· 

「芸術新潮」2013年7月号 「わたし一人の美術時評」藤田一人氏 を読んで

藤田氏の指摘は多くの点で当たっているし、普段あまり考えたことがありません。 記事を読むと、ニューヨーク近代美術館が、戦後50年代から70年代にかけての日本美術について論文選集を刊行し、その中に職美展のことも入っているようです。日本ではジャーナリズム、美術関係者のあいだでも職美展が話題になることは、殆どありません。アメリカの研究者ジャステイン氏などのおかげ様だと喜んでいます。「趣味や娯楽」の人もいて、また無名でも長い画歴の中でたった1点 私達が忘れがたい絵を残した仲間もいます。以下の人々は世間でも評価された。良い作品を描いた人です。

●桜井陽司氏は

  とりわけ白・黒のデッサンが魅力的で、たいへん深いものがあり、水谷光江氏、海老原友忠氏など多くの人々に影響を与えました。東京の場末のほこりっぽい空気まで、さらうようなデッサン力です。レッドパージで都交通局の職場を放り出されました。それなのに病気の桜井氏は 長い入院中も含め12年間アトリエを職美事務所に貸してくださいました。

●海老原友忠氏は

  輪美会と言う国鉄・上野支部サークルが50年代に大活躍。詩と絵の壁新聞の連作から始まる 海老原氏のデッサンは、すばらしい仕事が続く。

●杉本 鷹氏は

  桜井氏とともに職美協結成時からの常任幹事で、杉本氏は職美協中央美術研究所を高田馬場に開所し、後進の指導にあたっています。この研究所は本物の絵を学ぶ所だったと、多くの手伝った画家達が語るすばらしい幻の研究所です。井上長三郎氏、吉岡 憲氏、麻生三郎氏は「彼は絵画が生活とはなれるとだめになる原理を知って、若い人々に教えていた」と書いています。杉本さんは体が悪かったので、作品は研究所での裸婦が多いのですが、小奇麗な人形のようではなく、生きて生活する人間として描かれています。

●剣持 豊氏は

  東京を愛し、庶民のひとりとして生き、そういう目線で絵を描き通した、職美の先輩です。画集をみんなで発行したので、ぜひそれを見てほしいです。

●水谷光江氏は

  21歳で「おはよう」と言う東京芝電気から職美展に出品して、桜井氏のデッサンに惚れ込んで、生涯の多くを白黒のデッサンを作品としました。「甲斐駒ケ岳」などの山々、そして山村の暮らしをするどい線と美しい黒で描きました。油絵具は臭いがするので、家族の理解がないと描けませんが、台所でもやれるという新しい地平を切り開きました。

 

 職美協が坂下議長の1985年「素描集」を 40名の人々で出しましたが、デッサンaエチュードと言って発表するものではありませんでした。水谷さんの活躍に励まされて発行できたのだと思います。

●守口 光氏は

  戦前15歳で北九州市から上京。印刷工として働きながら、兄と版画雑誌を発行。版画歴は小野忠重氏より古いと言う、確かな技術の持ち主でした。戦後 働きながら労働運動もして、その間ずっと握り続けた彫刻刀の、時代に後れるでもない、時代に媚びるわけでもない、この先輩の丹念な手仕事の版画は、じっくりと味わいのあるものです、「新開地」とか市民らしい穏やかな作風で、悪い足で1年かけて作った版画を1点風呂敷に包んで、ニコニコしながら職美展搬入に来る守口さんは 忘れられません。

●山本 満氏

  国鉄美術連盟には 国鉄青森サークル・福島いわき創美会、四国・グループすてっぷなどに、すばらしい描き手がたくさんいます。

  群馬の高崎市には、山本 満氏と浦野恒治が、競うように良い作品を描いていました。山本さんが 美術家連盟事務局の時は、労働問題の60年代マル生下のサークルつぶしの時代で、連盟の灯を消さないように、工夫をしながら飄々として守ってきました。その厳しい闘いを根っこにたとえたり、怒りの炎にしたり、「職場の赤シャツ」に描いたりしました。

●辻井祥二氏

  岡山の三井造船で働き、昼間はハンマーを夜は鉛筆を持つ、典型的な現場労働者画家でした。30歳頃から一人で絵を描き始め、1960年職場サークル麦土創立、1962年岡山平和美術協議会創立、1965年日本アンデパンダン展出品、1970年僕たちの呼びかけに応えて、全国美術サークル交流会に参加、以後職美展出品。庶民の哀愁をのせて本格的な骨太な油絵を描きました。

上記のように すばらしい先輩がいるのに、その人々の研究会もしようとしたのに人が集まらず、戦後民主主義を私達も検証してこなかったことを反省しています。 職美展には地位も金も名誉もなんのメリットもないのですが 絵を愛して良い絵を描こうとする熱いものだけが支えの団体なので、下記のようなことがあります。

 

1.形のうえでは、アメリカも日本も、美術団体も職美展も、民主主義なんだろうが、核、原発など、多くの人々が願っていることと、政府のやっていることは ちがいます。

この国に本当の民主主義が、根づいているのだろうか?文化国家は どこに行ったのだろうか?企業帝国は 租税逃れなどやりたいほうだいである。   

 

2.幅広いアマチュアが絵を描くようになると、製作のむつかしさ、たいへんさが理解されるようになり、文化に対する愛情が深くなると同時に、見る眼が厳しくなります。文化のピラミッドは底辺が広くなれば高さも高くなる。

 

3.芸術文化の評価は誰が決めるのでしょうか?庶民はどう関れるのでしょうか?

4.職美展はきのう描き始めた人から、50年以上も描いている人まで幅広くいるのが特徴です。今は「趣味的・娯楽的」と言われるほどゆとりがあって、遊びでやっている訳でありません。こき使われイジメられ、苦しいなかでも、人間らしい営みの中に絵があるのです。

 

5.絵を描くことは きわめて平和な仕事です。これからは庶民、働くものも、文化の担い手になると思います。市民としても 職美展の仲間も 自分で考え、行動を起こすことは 充分出来ていません。

6.職美展のはじまりから、なぜ職場を描かないのか?と言う声は専門家から一貫してありました。僕達もそういう作品がもう少し多いと良いと思います。ただ労働が形として見えにくく、どんどんなっています。そして 自分も含めた多くの人々が、つらく厳しい労働が終わって、絵を描くという自分の刻ぐらい 心やすまるものを描きたいと思うのも、人間として当然だろうと思います。

 

7.職美展は 近年描ける人が卒業しなくなっています。そして 職美の仲間、地域の人々、家族の暖かい支持で 続いてきました。だから入場者は多い方です。今の私達の世代でも、力の入った良い作品を描く人はいます。少し男女1名ずつあげると、坂下雅道氏は「管理という労働」をシリーズで描き「未帰還」を描いています。根木山和子氏は保育園のおむかえの自転車シリーズを描いて、忘れられません。日々の暮らしの中で、職場の仲間、地域の人々が共感してくれるような絵を、みんながいっしょうけんめいに描こうとしています。だから売れるとか、画壇で評価されるとか、あまり考えずに、小品だったり、地味で目立たなかったりしています。そうした絵が共感を得て、人生を変えるほど魂が揺さぶられる、そんなことが起こる可能性もあります。

 

私達も「絵画が生活とはなれるとだめになる原理」を志を高く持っていきたいと思っています。長い眼で見ていただければ、ありがたいと思います。

 

職美協常任幹事 阿部正義