アトリエ訪問 花大好きの宮本和郎さん

四曲鶏頭秋映屏風図 2012
四曲鶏頭秋映屏風図 2012

異常台風が伊豆大島を襲ったのちの嵐の合間、10月22日午後、菱千代子編集長、専門インタビュア:藪内好、記録係:筆者(松山)が宮本宅を訪問。庭には咲き残りの酔芙蓉、画室にはその下絵が立て掛けられ構想中という風情。

<次のアンパンですか?>、

「いや2年ぐらい先になるかな」ゆったりと植物に向き合う姿勢。座卓には百合の作品が置かれ、訪問者が座に着くや、問わず語りに本論に。

「私は、花が好きで、その延長で花鳥画に辿り着いた…」

ここでちょっと話を折って、あらためて訪問の口上。

<京都個展の最中でもあり、お忙しいところ…。どうして日本画の道に入られたのでしょうか>

 
宮本和郎さん
宮本和郎さん

■生い立ち

1936年(S11)重陽の節句、日野市三沢で生まれました。男ばかりの五人兄弟の三男。戦争で、3才~小5年生を常総鉄道虫(むし)掛(かけ)駅付近に疎開。父は転居好きでこのあたりの借家を転々としました。小学3年のとき終戦。戦渦に遭った経験はないですが、子供の記憶は茨城の山里にあり、それが原風景といえます。筑波山、小高い丘の赤松混じりの雑木林。戦後の食糧難時代には、遊びながら食べられる雑草を採り、イナゴ、タニシ、ドジョウ、などが一家の蛋白源でした。蛙、蛇も捕まえて食べたこともあります。植物への興味は、まず食べられるかどうかの知識が始まりです。教職を辞していた父は、貧しい食生活で栄養失調から肋膜炎になり、それが治癒すると府中の教員ポストを得、東京に引越。そのときの私の手荷物は、育てていたコスモスなどの苗とうさぎ小屋でした。

 

父は若い頃、鏑木清方に惹かれ絵描きの道を志すも、結果的には川端画学校に学び、大和絵の吉川(きっかわ)霊華を師と仰ぎました。失業当時の朝一番の日課は、外に出て一家でスケッチをすることでしたが、私は絵が不得意で、兄たちに強いコンプレックスを抱いていました。中・高では園芸に夢中になり将来は植物関係の仕事を切望。兄たちは当然のごとく美大に進学。私は絵が嫌いで、高3になるまで美術の授業も選択しませんでした。大学進学に当り、近くに園芸専門大学はなく悩んでいたら、父が「美術の教師になって園芸は趣味にしたら」と。それから美術部に入り石膏デッサンなど始めました。目標は芸大日本画科一本に絞り、3浪の末、合格。ノンポリでしたが、学生自治会の財政を任されました。

 

3年生のとき60年安保。デモの合間にも絵は描きました。卒業のとき、主任教授の田中青(せい)坪(ひょう)先生が、ぽんと肩を叩き、「君は絵描きになれるよ」。その意味が分かったのは40才過ぎでした。4年生は院展日展入選を目指すのが通例。こつこつ描くのは好きなのですが、競争して優劣を決めることは嫌いでした。入選するための絵は描きたくないと公募展には出品せず、画壇に無関心のまま卒業。生活のためデザイン会社に入社。仕事は忙しく、スケッチ一枚描けない状況でした。結婚して子供が生まれたのを機会(31才)に会社を辞めました。

-ここで、客座敷に移り、奥様からの茶菓のおもてなし。話は佳境に入ります。

 

■日美・平美に関わる

「アンパンは20回展から出品。3年後35才で実行委員長、当時事務局長は渡辺皓司さん、私が事務局次長になったほど日美事務局が若返った時期です。同時に、平美、創造美術展などに参加。最初は画家として歓迎されたのですが、次第に活動家として重宝がられるようになり、創造美術は退会、平美展も出品するのみ、アンパン作品も未完成のまま展示という事態。

時代は厳しい相互批評の流れになり、色使いなど細かいことまで指摘され、合評会が嫌いになりました。未完成を言い訳にする自己嫌悪から、筆を持つだけで首が痛み、自律神経失調症に。

 

<この苦難をどうやって抜け出したのですか>

 

運動療法で治りかけたとき、新聞に週一回、身の回りの自然の花を墨絵風に描く話がきて、それを画集にした「四季の花」を出版。これが転機となりました。勤めていた高校の非常勤講師を辞めて、市の講座から出発した自主サークル指導に打ち込みます。ここでよい面を見つけ、それをどう伸ばすかが大事なことだと実感。悪いところを指摘しても欠点の無い絵になるですから。

 

■花鳥画に至る道筋

描き溜めた習作から自己を確立する過程を経て、植物をはじめとする自然と一体化する方向を見定めました。例えば親鸞聖人の「草木国土悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」という仏教自然論のような日本的自然観は、人間だけが特別ではないと考えます。一方、ダーウインの進化論・自然淘汰など西欧の合理主義的自然論があり、それぞれが相容れないと、人間中心の弱肉強食世界が自然のバランスを壊し地球は自滅します。20代には、危機感を絵で表現しようとしましたが、人間は水、空気、太陽を共有する生物のひとつだという観点を絵で表現すれば花鳥画になる、と悟りました。西欧画でいえば静物画に対比できますが、花鳥画は単に花と鳥の組合せではなく、鳥は動物界の美しい姿、花は植物界の美を代表する言葉です。

 

<和郎さんの目指す花鳥画とはどのようなものですか>

 

現代では、花鳥画は過去のもの、という扱いですが、人間中心でない自然と一体化した花鳥画を目指したい。花鳥画もいろいろな変遷があります。

日本美術は、桃山時代までは、見たこともない中国風景を借りて心を表す「胸中山水」という貴族趣味でした。「かたち」という物の姿を借りて自分の心象世界を写すことを「写意」と云います。江戸中期から西欧の実証主義が流入し、本草学では植物図鑑として写生画が用いられました。このような描画のできる一人として時代の要請に応えたのが円山応挙です。

 

当時権力側にあった円満院から、現世の苦しみを描ける画家として目を付けられ、地獄、大津波、災害を民衆に分かりやすいリアルな表現で「七難七福」など平明な絵を志しました。円満院門主祐常からの依頼と云っても描かせたのは民衆ではないでしょうか。応挙以降、江戸後期にかけて浮世絵版画など絵画の大衆化が進みます。また、中国からの水墨技法、水で墨線(骨)をぼかす「没(もっ)骨(こつ)法」を工夫して、一本の筆に淡墨を含ませ穂先に濃墨をつけてにじみを利用して立体感やリアリティを表現する「付立て法」を創始するなど、応挙の果たした役割は大きいものがあります。

 

■写生の意味

応挙曰く、「豪放磊落気韻生動のごときは、写形を純熟の後、自然に意解すべし」。つまり、対象物を描き抜けば、何を描くべきか分かる、ということ。のちに竹内栖鳳も「写実を突き詰め、突き抜け、写意に至る」と述べています。写生とは人に見せるものではなく、対象が掴めればよしとします。すべてを記録するのではなく、美しさの根源や描きたい対象を手に記憶すれば十分なので、私は写生にカメラを用いません。スケッチとは、10年後でも本画にすることもできる情景の引出しなのです。

究極の訓練としては、目でみるだけでなく心に写す「目写」ですが、そこまではしなくても、スケッチブックがなければ地べたに棒きれで描くだけでも記憶に残ります。

 

<空間を写すとは?> 

 

若い人がいう「空気が読めない」。その「空気」を感ずることです。それには技術だけではなく、世界観、人生観、自然観などそれまでに培われてきたものが土台となります。花は空気と共にあり、自分も同じ空気を吸っている共感を絵にする。例えば、虫喰い葉や受粉で実がなるのは動物の存在を示し、絵には描かれなくてもそこには共生の世界がみえる、それが私の花鳥画です。

 

<空間にある時間の流れ、光や空気の鮮度を大事にすることでしょうか?>

 

悪いところを批判するのでなく、よいところを観る、というのは絵の指導だけでなく、対象物にも当てはまります。

汚れた川を強調すると汚れだけが伝わります。川も生きており、せせらぎを求めている。日本人はせせらぎや虫の音を心地よく感じますが、欧米では雑音かもしれない。川の本質は気持ちの良いものだ、という方向へ自己を傾斜させて共存すると、自然と一体化でき、描き手は自然と平等になるのです。

<好きな植物だけ描くのではないのですね>

 

単に描き分けるならボタニカルアートです。生物にはいろいろな生き方があり、自然界では、多くの植物は水、空気、太陽と土壌の化学成分だけでタンパク質を合成し他者を殺さないが、動物は他の動植物を食べなければ生きていかれない。この違いは認めなければなりません。これが自然界であり、共生の現実です。ひとは植物や肉を食べるが、それでも自然界の一部であり、その位置から対象を見る、描くという姿勢でありたいと思います。

話はまだ続きそうですが、お暇する時間となりました。

 

「今日お話したのは、ほかのひとにかくあれという考えではなく、自分が出来る仕事とは奈辺にあるか、優柔不断な花好きが辿り着いた経緯にすぎません」という締めの言葉。わたしたちが自然界の平等なひとであることの表意でした。ともあれ、ここには書き尽くせない作家の貴重な創作観に触れた訪問でした。

 

(文責 松山しんさく)

 

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コメント: 1
  • #1

    大野恵子 (土曜日, 11 1月 2014 21:51)

    画伯の創作に対する思いや考え方などが伝わってきました。