戦争の「賛美」から戦争の「惨禍」へ  — 戦争美術をたどって —

「ナルメル王のパレット」

北野輝

 「美術は戦争をどう表現してきたか」——そのようなテーマを掲げて、昨年11月に、私は日本美術会の付属研究所=民美の美術講座の講義を試みた。それは、美術史を専門としていない者の、専門の研究者ならむしろ避けるであろうところの大それ た越境的な試み(蛮行!)であった。それをあえて試みたのは、戦争美術(戦争画に限らず戦争に関する諸ジャンルを一括して仮にそう呼んでおく)の歴史を自 分なりに一度は整理しておきたかったのと、そのことによって、日本の戦時下の戦争美術をより広い視野と長期的な歴史の中で見直し、そのよりたしかな評価の 手がかりを得たいと思っていたからである。

 本稿で私は、民美・美術講座での講義内容を略述して、多少の補足と考察を加味することにする。それは、戦争と美術の関係を総体的に問題とするものではなく、組織的な武力闘争としての戦争が人間にもたらす災厄、人間性剥奪(dehumanization)の実体を、美術がいかにしてとらえるようになってきたかを、主としてたどることとなるだろう。

戦勝と戦闘の賛美としての戦争美術
 古来、戦争は美術の重要な題材やテーマとなってきた。とはいえ、戦争という人間の集団的行為がまだ存在しなかったと見られる原始時代に、戦争画の痕跡が見当たらないのは当然のことであろう。後期旧石器時代のラスコー(フランス)の「史前の悲劇」と呼びならわされている洞窟画は、人間と野獣との命をかけた戦い(狩猟)の「悲劇的」結末を、この時代の絵画には珍しく一つの構図において描き出している。この時代の戦いは基本的には人間と野獣(自然)とのそれであり、人間同士の戦いは、仮にあったとしても偶発的でごく小規模のものだったとみなすのが妥当だろう。
 中石器時代以降になると戦闘場面の絵が現れている。東スペイン(レヴァント地方)のレヴァント美術と呼ばれる岩隠絵画は、旧石器時代とくらべて著しく題材が豊かになっており、動物は様々な野獣や鳥魚類から昆虫類に及んでいる。人間はその活動の種々相が一つの構図の中に描かれるようになっており、狩猟の他、舞踊、蜂蜜採りなどとともに、戦闘や人間狩りに向かう行進らしきもの(?)まで見出せる。弓矢をもって相対峙している人物が単彩の影絵風の表現で動的に描かれているのは、明らかに人間同士の戦いの場面であろう。しかしこの場面が闘争(battle)を表すものではあっても、戦争(war)の描写であるかどうかはにわかに決めがたいだろう。
 一般に、考古学や人類学、史的唯物論の見解では、ほぼ一致して、戦争の発生は人類が農耕社会を形成するようになって以後のこととされており、それは種族間、部族間の戦いから国家間の戦いへの組織的な拡大過程を経ていったものとみなされる。戦争は、経済的、政治的目的などを実現するために、相対立する支配者間、国家間、階級間、宗派間などにおいて行なわれる組織的な武力闘争であり、それによって多くの場合、征服と被征服、支配と被支配(従属)、あるいは被支配からの解放という結果がもたらされる。古代エジプトの「ナルメル王のパレット(化粧板)」(前3100年頃、レリーフ、表裏二面)は、初期王朝期における上エジプトの王ナルメルによる下エジプトの征服と国家統一を記念し神殿に奉納されたものである。これは古代メソポタミアの「ラガシュ王エアンナトゥムの戦勝碑」(前2500年頃、レリーフ)や「アッカド王ナラム・シンの戦勝碑」(前2291〜2225年頃、レリーフ)などと同様、もっぱら勝利者・征服者としての王の功績を讃え記念するものとなっている。ただ、「ナルメル王のパレット」(表面)には斬首された敗者の死屍が列をなして描かれており、征服行為の残酷さがあからさまに表現されている。しかしこのあからさまな残酷表現は、逆に征服の負の側面、その残酷さや悲惨さには当時まったく無関心であったことを物語っているだろう。
 「ナルメル王のパレット」(裏面)は、古代エジプト美術における“敵を討つ王の姿”の図像的祖型となったとされるが、そればかりでなく美術における戦争表現が、その後永く勝者、征服者の立場からその栄誉を讃え記念し永遠化しようとするイデオロギーを担わされてきた点で、エジプトの内外を問わず戦争表現の祖型ともなっているといえよう。それは、古代ローマの「トラヤノス帝記念柱」や「マルクス・アウレリウス帝記念柱」などを経て、西欧近代のアントワーヌ=ジャン・グロのナポレオンを讃える多数の戦争画へと変奏を経ながら維持される。
 そうした中で、古代ギリシアの美術において特徴的と思われるのは、戦争が特定の王の戦勝を記念する征服者像の表現としてではなく、神々と巨人たちの戦いやギリシア人と他民族の戦いなどの集団的な戦闘場面として、神話化ないし伝説化されて描き出されていることが多いことだろう。そしてこの集団的な闘争場面の表現は、アルカイック期からクラシック期へと登り詰めヘレニズム期へと移るギリシア的人体表現の発展そのものの例証ともなっていることであろう。「神々と巨人の戦い」(前525頃、デルフォイ「シフノス人の宝庫」北面フリーズ浮彫り)、「ラピタイ人とケンタウロスの戦い」(オリンピアのゼウス神殿西破風彫刻、前460年頃。パルテノン神殿南面メトープ浮彫り、前447〜443年)、「ギリシア人とアマゾン族との戦い」(ハリカルナッソスのマウソレイオン東面フリーズ、前350年頃)などの作例が挙げられる。それらは、戦争が名誉ある民族的、市民的行為として讃えられるギリシア的気風を反映しており、その戦いで命を失うことも(「瀕死の戦士」、アイギナ島アファイア神殿東破風彫刻、前490年頃)、戦士の名誉とされたのだろう。

戦争美術の多様化と質的変化
 ルネサンス期に入って美術による戦争表現は多様化する。その原因はいくつかあろうが、この期における地上の人間活動そのものへの関心の高まりや美術家と美術の自立=自律の一定の前進が、それに大きくかかわっているように思われる。いまだ中世的なものを引き継ぎながらも、地上の出来事への現実的関心の高まりや美術家と美術の自立=自律の前進が、戦争に対する多様なスタンスの取り方とアプローチを可能にしたと考えられるのである。例えば、パオロ・ウッチェッロ「サン・ロマーノの合戦」(1456年、テンペラ)。これは、フィレンツェ軍がサン・ロマーノにおける合戦でシェーナ軍に大勝した史実を三部作に仕上げたものである。史実を描きながら現実感に遠いファンタスティックな絵画世界の展開に、後期ゴシック様式の余映ばかりでなく、個性化された戦争画の一例を見ることが出来るだろう。また、ピエロ・デッラ・フランチェスカ「コンスタンティヌス帝の勝利」と「ホスローの敗北」(1454〜64年、フレスコ)など。どちらも「聖十字架物語」の一こまを壁画に仕立てたもので、中世以来のキリスト教的テーマを扱いながら、人体とそれを取り巻く空間のより自然な描出によってルネサンス様式の発展を証している。あるいは北方ルネサンス美術には、アルブレヒト・アルトドルファーの「アレクサンドロスの戦い」(1529年、油彩)のように、地上の戦闘を宇宙的視野でとらえたような特異な興味深い作品もある。
 これらにたいして、完成後ほどなく撤去されてしまったレオナルド・ダ・ヴィンチの「アンギアーリの戦い」(1503〜1505、油彩)は、従来にはない質的変化を示していたものと推測され、その先駆性が注目される。「アンギアーリの戦い」はフィレンツェ政府からの委嘱による壁画で、1440年にフィレンツェ軍がミラノ軍に激闘の末勝利した史実を主題として描いたものである。しかし、その制作に当たり、レオナルドはフレスコ画法ではなく壁面に直に油彩で描く描画方法を試みて失敗し、絵具の無残な剥落を招いてほどなく塗りつぶされてしまった。現在残されているのはレオナルドによる何葉かの素描と壁画の中央部分のピーテル・パウル・ルーベンスによる模写(壁画からではなくカルトンからの模写、1615年頃、ペン・チョーク・水彩)だけとなっている。残されたこれらの資料から原画を十全に推測し復原することはもちろん不可能だ。だが素描を見ると、彼が激闘における人馬の動きと表情を研究していること、またルーベンスの模写を見ると、人馬あいともに激闘する狂気じみたすさまじい有様をとらえようとしていたらしいことが知られる(ルーベンスの模写にはバロック的な誇張が加味されているかもしれない)。そこからさらに推測を進めるならば、この失われた壁画は、注文制作であるにもかかわらず、フィレンツェ軍の勝利を祝い記念する戦勝画からは遠く、もはや敵味方の区別のない激闘の過酷さ、人間を狂気に駆り立てる人間性剥奪の有様の冷静な描出となっていたのではないか。
 実はレオナルドには戦争体験がある。1502年の夏からほぼ8ヶ月の間、雇主チェーザレ・ボルジアの軍事土木技師として従軍させられていたのである。彼がその従軍から得たものは、戦争の愚かさ、「もっとも獣的な凶行」に対する激しい憎悪であったことが明らかにされている。「アンギアーリの戦い」に彼の戦争への激しい憎悪を重ね合わせて解釈することは、あながち無謀とは言えまい。ただしこの幻の壁画は、レオナルドの他の作品同様、彼自身の感情を直接的に表出したものではあるまい。彼自身の戦争体験に基づきながら、戦闘という極限的な修羅場における人馬の反応、その動態や瞬時の形相の観察と研究の総合的な絵画化として、彼の世界認識の一環をなすものであったろう。
 「アンギアーリの戦い」に関連してここで確認しておきたい第一は、彼は「支払う者のところに留まる」として、雇主の世俗君主に対しても独立・超然の態度を持し、注文制作においても自己の創意と探求を通して、前近代の制約の中でかつがつ芸術家=芸術の近代的な自立=自律を先取りしていたことである。第二は、その世俗への超然たる態度にもかかわらず、彼が人間を「獣化」する戦争の人間性剥奪に強い拒絶反応を示していたことである(この拒絶反応は彼の人間性の表れであろう)。

 レオナルド・ダ・ヴィンチが戦争の負の側面、人間性剥奪の実体に美術史上初めて造形的表現を与えたのかどうか、私の狭い視野と乏しい知識では断定できない。しかしおそらく「アンギアーリの戦い」が、「ナルメル王のパレット」という戦争賛美の祖型から離脱した新たな祖型の一つである、と言えるのではなかろうか。この新たな祖型に連なるものとして、ジャック・カロ「戦争の悲惨」やフランシスコ・デ・ゴヤ「戦争の惨禍」がまず思い浮かぶ。しかしこの系譜をたどることは、本稿の次の課題となる。(未完)


・ 筆者プロフィール:

1936年生まれ 

東京芸術大学大学院修了美学専攻 1967–2002年
和歌山大学等教員 日本美術会会員