―SINCE311―展と平和美術展への若干の想い

百年後の君へ ーSINCE 311ー 展
百年後の君へ ーSINCE 311ー 展

悪天候に見舞われた「第62回関西平和美術展(8月27日~9月1日)」も無事に終えた。異常な政治に市民運動が高まるなかでの平和美術展に関わらず、物足りなさを感じながら、心の穴埋めを求めるように「―SINCE311展」に行った

 

311を機に壊れた世界。
そして人は、100年後1000年後10000年後の世界をも壊そうとしている。

あなたはどのような(未来)を望みますか。?


と言う問いかけのもと、企画・イノチコア(原発事故避難者からの呼びかけに、イノチの大切さ、人間や世界のありかたについて、様々なアーチストが集まり、イノチ・人間・社会や世界について考え、それぞれの表現へのきっかけ作りを目指すグループ)

主 催・SINCE311実行委員会で、大阪・南部に位置する和泉市で開催された。実行委員会で東北・関東・関西の数々の展覧会からアーチストに依頼したと云 う。そのなかには、アンデパンダン展や関西平和美術展も視野にはいっていたという。出展作家は其々面識もなく、企画に賛同しての参加である。

会期:2013年9月8日~23日

会場:和泉市久保惣記念美術館市民ギャラリー

 

参加アーチスト

石川雷太  (茨木) 現代美術、インスタレーション

羅入    (京都) オブジェ、銅版画

鷹堀三奈  (大阪) 絵画

藤原重夫  (大阪) 水墨画,日本画、データーによる展示

山下二美子 (奈良) 絵画

関本欣哉  (仙台) 現代美術、インスタレーション

イノチコア (東京・大阪・京都・他) 現代美術、インスタレーション

ゼロベクレルプロジェクト(東京)現代美術、インスタレーション、パフォーマンス


各地で自然災害が相次いでいる。異常気象の要因が地球温暖化にあると聞けば、これも人災と言える。しかし、福島の原発事故は自然災害が要因とは云え、一度、事故に見舞われれば、その影響は計り知れない。今も汚染水は止まらず、放射能をおびた水は地下水に届き、海にも流出していると云う。本展覧会初日にオリンピックの東京開催が決まった。世界が危惧するなか、首相は「状況は完全にコントロールされている。東京は安全だ」と大見得を切った。コントロールしたのはマスコミのことではないだろうか。一国の首相が7年後の日本は安全だと世界に宣言した日に「百年後の君へ」と問いかけたこの展覧会は絶妙のタイミングで開催されたことになる。

展示は『現実』『生と死」』『根源/無意識』をテーマ別に3つの部屋で構成されているが、各作家ごとに作品を観る事にする。

石川雷太・「福島第一原始力発電所の2013年8月現在の状況を視覚化した」とある、パネル作品『メルトダウン・メルトスルー・メルトアウト』2013年8月現在の炉心図、簡略化された図から私たちは、全てを奪われることの状況を、具体的に想像しなければならない。インスタレーション『アトミック・食べ物』低レベル放射性廃棄物の保管ドラム缶と、安全とする食品の放射線基準が同じであることを、模擬ドラム缶と食品サンプル・牛頭骨を配置することで、疑問と危惧を視覚化して見せる。判り易いが説明的で作品世界に入りきれないもどかしさを感じた。

関本欣哉・『Untitled』ミクストメディアによる2点の同題名の作品。原発事故と日本の戦中の映像を重ね合わせることで、事故に対しての国の対応、報道などに国民の意識が操作される危険性を表現している。作品が小振りで折角の意図が半滅して感じるのは残念である。

山下二美子・『氷輪・風下の地』アクリル・箔・キャンバス。第65回アンデパンダン展・第61回関西平和美術展に出品され、話題になった作品。4枚綴りの1枚づつを交互に見ることで、より臨場感が増し観るものに迫ってくる。破壊力と壊されたもの、残されたものへの想いが、月・猫野託されて滲む。本展覧会には出品されていないが、今年度作品の『眠る村(風下の地)』は、より静かに語りかけてくる。いつもと変わらない風景の情感に浸らせて、作品に近づくものに見えない汚染を気付かせる。放射能マーク使用の賛否を越えて、状況の恐怖と無念が迫る。近年、具象性が増している。生活の変化もあるのだろうが、震災という具体性が具象性を必要としているのだろう。

藤原重夫・『3・11』『誰も居ない海』水墨画。迫り来る津波の惨状、空のグレー、波の白がやわらかく美しい。私たちは報道された映像により、繰り返し波に飲み込まれる岸壁、流される家屋、人や車を見た。見せられたからこそ、作品の美しさを越えて具体的な想像を働かせる。もう1点の、題名どおりの誰もいない海岸風景。3・11を知らなければ美しい風景画である。震災を知った今、鑑賞者は作品の意味を理解し、さらに巡る想いは制作者の意図を越えるかも知れない。同名の歌でさえ、今はその歌詞に、より大きな意味合いを感じることだろう。別室に展示されている『生命(桜)』『「生命(山)』の2点も、3・11以後に描かれた作品。もともと、自然・人・命への想いは芸術の心肝であり、そのために作品は生み出される。震災以前に描かれた作品も,観るものに新たな感慨をもたらすのは、災害によっての経験が作者を越えて鑑賞者が感じるからと云える。

鷹堀三奈・『夜明け―鎮魂華―』蓮花が並ぶ。困難に負けず生きる力を、泥の中から美しい花を咲かす蓮に託している。他2点『生命の樹・すべての母なるもの』『生命の樹・すべての父なるもの』ともに、生命の連環とそれを壊す人間の傲慢を装飾的な表現で告発している。この作品も藤原作品と同様に、直接、震災を描いてはいないが、作家も鑑賞者も共通の認識があることで、作品を読み取ることができるのだろう。

羅入のインスタレーションは、暗室に浮かぶ万物の創造主像と足元に棺を並べることで、命の連環、それをも崩す人間の所為を問う。

他に、イノチコア・ゼロベクレルプロジェクト・石川雷太の共同作品があり、ネットや口コミなどを通じての、草の根的な活動のパネル写真や寄せられた有名・無名の人々の言葉をパネル構成することで、運動の多彩な拡がりを希求し伝える展示。

メッセージを集め構成したパネルは、様々な言葉を読み取るうちに、読む側の思いが引き出されていることに気付く。作為のないシンプルさが、観るものの心に伝わるようだ。

東日本大震災は原子力発電が、安全神話と平和利用という甘言から、取り返しのつかない危険性を現実のものにした。エネルギー政策の転換と次世代への展望、復興への取り組みは、敗戦から立ち上がる姿を彷彿とさせる。戦時中野教訓から創設した日本美術会・日本アンデパンダン展、その他の様々な美術運動。再び戦争への道を歩まないと誓った平和美術展。社会の変革を求める大きなうねりが起こるとき、新しい認識の芸術が生まれる。今、何かが変わるのではと云う期待感がある。「―SINCE311―展」も、反原発の意図に基づき、実行委員会で作品を選び企画した、市民運動の文化活動の新しい動きといえるだろう。アンデパンダン形式の平和美術展では、平和というキーワードが、反戦だけではない、裾野の広い作品の結集になってはいるものの、ともすれば、一般的な展覧会と大差ないことになりかねない。もちろん、「平和への想い」という壁面に、多数が参加することに意義があることも否定はしない。平和を願う作品を審査すべきではない。それでも美術展であるかぎり作品が語りかけ、見応えのあることを望む。創作の自由をうたうアンデパンダン展とも違う、平和を願う美術展には、平和のための展覧会を創るという意識がいる。誰でもが出品できるが、なんでも出品できるわけではない。日常風景や静物画など身近な題材で想いを託した作品も、平和への希求を強く訴えた作品に混じってこそ、拡がりを持った平和美術展となるのだろう。これは、今のあり方を批判したり、作品の批評や規定・選択を意図している訳ではない。集団でも個人でも、その年によって気持ちの高揚、想いの波があることは承知している。今年の平和美術展での個人的な印象にすぎない。ただ、「―SINCE―311展」のように、仮に「平和への想い」という企画で実行委員会が作品を探す、そのような平和美術展があれば、どのような展覧会になるのだろうかと夢想する。しかし、それは創作する側の仕事ではないのだろう。

坪井功次