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◆元原発労働者は語る◆「ボスと呼ばれた男」

コタンクルカムイ~真実の目 黒田 孝
コタンクルカムイ~真実の目

聞き書き  黒 田 孝 (日本美術会北海道連絡会)

 

はじめに

彼は1948年、北海道伊達市に生まれる。

中学校卒業後、溶接技術者の道を歩み、全国トップの技術を獲得、仕事仲間からは「ボス」と呼ばれ、全国どこでも飛び回る「プロのデンキヤ(溶接技師)グループ」を率いて、石油コンビナート、電力会社の建設工事労働者として働いてきた。45歳過ぎから視覚障害を発症し、次第に視力を落とし、61歳で失明に至ったが、今も、自分に誇りを持って生きている。

 

美しい自然

 

父は磯舟漁師で、海藻、ウニ、ナマコ捕りの名人と言われていた。冬の凍える寒い時も舟を漕ぎ働いていた。ウタリ協会(現アイヌ協会)を立ち上げ、全道の理事として誇りをもって活動していた。伊達火発建設反対闘争は漁協ぐるみの反対運動になり、父はたたかいの先頭に立っていた。父はぶっきらぼうで上手いことを喋るのは苦手、本音で喋っているから、最初は気難しい人だと思うかもしれないが、本当はやさしい人で、話好きな人だ。そして、正義を貫き通した人で、多くの人から父は信頼されていた。

3・11東日本大震災の救援物資のひとつとして、父の乗っていた磯舟が被災地に届けられた。父はいまも三陸でウニやアワビをとっているような気がする。

 

母は9歳で、父親が死に、妹の面倒を見なければならず、小学校3年までしか学校に行けなかった。俺の兄弟6人と父の兄弟10人の大家族の世話をした母。雷が落ちることは毎日のこと、恐ろしい母だった。「夫の兄弟も、自分の子も分け隔てなく、厳しく育てたよ」「どの子にも仕事をさせたしね」「学校では仕事は教えないからな」今でも、俺たち兄弟は仲がよく、困った時は助け合う。これだけは近所でも評判になったと母が言っている。母がよく言うのは「いま苦労しても、必ずいい時が来る・・・と、歯を食いしばってがんばってきたが、いいことはなかった・・・」と。

「酒も飲まず、遊びもせず、仕事一筋にがんばり、弟や妹の学費を送り続けた兄ちゃんの目が見えなくなってしまった。病院では原因不明と言っているけど、原発の放射能のせいだ」と、母がぼつっと言う。

 

俺は小学校入学前、萩野にあずけられていた。萩野の祖父は上山亀次郎というアイヌの大工で、白老ポロトコタンのチセ(家)を作った人だ。小学校から中学校まで、休みなくアルバイトをしてきた俺は小学校から朝夕の新聞配達。弟と共にやることにもなった。夏も冬も漁師の仕事は忙しく働いた。中学生の時、友達は野球をやっていたが、野球の道具を買ってくれとは親に言えなかった。「野球をやるのは腹が減るだけだ。アルバイトで忙しい」と言いつづけ、働いて金をもらった方がいいと自分に言い聞かせていた。「学校は遅く行って、早く帰る」だったが、友達もいたし、数学が得意だったから、学校が嫌いではなかった。戦後の食糧難の時期も「魚が獲れたら、みんなで分け合っていたし、物々交換も盛んだったよ。どんなに家族が多くても食べ物だけは不自由させたことはなかった」「お肉はあまり食べなかったけど、カレーライスや野菜炒めはアワビやホタテ入り」と、母が話していた。バチラー八重子の歌碑に刻まれている「海もよし山もうつくし人もよし ほんに住みよい有珠コタンかな」の通りだ。

 
プロのデンキヤを目指して
 
俺は中学卒業後、室蘭職業訓練校に通った。漁の道具、ヤスやアンカーの修理に、祖父の描いた図面を持って、鍛冶屋によく行った。ガス溶接の仕事を見ていたこともあって、「俺も溶接の仕事がしたい」と、溶接科を選んで、溶接資格を取った。職業訓練校を卒業後、室蘭で、3年あまり、配管溶接をやり、パイプ溶接の免許を収得。「デンキヤさん」と呼ばれる溶接の仕事で一人前になったような気がした。配管工を「カジヤさん」と呼び、一緒に仕事をすることが多かった。
ベンチャーズが好きで、土曜、日曜には洞爺湖温泉のダンスホールで演奏していた。「音楽をやるやつに悪いやつはいない」と、理解を示したのが父だった。
当時、大型タンカーが建造されていて、どんな造りになっているかが見たくて、友達とひそかに相談し、会社にも、家族にも、誰にも言わずに、家出をし、千葉で働いた。一年余りで戻ってきたが、今考えてみると、溶接技術の腕が上がったのはこの時だったような気がする。
地元に戻ってから、地元で、ニッケル鉱を溶鉱炉に送る仕事をやった。地元での通勤はヤマハ350で通勤した。1970年代初め、映画「イージーライダー」(社会の拘束を離れてバイクで渡り歩く)に当時の若者が魅かれていた。俺も黒皮の上下ライダースーツ、黒ヘルメットとイージーライダーになりきっていた。仙台まで、映画そのものの二人旅もした。
 
渡り鳥のように日本中を飛び回る
 
1973年、25歳から、日本中を渡り歩く。「渡り鳥」の生活が始まった。石油コンビナートと電力会社の仕事で、長い時は1年がかり、半年から二ヵ月の期間が多かった。夏場は北海道の仕事があり、盆と正月は実家で過ごした。
実家から離れた俺は弟妹の高校の学費を毎月、送り続けた。俺一人暮すには金が余ったし、高度成長期の波に乗った自分と、次第に漁獲量の減っていった漁師の父との暮らしに大きな差を感じたからだ。
どこで働いた時も、酒を飲むと、喧嘩が多かった。どこも地方の暴力団関係者が人材会社を作って、人夫を集めていた。組の人たちは会社のピンハネと上への上納金でかわいそうだった。さらに、飲み代とばくちの支払いでほとんどが無一文になっていた。そういう人夫には「仕事だけは一人前にできる人間にならんと、同じことの繰り返しだぞ!明るい道歩いた方がいいんじゃないのか」と、言いつづけていた。溶接の責任者となっていた俺は組の者には「ボス」と呼ばれ、俺には忠誠をつくした。手とり足とり技術を教えて、溶接免許を取り、俺についてきてまじめに仕事をやるようになった男もいた。さらに、地元に戻って自分で会社を興した者までいたよ。
イランジャパンコンビナートを作ることになって、トルコの飛行機に乗ってイランに向かったが、イランイラクの戦争が勃発、現地に着くことが出来ず、戻ってきた。帰ってから、東電の本社でコーヒーを飲んでいたら、「イラン人かい。技術覚えに来たのかい」ひげ伸ばしてターバン巻いていたからイラン人に間違えられた。
 

福島原発事故は人災だ

 

泊と玄海以外の原発には全部行ったよ。初めての原発の仕事は福井の「美浜原発」だった。このころの仕事は安全帯もつけないし、歩み板の上を渡る曲芸みたいなもので、足を踏み外して落ちる人夫もいた。トビが落ちて死んだよ。

原発の仕事は溶接の技術を確かめるテストがあった。溶接部分のレントゲンを見て、最も優秀なものを採用していた。ちょうど福井原発建設のころ、大手10社ほどの会社で、溶接のチームが集まって、溶接技術と製品の出来栄えについての競技があった。10人のグループで責任者をやった俺のチームがグランプリーをとったんだ。このとき、日本一の溶接技術者として認められたことが大きな自信になった。どこの会社からも「機械よりきれいな仕事をする男だ」と、名前が知れ渡り、俺を必要とする難しい仕事や仕上げ仕事が舞い込んできた。 1年に数回は一晩で、日本中飛んでいくという無茶なことをやった。四国火力から秋田火力へ、九州から千葉までと、車を走らせたこともあった。

東電の福島は10回以上も仕事をした。原子炉建屋も、タービン建屋も、もちろん原子炉からの蒸気配管も建設、修理した。

福島原発の地盤は弱く、震度5の想定で、地盤に打ち込んだパイル(コンクリート支柱)も少ないのよ。俺らがちょっと配管アームは圧力がかかるから、パテをつけて厚くしたいと思っても、勝手にはやれないしな。俺はあそこの配管を作ったんだけど、パイプの溶接部分の横が折れていることから考えても、地震による亀裂だ。津波ではない。学者でも東電社員でもないが、実際に壊れた現場を作ったのは俺らだ。福島事故は人災だと断言できるよ。

国会の事故調査委員会も、12年6月に報告書を公表した。「自然災害でなく、明らかに人災だ」「規制する側と規制される側が逆転した」規制当局が東電の虜になっていたと指摘している。

原発は不便なところばかりに作った。そして、原発反対の声の少ないところを狙ったんだ。村や町は金がないから、補助金欲しさに競って原発に賛成した。それに若い者の仕事もないことに付け込んで、若者の仕事が出来るし、原発関連の仕事が増えると言って、地元を喜ばせていた。原発の工事が始まると、スナック、パチンコ屋ができて、宿舎、民宿も多い時は1000人をこえた。だが、安全神話の原発は事故など起こる訳がないから、事故対策なんかない。どこだって避難道路がつくられていないでしょ。

俺らは仕事の話は現場だけ、宿舎では仕事の話はしなかったというか、話さないようにした。たまに、「こんなとこには住みたくない!」くらいは言っていたけどな。

「人間のつくったものは壊れるべ」「原発の使い方間違ったらどうするのよ。東海村だってそうだべ」「会社は少々のことは全部かくすからな。下請けがミスしても、改ざんばっかりやってるでしょ!」「会社はいつでも安全第一、ゼロ災害だもんな」「下請けは怪我しても、保険証持って、病院行ってこいだべ」「労働者を人間扱いしてないのよ。死んでもわからんような人間を集めて仕事させてるしな」こんなことを東電の社員に言ったけど、いつでも返ってくるのは「国が安全だって言っているんだから・・・心配ない」の繰り返しだった。安全マニアルの通りに会社のだれもが同じように言っていたよ。

 

 「安全第一、商品第一」は表向きで、現実は「安全第二、儲け第一」が会社の方針。安全なんかに金かけないで、上手く儲けた者が本社の幹部になっていったよ。これこそが、電力会社の本質と言うか、「利潤第一主義」を徹底することが会社の最優先課題だった。

 

 線量計に、鉛のカバー(鉛ボックス)をつけたことがニュースになっていたが、昔は線量計なんて気にもしていなかった。建屋の中は「赤色燈ランプは危険、青色燈ランプは安全」で仕事をさせていた。放射能漏れの事故があっちこっちで表ざたになってから、作業着に線量計をつけるようになったんだよ。線量計を外したり、鉛カバーだけ付けたりして仕事をするのはいつものことよ。

会社が安全だというんだから、放射能の恐ろしさなんか教えるわけもないよな。だから線量計の鉛カバーなんか当たり前のことよ。しかも、鉛カバーの正式名称なんてないさ。鉛カバーがあることが世の中に知れたら大問題になるからな。鉛カバーのことは一切外部に漏らすことはなかったし、こういうことは暗黙の了解事項だった。まあ線量計は飾りみたいなものだった。作業をするときは自分の身に着けていたものは全部脱いで、新しい作業着に着替え、作業する建屋に入る。終りには作業着を全部脱いで自分の服に着替える。毎回新しい作業着を着る意味が分かるでしょ。

「いつまでに修理をやれ」という会社命令が出たら、孫請けは何が何でも仕事をやるのよ。断わると別の孫請けが仕事を待っていたしな。下請け孫請けが約束期日に遅れたりすると、違約金をとられて、大損をすることになる。放射線が多かろうが、仕事をせざるおえない仕組みになっているのよ。会社は『放射能は少しぐらい浴びても何でもない』と言っていたしな。このころは放射能のことなど、だれ一人として考えていなかったな。会社は放射線量が大きくても「今日だけ、1年分のX線と似たようなもんだから、心配ない!」といっていた。俺らが働いていたころは「放射線がでている」という話は全くなかったよ。話したってだれ一人分からんかったな。

建屋内の放射線量の多い時は働く時間も30分、1時間と短く、交替で働くのよ。それで一日分の金もらえるんだ。「こんなに楽をして金もらえるんだから、ありがたい」と言っている者が多かったな。孫請けの作業員は「どうせ放射能の病気になるのは何十年後だ!」「どうせ人生50年か60年!」と言って慰め合っていたが、44才の若さで、ガンで死んだ仲間がいた。何ひとつ保障はなかったよ。その男だけでないさ。原発の修理点検に携わる連中は一カ所だけで数千人だよ。被ばくした人間は数えきれないだろうな。後で聞いたけど、一緒に仕事していた男もガンになったり、死んだりしたよ。「ケガと弁当は自分持ちと言われていた」が、命なくするのも自己責任だ。

人夫には責任持って仕事をやる者は少なかったよ。上から言われたことだけやっていたからな。ほとんどの人夫は「一に金」「二に酒」「三に遊び」だったな。一日いっぱい「仕事待機」の日は花札か、紙麻雀。そして、人夫の中にノミ(ノミ行為)の仲介屋がいて、ボート(競艇)、サイクリング(競輪)、乗馬(競馬)に出かけていた。

仕事を断ると、代わりの作業員がいるから、二度と使ってもらえないようになっていた。原発作業員は仕事がなくて来ている者が多く、仕事にあり付けただけでもありがたいと思わされていたからな。作業員は奴隷状態だったな。全く人間扱いされず、部品と同じよ。どんどん新しいのと取り換えればいいからな! 配管溶接の後はX線写真を撮るが、写真を何枚も撮るから、外部被ばくはいつものことだ。

安全検査員は一年に一回は来ていた。原子炉を休め、年に一回は修理をしていた。検査員は官僚とぶら下がり企業の天下りだった。原発推進の御用学者もいた。グループを作って10人ぐらいだったかな。東電だけでないが、東電会社内の業者と俺たちのようなプロ業者というのがいて、プロ業者の技術は最高水準だということを認めていたので、現場点検もせずに、書類だけでパスしたことがあった。昼は改ざんした書類とX線写真を見て、夜は接待のドンチャン騒ぎよ。俺も仕事現場の代表として接待の場に出たことがあったが、温泉で芸者付きの接待だよ。帰りにはお土産だと言って袖の下を持たせていた。

 

それに引きかえ、電力会社から人夫一人当たり、日当2万円くらいは出していたが、人材会社、下請け、孫請けのハネ(ピンハネ)が多くて、手取りが7,8千円くらいだったな。これも電力会社の常識だ。

 

視覚に異常が・・・

 

原発最後の仕事は浜岡建設と福島の修理で終わったが、阪神淡路大震災の高速道路落下の修理と西日本JRのレール補修、羽田空港橋桁作りが旅に出た最後の仕事になった。神戸での高速道路落下はなるべくしてなったと言えるズサンな工事で、手抜きの偽装工事だった。神戸には絶対に、地震がないと言われていたのに、悲惨な大震災が起きた。「人間の作ったものはいつか壊れる」ということがハッキリした。

このころから、「乱視かな?」物が二重に見えるようになった。「原発修理の被ばくが目にきたかな?」と、不安が襲ってきた。東京女子医大で診察を受けた。眼球には異常なし、視神経に異常!今の医学ではどうしようもない。「あなたの目は医学の進歩が先か、失明が先か」と言われ、10年後の失明宣告を受けた。原因不明と言われたが、糖尿もないし、溶接のデンキ(光線)なら網膜がやられているのにな。赤血球と白血球のバランスがいつも変化する。放射線被ばくが原因だと思うが証拠はない。被ばく記録がないのだ。会社の記録なんて、いい加減なもんだったからな。会社の不利になることは記録するわけないべさ。

7年前、我が家の物々交換を一手に引き受けていた叔父(画家で、私とは30年前から自由美術展に出品していた仲だった)の葬儀にはJRで室蘭まで行っているから辛うじて視力はあった。明るさも完全に見えなくなったのが、3年前の父の死と同じころだった。61歳で失明、医者の宣告通りになってしまった。

 

 目に異常が来てからも55歳までの10年間、若手技術者の指導にあたったよ。在日韓国人、在日中国人、イラン人にも仕事を教えた。「ひとは人で同じだ(平等)」「腕次第だからな。腕がよければだれにも差別なんて受けなくなるんだぞ」仕事の腕の上がった連中からはずいぶん感謝されたよ。「俺もおやじのように人のために役立ったんだ」と、嬉しかったね。

俺が地元に戻ってからの仕事は有珠山の砂防ダム工事だ。視力が弱りながらも、地元のコタンを守るための大切な仕事が出来てよかったよ。

 

あとがき                        黒田  孝

 

「ボスと呼ばれた男」。これほどまでに仕事に誇りを持ち、仕事仲間に優しく、多くの労働者たちに生きる希望を持たせたことに偉大さを感じる。同時に、すべての人間が対等に、差別のない世の中で生きることを願い、彼がかかわった数々の仕事が現在の「ルールなき経済社会」の過酷な命まで奪う労働実態と大資本による利益最優先の仕組みの中で、もがきながら生き抜いてきた足跡でもある。

彼は日本一の溶接技術者として「きれいな出来栄えの仕事」に自信と誇りを持っていた。そして「人間が作ったものは必ず壊れる」ということを体験してきた。

3・11以前から、原発事故の危険性を話していたが、仕事に命をかけてきた男の予知能力だったのか。

旭川に生まれ、音威子府で創作を続けた彫刻家砂澤ビッキは「自然との共生」を貫き通した。「自然のままの樹木を使い作品は生き物である・・・生きものが衰退し、崩壊していくのは自然なことだ」と、語っている。ものつくりの人間は創作した物は風化し崩壊するのは承知の上だった。もう25年以上前、ビッキは対談の中で、音威子府の近く幌延核廃棄物埋蔵計画に怒りを語っていた。「アイヌの土地、自然を略奪しておいて、勝手に開拓し、今になって核のゴミ捨て場にするのか」と・・・

芸術家と彼のような高度な技術者の感性は同じである。昔の大工や鍛冶屋など職人の仕事がそうであったように・・・

さらに、彼は有珠山に広葉樹を育て、海のヘドロをとり、海をよみがえらせたいと願っている。これは日本中が大型開発で自然が壊されていった現実を数限りなく見てきたからであろう。視力が弱りながらも彼の最後の仕事として有珠山の治山工事をやったことは彼の願いを実現させる第一歩かもしれない。アイヌに語り継がれているコタンクルカムイ(村の守り神)は彼のことだと思う。

私は泊原発建設反対集会に北教組の動員で参加した。真夜中のバス乗車、反対集会といっても、初冬の凍える夜明け前、泊の道路を歩いた。何が何だか分からない集会で、自分がそこにいることに腹をたてていた。当時、社会党横路衆議員の勇ましいアジ演説と凍りついた弁当だけは今も忘れない。その後1995年に、泊原発放射線漏れをテーマにした数枚の作品を描いた。当時は多くの人は関心を示さず、寂しい思いをした。それだけ日本中が安全神話に汚染されていたのだ。

今も私は日本アンデパンダン展のテーマ「自分の生きる証しとして、その時代を描いている」

(参考文献  明日を創るアイヌ民族 未来社)

 
1995年作  泊原発放射能漏れから
1995年作  泊原発放射能漏れから