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郷里の仙人、石彫家 杉村孝氏のこと

 氏とのお付き合いは45年以上にもなる。「第1回静岡県アンデパンダン展」立ち上げの頃、彫刻家の故石川和彦さんと藤枝市の仕事場を訪ねた時が最初だったかなと思う。静岡県アンデパンダン展が1977年、第7回目をもって実行委員会を「発展的に」解散した後も彼とのお付き合いは「核兵器廃絶を願う美術家の会」が1985年に立上げする際から現在まで続いている。

この会は当初から会長とか代表者を決めないで運営してきたが10年後「発展的解散」の話が出た。全会員にアンケートを取り、存続させることになったが半数近くがやめる中、会員として彼は留まり総会にも出席している。

 

郷里、藤枝市の山奥の不動峡に8年かけて巨大な不動尊の像を刻む仕事をしたことや沢山のわらべ地蔵が京都の三千院の庭などに置かれてあり、「富嶽文化賞・ビエンナーレ展」で大賞を取るなど大活躍をしていることはネット上でも知ることが出来る。

 

ここでは最初に第五福竜丸の浴びた「死の灰」の“再現”を試みて2トンの石灰岩を削り、ガラス瓶に「標本化」して作業する音をCDに収め周囲の人たちに届け、手紙などの反応をまとめ小冊子にして返していることを紹介する。

 

二番目に常葉美術館関係者の企画で行われた駿府公園内での造形部門で10トンほどの石を利用して「9条の碑」を建てる“工事現場”としてインスタレーションの発表をした。(役所の人をあわてさせたようだ。) 

 

三番目は藤枝市内で「お茶の香りロード」(町興しイベント)があり絵画、陶芸、書などを空き店舗などへ展示した時、彼は空き地のレンガ塀に”額縁“の板を取り付けて美術作品に仕立て、見物者が私有地に入らないように「NO WAR」とかたどった柵を作った。

 

最後に3.11大震災の後、不動峡の沢で311個の風船に鎮魂のことばを書き紐を付け、水流へ放ち自ら老いた裸にシーツを纏い、入水し命がけの祈願をしていることだ。

 

反権力の意識が強く、勲章を辞退した画家熊谷守一を尊敬しているという彼には健康に留意しながら益々、独自の平和活動を続けられることを願う。


笹本忠志記(日本美術会会員・核兵器廃絶を願う美術家の会事務局)

 

 

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コメント: 1
  • #1

    やぎむつお (土曜日, 23 11月 2013 20:39)

    杉村さんを知る者として、笹本さんの彼への言葉は、嬉しい限りです。最近体調を崩したとはいえ、彼の覇気はおとろえることなく、持ち前の気骨を発揮して頑張っています。八木