小坂さんの絵

石井 克

 小坂さんは1947年、14才の時の油彩画を始め2010年、77才で亡くなる。画集「小阪元二の絵画」巻頭に「10代の頃から絵を描くことを一生の仕事に生きようと思い立ち、自分の才能の拙さも顧みず、ピカソだのブラックだのと20世紀初頭の近代絵画の多様な展開を学び始めた。生意気な田舎の少年が20歳過ぎる頃、人間の生き方が矛盾に満ちた現世、反戦、平和の問題など僕の世界観を大きく揺り動かす未知との遭遇、好奇心と正義感から、様々な活動に身を投じ、教師を生業としながら、無我夢中で生きてきたように思えます。絵から遠のいた時期もありましたが、それらの活動で培ったものは、僕の創作の軸となって通底しています。師を持たず、弟子を作らず、在野精神で、独立独歩を旨として自己流で自分の納得できる作品を求めてきました。」と書いている。
<絵は人格である>と私の尊敬していた大川美術館を創設した故大川栄二氏は口をすっぱくしていっていたが、そういう観点から彼がいかに生きたか、私がみた作品のなかで彼の言葉を引用しながら書いてみた。
 1958年17才のときに描いた「裏街」自由美術展入選(絵1)、繊細で、詩的な感受性がある。親と子が手をつないでいる。会話をしている人、そこには人の営みがある。影と光の対話も美しい。19才の入選作「窓辺の静物について」彼が語ってい
るように、セザンヌ、ピカソの影響をうけている。この作品も深くこまやかな詩情があり、絵を描く喜びがあり、このなかに自分の生きる方向をみつけたようにみえる。
 1950年朝鮮戦争が始まる。1951年対日講和条約調印、日米安全保障条約調印、という時代の動きがあった。こういう事柄があったなかでの少年のみずみずしい、鋭敏な感覚がこれらの作品をつくっている。
1960~70年代、模索期と彼はいっている。「泥をかぶった田んぼ」(絵2)農民が泥をかぶり収穫できなかった稲を抜いている。何かをじっとみつめている。作品「オキナワ」も社会と自分をみつめている。沖縄ではなくて「オキナワ」と片仮名にしている。それは広島を「ヒロシマ」としているように単なる沖縄だけではないのだ。観念的なところもあるがいちずさに共感をおぼえる。そのころ平面作品(タブロー)は少ないが、劇団群馬中芸、群馬歌劇団で美術、舞台美術を手がけ、人形劇や影絵劇などで作品をつくっている。教師として子どもたちの心のひだをも捉える実践など、文化面にとどまらず青年運動、組合運動など多岐にわたって活動をしている。
 1993年「家族」(絵3)慈愛にみちた母親が赤ん坊を抱きしめている姿にリアリティーがある。
 2001年 日本美術会機関紙に書いた「絵空事」のなかで「写実に徹しようと描くと対象に振り回されてしまう描けば描くほど、また技巧を凝らせば、凝らすほど絵はつまらなくなり、見る人の心に伝わってくるものが希薄になる例をよくみかける。これは芸術(美術)におけるリアリティーの問題に深く関わっている。リアリティーは、それぞれの作家の主張やコンセプトを如何に視覚化するかのギリギリのせめぎあいによる作家独自の造形言語を獲得することで生まれる。リアリティーとはこの感動の質や深さ、拡がりだ。」といっている。
  さらに同年「第4回地平展」に彼は「自意識としては従来の半具象の延長だと思ってるのだが抽象的な領域で仕事をしていることに気付かされた。形象、形状のもつ美しさ、面白さ、可笑しさ、凄さ、奇怪さのほうに惹かれる。これらの重層的配置や創出されるフォルムのぶつかり合いと色彩の複合の迷路に、現代のさまざまな『象徴性』を付与して醸成し、見る人の心に何らかのさざ波が起こればと願う。それはモダンアートの無機的な抽象とは異なり、人間臭さ、地の匂いやマグマの滾りなど、どろどろした有機的な抽象表現だと思っている。」といっている。 1993年からの「印度考」シリーズ「混沌の淵」(絵4)色彩、バルールが洗練され、人の形はあるがフォルムは抽象へと向かっている。1998年、縄文から始まった地の聲シリーズ、古代人の聲、痕跡、地球、宇宙へと 続「地の聲シリーズ」では 9.11アフガンへとひろがる。2000年、地中漫遊記(絵5)は彼の思想がますます抽象化された絵画表現になり心に響く。

 小坂の作品“ことば”は彼自身を的確に語っている。「人生って自分をみつける旅」と書いているように、彼の作品は紆余曲折を続ける旅のキセキを如実に提示しているように思う。