利、安孫子荻声、岩橋英遠、伊東敏博、岩崎巴人、岩田弥光、井上恒也、池田栄広、岡田錬石、奥田元宋、鎌倉秀雄、片岡球子、河合謙二、菊地養之助、小谷津任牛、小柳創生、酒井亜人、佐々木邦彦、島田訥郎、田中路人、田中嘉三、中島多茂都、中島清之、西川春江、浜崎左髪子、羽石光志、長谷川路可、長谷川朝風、樋口富麻呂、平山郁夫、船田玉樹、真野満、丸木位里、森田曠平、吉沢照子、吉田善彦、樋笠数慶、洋画49人、阿部ケイ、井上長三郎、市村三男三、岩崎ちひろ、伊吹英次、岡本唐貴、大月源二、岡本実、大野五郎、薗田猛、田中義三、高森捷三、高柳博也、高谷洋一、寺田政明、寺島貞志、永見譲治、中谷泰、河越虎之進、金野新一、小出峯雄、小松益喜、小渓住久、桜井誠、佐藤真一、新海覚雄、杉本博、須山計一、永井潔、中居定雄、長沢政輝、中島保彦、中間冊夫、花谷時子、浜田善秀、硲伊之助、平野順一、深沢紅子、別府貫一郎、丸木俊子、まつやまふみを、箕田源二郎、向井潤吉、森本仁平、矢部友衛、山上嘉吉、寄本麟二、吉井忠、吉田利次の氏名が記される。

 

最初の人選及びその経過の質問については「膨大であるから総会で説明する」、日ソ美術交流委員会の氏名及び同委員会選出の形式の質問については宮川寅雄、河北倫明、箕田源二郎、井上長三郎、中谷泰、永井潔、吉井忠、桜井誠、岡本唐貴、矢部友衛、丸木位里、須山計一、新海覚雄の13人の氏名と「委員会として実体を具えたものでなく その都度依頼した 会の運営上の発言 出品勧誘をした人を 委員と考えていた」、当初からこの展覧会に対して考えていた内容と性格の質問については「ソ連側は 要求は主として日本画であり キボは何度も変り 段々に拡大された/それにもとづいて 全画壇的にわたる実力者(連絡のつくはんい)によって構成することを考えた/しかし出品拒否 新に参加した人などで 初めの意図が変化した」と答えている。

 

総会第三日目(4月11日)の内容は、『日本アンデパンダン展の25年』(1972年5月/日本美術会)から引用する。「すでに実現の段階にはいっており、それを中止・延期するということは不可能であり、(中略・引用者)投票の結果は辞退、除名を求めた人たちとその対象者たちを含め30人が決定した。」これを了承して第三回の総会が終わるとある。

 

『日本アンデパンダン展の25年』の引用を続けると、発行された1972年においても総括が成されることはなかったことが伺える。中島・杉本・金野の連名による「「日本現代美術展」をめぐって」(56-57頁)において経緯が記され、「3回にわたる日本美術会の総会での混乱は、つまるところ「ソビエトにおける日本現代美術展」の企画、運営に参加した日本美術会の委員は、会の趣旨にそってなぜその展覧会をわが会内の問題にしなかったのか、こうした原因は日本美術会の体質と関係があるのではないか、作者の選び方のなかにもえらばれた作品の傾向にも疑問がある、ということから出ている。/したがって新委員会は、それらの疑問を逐次実践的に解決していくことを本年度の方針とした。/新役員が構成されても内部は余震が続き、委員会活動は活発といえず財政的にも困難を増し、退会者があいついだ。委員会はとりあえず財政の節約と意志の統一をはかるため、各部を事務局の中に包括し、必要に応じて各部の活動に全員が動くような組織にととのえた」と結論付ける。「激震」から10年後に書かれたこの一文にも、「余震」が続いていることが読み取れる。

2.29人による「日本美術会62年総会への提案」

 

B4裏表一枚のチラシによるこの声明文の趣旨は「私たちは会と会員が他とのつながりの中でおこった「日本現代美術展」の企画、実行は単に一つの展覧会と別の団体との問題に、せまく限定された問題ではなく、いわゆる「民主主義的美術」の問題と日本美術会結成以来の組織内部に結びあっている一つの否定的事態と考える」という一文に尽きる。29人は朝倉摂、池田龍雄、井手則雄、入江比呂、入野達弥、伊藤和子、大塚睦、小粥智夫、落合ゆかり、桂川寛、片寄みつぐ、桜井誠、渋谷草三郎、園阿莉、高山良策、田中義三、中川俊雄、中野秀人、中村宏、中山正、福田恒太、前田杜士、森田信夫、薬師寺浜、山下菊二、山崎外郷、山野卓、渡辺皓司、落合茂である。日付が6月10日となっているが、3月の誤植であることは第二回総会の日付を辿れば理解できる。

 
この内容は、前衛美術会の機関誌である「芸術ノート」No.3(1962年4月20日)に再録されている。「芸術ノート」の奥付は61年になっているが、これもまた内容的に誤植である。「これ等の報告の後、「提案」は一部を修正してすべて可決され、日美委員会選挙は第三日目総会出席会員於て、再度行なわれた。反乱はほぼ成功したかに見えた。が――」。という一文で閉じられ、その後の「芸術ノート」においてもこの問題が言及されることは一切なかった。「美術運動」64号(1963年1月15日)無記名「総会を経て」に「脱会するあなたがたこそ反乱を不成功に導くのである」という一文が記されている。29人の内、少なくとも井出、入江、入野、大塚、桂川、高山、中村、山下が前衛美術会、伊藤、渋谷、中野、渡辺は日本美術会、片寄みつぐは漫画家、桜井、山崎は挿絵画家であることは調査した。「ソ連における現代日本美術展」と前衛美術会の関連性を探ることが、当時の美術界の動向を浮き彫りとする機運となるのであろう。

3.当時のマスコミの反応

 〔ソ連における日本現代美術展〕について、当時の美術研究所編『美術年鑑』に記述はない。美術雑誌で取り上げたのは「美術手帖」1962年5月号のみである。

 

無記名「日本現代美術展/五月にソ連で開催」(78頁)によると、「全ソ美術家同盟の招請により、ソ連で、五月末に「日本現代美術展」が開かれるが、日本美術交流委員会(事務局・岡本唐貴)ではこのほど次の八十七名の出品作家(日本画三十七名、洋画五十名)を選び、約二百点の作品をソ連へ送った」とあり、出品者の名前が羅列され、「総会第三日を持つに至った経過についての中間報告」には記されていなかった木下義謙の名前が洋画に追加されている。矢部友衛《平和署名》と丸木位里《煙を吹く浅間》の図版が掲載されている。同誌に針生一郎が「芸術交流を誤るな―訪ソ「日本現代美術展」―」で、問題なのは日本美術交流委員会の存在と作品の人選であると論じている(80-81頁)。引用・要約する。

 

「…奇妙なのは出品者の顔ぶれである。…プロレタリア美術生き残りの連中を中心に、…官展系の長老、…「在野」具象派、…職場美術の作家たちまで、雑然と加わっている。相手がソ連だから、この機会に写実派リバイバルを!というわけだろうが、それにしてもこれが「日本現代美術」を代表するに足る顔ぶれだろうか。一方、日本画のは((ママ))ふしぎに院展系中堅世代と水墨画にかたよっていて、洋画とはまたちがった派閥のにおいがただよっている。もともとこの企画は…いろいろな情報があって、委員会の正確なメンバーはどこにも公表されていない。…日本美術会では、二月のアンデパンダン展の会期中にひらかれた会員総会で、この展覧会にたいする批判の声があがり、出品者および関係者の責任追求にまでおよぶ形勢となった。日本美術会は…、結成以来の中心メンバーが国際交流についても、芸術運動についても、せまい派閥根性しかもちあわせていないことが明らかになったのである」。

 

つまり日本美術会のベテランが中心となって実態のない委員会を創り上げ、派閥争いの果てに自分達が主張する作品を、日本美術会の会員に対して民主的な相談もなくソ連へ送ってしまったということになる。

 

また、1962年5月には毎日新聞主催の「第五回現代日本美術展」が開催されている。国際展と合わせると9年目になるこの年の展覧会には岡本太郎、山口長男、加山又造、浜田知明、林武、今井俊満ら招待部門300点、公募部門には250点が出品されており、当時の大家、中堅、新鋭が網羅されている。針生が無意識に東京都美術館で開催される「現代日本美術展」と〔ソ連における日本現代美術展〕の「国際性」を比較してしまうことに無理はないと考えることは自然であろう。

 

29人の若手会員が反旗を翻す姿に対して針生は「…わたしは日本美術会の若い有志が、ソ連との真に自主的な交流の道を打開しようとしている姿に注目する。日ソの文化交流が一政党のおもわくに支配されている現状では、それはたいへん困難な仕事だが、それだけに個々の美術家の思想の自立が要求されるのである」として考察を終えている。美術家の自主性、自由、自立という、針生がこの時期に繰り返し書き、語った主張である。針生は日本美術会を非難するのではなく、問題を日本美術会内部に留めようとせず、日本美術会外部の、日本の美術界全体に派生させようとしている点を読み取らなければなるまい。

 

「芸術新潮」1958年1月号に「芸術は政治に動かされている」という特集がある。「変な賞金が投げた波紋―アジア青年美術家展」「絵よりも政治に忙しい人たち」など6項目の中に、「赤い団体・日本美術会」とある。「日本美術会が政治的色彩が強すぎ、共産党の出先機関のような印象を外部にあたえている、という声は、創立まもない頃から大会等の席上でしばしば聞かれ、ヒューマニズムの擁護と国際的な進歩勢力との提携といった線で、なんども当初の趣旨が確認し直されている。だが、2・1ストにはじまる占領政策の転換、各職場ではじまったレッド・パージ、読売争議、東宝争議、下山事件、三鷹事件、松川事件、徳田球一ら日共中央委員の追放潜行といった世相のなかで、会の空気は否応なくラジカルな悲壮感に追いつめられていく側と、政治色を嫌う側とのへだたりを大きくしていった」(304頁)と定義されている。これは明らかな反共記事であると言っても過言ではないだろう。資本主義を前提とする「芸術新潮」誌上において、岩崎巴人が「レングラートから」(1962年8月号)、「さまようソビエト美術界」(1962年11月号)と、当時のソ連美術の動向について報告しても、決して〔ソ連における日本現代美術展〕についての記事が掲載されることは無かった。

 

それは「美術手帖」も同様である。岩崎巴人「ソビエト紀行」(1962年11月号)には「筆者は「訪ソ現代日本美術展」出品者の一人として去る五月に渡ソしモスクワ、レニングラード、キエフなどを訪ね、六月に帰国した」と紹介されているが、本文に〔ソ連における日本現代美術展〕の内容はなく、イコン、民衆版画、絵本についての言及が記されている。

 

〔ソ連における日本現代美術展〕の展覧会評が一つだけ存在する。それは「美術手帖」上で「事務局」と記された岡本唐貴による「モスクワの日本現代美術展」(「アカハタ」1962年7月3日付)である。岡本は「われわれ日本の画家、新井勝利氏を団長に岩崎巴人、丸木位里、大月源二氏と私の五人はモスクワに着いて美術家同盟にゆき、その足ですぐ東洋美術館にいった。そこに五月十一日から日本現代美術展が開かれていた」と稿をはじめ、日本との陳列の違い、座談会やレセプションの様子を言及し、「日本画と油絵とをまぜて157点、88名の出品画は、社会的シーンを描いた油絵などの生活的リアリティのあるものを土台に、日本画の物語性や華やかな装飾性など、かなり物めずらしく、表現の一面的な多少のとっぴさも、かえってこの国のあのガッチリしたアカデミズムの画風と対照的で、そこに一つの新しい刺激を感じているのではないかと、わたしには思われた。(中略・引用者)民族遺産の発展と、外国美術の正しい取り入れ方についてのレニングラードの若い画家の悩みを聞いたとき、われわれは美術の国際交流の意義をあらためて感じ、今回の展覧会がむだな骨折りでなかったことを確かめた」と29人の提案を無視して自画自賛する。

 

「モスクワで一ヶ月間開催が二ヶ月間にのび、レニングラードでは二ヶ月間エルミタージュ美術博物館で開かれることになり、さらに来年の春までというのを、一応おことわりして年内に返してもらうことにした」という記述は他にはなく、今後の研究の参考となる。

会期終了についての明確な記述がなくとも、不鮮明な会場風景写真の右上に丸木位里《煙を吹く浅間》が確認できることから、この展覧会が実際に行われたことは判断することができる。

 

4.今日の研究

〔ソ連における日本現代美術展〕は当時の美術批評/研究の場においても無視され、事実は霧の中へ消えていった。1990年前後、全国に国公立美術館が配置され、郷土作家研究に勤しむ状況が生れたとしても、この問題を掘り起こすに至っていない。

 

『丸木位里展』(1992年/広島市現代美術館)カタログ収録の出原均・編「年譜」に「1962年5月、日本現代美術展(ソビエト)出品《煙を吹く浅間》」と記されており、追跡調査を行ったところ「わたしは一昨年現在、日本美術展を持ってソ連へ行きました。それは、日本画洋画合わせて二百点の大作ぞろいでした」(「三彩」1964年7月号)という一文のみを発見できたに過ぎない。『突端に立つ男 岡本唐貴とその時代1920-1945』展カタログ(2001年/倉敷市美術館)の佐々木千恵・編「出品作家略歴 岡本唐貴」には「1961年(中略・引用者)。同年ソ連でも日本現代美術展開催のため丸木位里、矢部友衛らと訪ソ。」(111頁)、「関連年表」には「1962年5月 日本現代美術展(主催:全ソ美術家同盟・日ソ協会 モスクワ・国立東洋諸民族芸術博物館 8月エルミタージュ美術館巡回)に《石切場》など4点を出品」とある。坂上義太郎・編「井上長三郎年譜」(『井上長三郎展』カタログ/2003年/神奈川県立近代美術館+伊丹市立美術館)に「1962年3月、ソ連邦における日本現代美術展に《壁画》が出展される」(140頁)と記述される以前の井上の文献には、この文字を発見することは出来ない。

 

丸木と岡本、井上に対する研究においても「ソ連邦」と「ソビエト」という名称が異なり、当時のアカハタには「モスクワ」とある。3月と5月と時期も明確ではない。丸木自身の言葉に従えば、1963年に行われたことになる。ここまで引用した文献を顧みても、「日本現代美術展」、「現代日本美術展」と表記が統一されていない。「美術運動」「芸術ノート」とほぼ自費出版的な文献の誤植を責める訳にも行かない。本稿でも明らかな誤植以外を指摘する暇がなかった。詳細な聞き取り調査の可能性も少ない。しかし〔ソ連における日本現代美術展〕の考察は、今や世界で注目される1960年代の日本の美術研究の俎上では不可欠な内容である。

おわりに

上層部に対して民主主義の下、去る者、残留する者と岐路が分かれても闘いを挑んだ記録は一つの事件である。1962年といえば読売アンデパンダンが過激さを増し、同年12月に東京都美術館は「陳列作品規格基準要項」を制定、それでも挑発的な作品を作家は発表しつづけ、遂に64年の第16回展直前、突然開催中止を余儀なくされた。作家にとってアンデパンダン展とは、自己の主張する作品を自由に展示できる唯一の場であった。つまり、読売の中止の遥か2年前、作家の自由を剥奪される大事件が起こっていたことになる。

 

「芸術新潮」1962年4月号には無記名「二つのアンデパンダン」という記事があり、「「日本」の方は主催者、日本美術会の性格を反映して、たぶんに社会主義リアリズム的な作品が多いのにくらべて、「読売」の方は、これまた主催者、読売新聞社のジャーナリスチックなムードを映して、たぶんにゼンエイ的だった。(中略・引用者)作家の思考が打ち出されていればいいのだが、日本は絵具にとどまり、読売はモノにとどまって、それ以上の何も表現されていない」という記述となっている。「芸術新潮」が資本主義に毒されていると前述したが、唯一の言及であったとしても、針生の見解はどのような立場にいるのか再考しなければならないであろう。

 

また、『日本アンデパンダン展の25年』に掲載されている当時の出品図版を追い、前衛美術会の作家やここには掲載されていないが池田龍雄の作品を思い浮かべると、多分に社会主義リアリズムの作品一辺倒ではなく、前衛的な作品が多く含まれていることも考慮に入れなければならない。例えばヤン・シュバンクマイエルは生まれ育ったチェコスロバキアが連邦共和国になるまで、自己の画風であるシュルレアリズムを発表出来なかったという。日本美術会は自由を標榜し堅実に守っている面があるので、このような事態は発生しない。

 

そして重要なのは、今日の『美術運動』が単なる日本美術会の機関誌から脱却して、開かれた美術雑誌を目指している点にある。会員以外の記事、Webでの活動、紙媒体の配布先の拡張など、これまでにない展開を見せている。資本主義の美術観が総てではない。これからの美術研究は、様々な見解から真実を見極める眼が必要となる。〔ソ連における日本現代美術展〕を日本美術会の問題に留めてはならない。この私の意志と『美術運動』の編集の意図が合致し、この研究が掲載されたことを切っ掛けに、現代に繋がる、真の意味での敗戦後日本美術研究の序説になることを、私は心から願う。

 
 
宮田徹也(日本近代美術思想史研究)