関東大震災と美術―震災は美術史にどのような影響を与えたか

(たけいとしふみ 美術評論家/府中市美術館学芸員)

 

「日本近代美術の社会史」

2013年9月・10月、日本美術会附属美術研究所・民美で、「日本近代美術の社会史―震災と戦争から」と題して2回連続の講義を行った。関東大震災と第二次大戦という二つの出来事を通して日本の美術がどのように転換したのかを考える内容であった。美術の歴史は様式や制度を中心に語られることが多いが、近現代を考える場合、社会との関係でみる視点はとくに大事である。そこで、日本社会に大きな転機をもたらした震災と戦争に注目し、美術家がどのように関わったかを考えてみた。

戦争について顧みられる機会は多いものの、戦前の日本において時代を画する大事件であった関東大震災は、必ずしも現代人にとってリアリティのあるものではない。だが、東日本大震災以後、ふたたび震災という事象への関心は高くなっている。関東大震災をふりかえり、美術家はそのとき何かをしたのか、また震災が美術史にどのような影響を与えたのかを知ることは、3・11以後を生きる私たちにとって重要な示唆を与えるかもしれない。そこで講義の一部を紹介してみよう。

 

美術界の被災と救援活動

 

関東大震災とは、1923年(大正12)9月1日午前11時58分、相模湾沖で発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害である。死者・行方不明者10万人、全壊した家屋は10万棟に及ぶ。被害そのものは、日本史上最大級である。多くの住民が難民化し、地方に避難した人々も多い。とりわけ、火災による被害が甚大で、全焼家屋は21万棟に及んだ。震災直後から流言蜚語が発生し、官憲や自警団によって朝鮮人・中国人、社会主義者・無政府主義者が虐殺された。関東大震災はたんなる天災ではなく、人災でもあったのである。

美術界への影響だが、まず展覧会の中止がある。秋口の土曜日であったので上野公園内の竹之台陳列館は、第10回を迎えた再興院展と二科展の招待日だった。作家たちが会場に集まってきた頃、地震が襲った。展示は即時中止で、秋の帝展も中止された。被災の実態だが、美術家の死者は少なかったといわれている。なぜなら、作家のアトリエは下町に少なく火災を免れたからである。他方、中心部に集中していた研究所・画廊・出版社等はほとんど全焼した。文化財の被害では、『大正震災志附録』に大倉集古館を含む164氏の所蔵家の損害が記載されており、失われた美術品は少なくない。

美術界の復旧は早く、救援活動も行われた。東京会場が中止となった院展と二科展は、地方展を実施する。院展は大阪と法政大学で、横山大観の全長40mに及ぶ山水絵巻《生々流転》などを展示した。二科展も、大阪、京都、福岡に巡回して大きな反響を呼ぶ。展覧会での収益は、被災会員の救援にも使われた。募金活動も行われ、後述する徳永仁臣(柳洲)ら東京青年画家同人会の「移動震災実況油絵展覧会」は、各地を巡回して義援金を集めた。また海外からの支援もあり、翌年11月には内務省社会局主催で「白耳義国作家寄贈絵画展覧会」が開かれ、皇族も購入して完売した。

 

印刷媒体による伝達・報道・記録

 

美術は複製されることで伝達・報道といった機能をもつ。震災と美術の関わりを考える際、震災のイメージを伝える印刷物に目を向けないわけにはいかない。テレビやインターネットのない時代、カラー印刷はリアルな状況を伝える強力な媒体であった。なかでも流布したものに絵はがきがある。燃え広がる火災、灰燼に帰した都市、黒焦げの死体など凄惨な写真が、白黒のまま、あるいは加筆・着彩され、絵はがきとして出回った。それらは『絵はがきが語る関東大震災 石井敏夫コレクション』(柘植書房、1990年)でみることができる。

新聞も困難ななかで発行を続けたが、カットや漫画が掲載されたものもある。『都新聞』の竹久夢二画・文「東京災難画信」全21回(9月14日~10月4日)、『夕刊報知新聞』の川村花菱記・山村耕花画「大震災印象記 大正むさしあぶみ」全30回(9月30日~11月1日)が、画家の眼を通したルポルタージュとして特筆される。雑誌も絵画を用い、『主婦之友』10月号の表紙には、岡田三郎助《燃えつつある浅草十二階》が使われた。

惨状を劇的に描く多色石版の大判絵『帝都大震災画報』は何種類も出されており、有名になった震災のエピソードを視覚的に伝える。宮武外骨『震災画報』をはじめ、震災にちなんださまざまな『画報』が出版されたが、画家の体験を綴った本も出された。44作家の画文集である黎明社編『震災画譜 画家の眼』(12月)、新聞の漫画記者である太田政之助の『ペン画集 避難から帰還迄』(11月)も、体験者の記録である。

 

絵画作品による震災の記録と表現

 

震災の状況を描きとめておこうと考えた画家は多い。スケッチだけを残した画家もいれば、作品として仕上げた画家もいる。そこでは記録する行為と画家としての創作が結びついている。

雑司ヶ谷で被災した河野通勢は、震災を主題にしたエッチング約100点を残した。《麹町・武者小路実篤邸焼け跡之図》《丸善跡》《神田明神ヨリニコライ跡ヲ見ル》といった実景描写だけでなく、極限状況にうろたえる人間の卑小さを描きだす。

関西画壇の旗手・鹿子木孟郎は、震災の報を聞いて東京へ向かった。荒廃した景色を鉛筆・コンテ・油彩などで描いたが、翌年油絵の大作《大正十二年九月一日》(東京都現代美術館蔵)を仕上げた。日本人の受難を描いた「歴史画」といえる。日本画家である池田遙邨も、鹿子木とともに上京し、鉛筆・淡彩で膨大な素描を残した。池田は対照的に、被災家族の痛切な心情にフォーカスした絹本着色の六曲屏風《災禍の跡》(倉敷市立美術館蔵)を完成させ、翌年の帝展に出品するも落選している。

洋画では、茅ケ崎で地震に遭った萬鐵五郎の油彩《地震の印象》が震動で人が宙を飛ぶ愉快な作風である。十亀広太郎の震災名所を描くみずみずしい水彩画も印象深い。平塚運一『東京震災跡風景』連作も、震災後の景観を抒情的に木版で刻む。

日本画では、震災の経過を絵巻形式で描いた例が複数ある。堅山南風《大震災絵巻》、西村五雲《関東大震災絵巻》などがそうだ。淀橋で被災した萱原黄丘(白洞)も、《関東大震災過眼録》という労作を描いている。萱原の作品は、災害史の研究者からも注目を受け、『関東大震災を描く―絵巻・漫画・子どもの絵―』図録(神奈川大学非文字資料研究センター、2010年)などで紹介され、6巻が現存する。

 

造形活動を通じた復興と祈念・追悼

 

震災復興に向けて、出版・建築・デザインなどの造形分野は活性化した。前衛美術グループ「アクション」を中心に10月結成の「バラック装飾社」(中川紀元、横山潤之助、浅野孟府、吉邨二郎、吉田謙吉、神原泰、今和次郎ら)は、避難民が暮らすバラックを取材し、新しい住居や店舗の意匠を提案した。今和次郎・吉田謙吉らの調査活動は「考現学」へと発展する。ダダ的なグループ「マヴォ」(村山知義、門脇晋郎、尾形亀之助、大浦周蔵、柳瀬正夢ら)は、11月に第2回展を市内10か所のカフェ・レストランで開いた。マヴォは、三科展に合流しながら、出版、建築、演劇など多面的な活動をしたが、その型破りな発想と表現は、震災後という状況を抜きには考えられない。

翌年4月、竹之台陳列館で国民美術協会主催「帝都復興創案展」が開催される。参加団体は、国民美術協会、メテオール社、庭園協会、木材工芸学会、マヴォ、綜合美術協会、揚風会、分離派建築会、創宇社、ラトウ建築会である。復興は、新しい建築を志す人々にとって実力を発揮する機会であった。建築規制が緩和されたこともあり、ドイツから帰国した土方与志と小山内薫は、翌年6月に「築地小劇場」を創設した。復興がモダン文化の普及を後押ししていく。

復興を代表する建築家は、東大教授の伊東忠太だろう。耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリートで、1927年の大倉集古館、1934年の築地本願寺などを設計する。1930年3月に帝都復興の式典が行われるが、両国の被服廠跡(現横網町公園)に、伊東設計で震災記念堂(現慰霊堂)・復興記念館が建設された。その建物には、自らも四谷で被災した洋画家・徳永仁臣(柳洲)「震災絵画」の大作25点が展示されている。復興記念館2階には、巡察する摂政宮の絵を中心に、徳永の《上野公園より見たる灰燼の帝都》と有島生馬《大震災の印象》が対面している。

なお、祈念・追悼の表現として深川の浄心寺に、地元の人々が三周忌で建立した遺骨を安置する《蔵魄塔》がある。真っ白でモダンな造形は、東京美術学校彫刻科教授の日名子実三によるもので、慰霊のモニュメントとして秀逸である。

 

震災が人生を変え、美術を変えた

 

さて、震災は青年美術家の人生を変える転機となった。たとえば、柳瀬正夢は官憲に拘束され、3冊のスケッチ帳に風景を記録した。のちに「自叙伝」で震災の日を自分の生年だと語り、組織的無産階級解放運動に目覚めたことを記している。東京美術学校在学中の永田一脩は、横山潤之助宅で地震に遭遇し、九段下の実家を焼失した。自警団に襲われ、高畠達四郎に助けられた。ニヒリズムに陥るも、プロレタリア美術運動へと進んだ。日本画の宮本十久一は、本郷の実家が焼失した。筑波に避難したのち、府中の多摩川べりに移住し、小学校教員として生計をたてることになる。

美術への関東大震災の影響をまとめると次のようになる。第一に、モダニズムを受容する社会意識が形成されたこと。復興を通じてモダンな都市文化が発達し、美術を受容する大衆が台頭した。第二に、ダダイスム精神を受容したこと。トリスタン・ツァラの「ダダは何も意味しない」のように、震災体験は意味の切断をもたらした。ヨーロッパでは第一次大戦という極限状況が背景にあったが、日本の場合、震災がそれにあたる。第三に、無政府主義・社会主義の思想的表現が胚胎したことだ。震災時にみせた国家権力の凶暴さが、体制批判の思想を生みだす。大正期新興美術からプロレタリア美術への展開には、この震災体験が大きく関与している。

 

(たけいとしふみ 美術評論家/府中市美術館学芸員)