2013年の社会と美術について

宮田徹也

1.はじめに
2013年、遂に、ファシズムの時代が到来した。否、既にファシズムの時代は始まっ ていたのかも知れない。それは、敗戦直後だったのかも知れない。気が付くことなく、何時の間にか、真綿で首を絞められるように、足元から靄が立ちこめるよ うに全身を包まれる。それがファシズムの特徴である。

2.神奈川臨調から透けて見える今日の状況についての批評
美術展覧会評を投稿している神奈川の地方新聞「新かながわ」は2012年の初夏、神奈川県が財政難を理由に県緊急財政対策本部に助言する外部有識者調査会「神奈川臨調」が設置されたことを報道した。メンバーは増田寛也(株式会社野村総合研究所顧問)を座長とし、石原信雄(財団法人地方自治研究機構会長)、内野優(海老名市長)、小川賢太郎(株式会社ゼンショーホールディングス代表取締役社長)、高橋忠生(社団法人神奈川経営者協会名誉会長)、坂野尚子(株式会社ノンストレス代表取締社長)である。


呼称については黒岩知事が「大改革を成し遂げた起爆剤となる強い思いを込め、かつて国鉄民営化などを進めた土光臨調になぞらえたものだ」と説明している。2012年5月27日開催の第2回会合で、県立図書館、神奈川県立近代美術館など県民利用施設107箇所、保健福祉事務所など132の出先機関、15の社会福祉施設(学校と警察を除く)を対象に「3年間で原則全廃する」方向を打ち出した。団体補助金については、1988年以前に制度化された補助金や小額のケースは全額廃止、それ以外のすべてをいったん凍結し、「ゼロペースから新たな補助制度を作る」とした。臨調委員らは「いちいち意見を聞いていては改革できないから、トップダウンでスピーディーにやることが大切だ」という趣旨のことを強調した。


報道当初、かながわ県民活動サポートセンターが老朽化などを理由に、見る見るうちに使用が制限される姿が顕わになり、反対活動が起こって何とか「保留」へ持ち込んだことが記憶に残る。それにしても、いつまで経っても、そして今日においても、マスコミが全国版の新聞、テレビ、インターネットで臨調を取り上げることがない。それはまるで福島第一原子力発電所と同様に、規制が掛けられているのではないかという疑問が残る。


図書館廃止は、さすがに全国区で報道された。しかし利用が少ない他の県の図書館と比較されるなどして、「神奈川臨調」の「り」の字も出てこない。図書館の司書達が館内でアンケートを取ったり、同Webで意見を募集したりして、こちらも「保留」を勝ち取った様子だ。しかし、予断は許されない。


新かながわは県が財政難どころか、むしろ黒字である事実を突き止めた。リニアモーターカーを通す財源を黒岩知事が確保しようとしているのではないかと推測されたが、その後の自民党改憲法案、TPPを考慮に入れると、決して県の利益のみを求めているのではなく、もっと大きな問題を抱えているのではないかということが明らかになっていく。すると、これまでの国鉄や郵政などの民営化、国立美術館の独立行政法人化、公民館や道路などの施設の配備、輸入による生活の変化といった、何気なく行われている日々の暮らしに疑問が沸いてくる。利益を重視し輸入品に頼る(衣)、森と水道を管理し鰻や松茸といった自然生物が全滅し食文化が変化する(食)、国内を完全整備し無用な道路を造り地価を上げたこと(住)等、利便を優先する国策に対して我々が安易に乗ってしまっていたことへの反省が浮き彫りとなる。


私は新かながわにおいて、新かながわの記者・大山奈々子と共に、まずは県内の美術関係者にインタビューを行うことにした。80歳になったばかりの青木茂(元・神奈川県立近代美術館研究員、現・明治美術学会会長)は驚きを隠せなかった。「文化がショービジネスになってしまう。元が取れても客が入ることなら誰でもできる。研究や実験などお金がかかることは自治体や国がやるしかない」という見解を示した。藤嶋俊會(元・神奈川県民ホールギャラリー課長、現・野外彫刻調査保存研究会会長)は歴代の知事を紹介し、「(県立美術館、県民ホールギャラリーの展覧会の)鑑賞者が少ない時もあるかもしれない。しかしそれがいつかは歴史になり、(神奈川県の)財産となっていく」ことを示唆した。関内・日本大通に位置するギャルリーパリのディレクター森田彩子と、市民ギャラリーの立ち上げにも参加し、横浜で美術に携わる者で知らない人はいないほどの重鎮、画家の稲木秀臣の対談では、森田、稲木共に日本の行政の文化音痴を嘆き、そのような発想が海外では全く通用しないことを教えてくれた。日本とアメリカのアトリエを往復し、世界で活動するフランシス真悟はアメリカの事例を引き合いに出して「文化が経済を創造すると発想すべきだ」と発言した。今日、日本の美術批評家の第一人者である中村秀樹は、図書館、美術館が生きるための知恵の蓄積、宝庫であることを前提に、美術を手がかりにして「自分を相対化し、社会に目を向けることが、今、最も大切ではないだろうか」という問題提起をした。


この2012年10月から13年3月に亘る5回のインタビューに、大山奈々子による「発行にあたって」「そもそも緊急財政対策なのか」「新かながわは、県民はどう動いてきているのか」「これから」、私と大山の「あとがき」を加えて、『オピニオン 神奈川臨調を考える 芸術を生み、育む立場から』というパンフレットを、新かながわ社から13年4月に刊行した。私はこの「あとがき」でも記したが、インタビューで「賛成・反対」を問わないことにより、様々な立場の方々の多様な発言により美術の本質が浮かび上がってきたと感じた。また、元研究員、元学芸員、ギャラリスト、作家、批評家が口を揃えて言うのは、始めから行政を当てにしていないことであった。それを前提とした上で、行政が行わなければならないことを忠告したのであった。


私はこのパンフレットを携えて、「賛成・反対」を問わない姿勢を貫き、多くの美術関係者に直接伝達しようと試みた。「芸術と神奈川臨調が呼吸する」と題して、六本木・日本アンデパンダン展(3月24日)、銀座・steps gallery(4月19日)、京橋・東邦画廊(5月27日)、横浜・横浜アンデパンダン展(7月21日)、横浜・ノーウオー美術家の集い横浜(8月12日)において、トークイヴェントを行った。参加者に若者はなく、人数も少なかったが、濃厚な時間を過ごすことができた。当然、厳しい意見も戴いた。しかし黒岩知事は単なる傀儡なので直接話しても何も出てこないし、反対運動を私が組織すれば美術家が「宮田組」と名付けられて差別されることは目に見えている。著名人に話して貰うよりも、もっと普通の美術家たちに知って、考えて貰いたいのだ。


トークと同時進行で、今度は私一人で新かながわに神奈川県立近代美術館本館閉鎖について、元学芸員を中心に話しを聞いて記事にした。原田光(元・神奈川県立近代美術館学芸員、現・岩手県立美術館館長)は「新たな神奈川の美術館方式を模索するという方向へ進むために、鎌倉本館は絶対に必要」とし、酒井忠康(元・神奈川県立近代美術館館長、現・世田谷美術館館長)は「美術館そのものの存続が難しい、不安であるという予感が薄らとある」と話し、山梨俊夫(元・神奈川県立近代美術館館長、現・大阪国立国際美術館館長)は「本館が担っていた役割を現場感覚で現場が対処すべき」と意見し、太田泰人(元・神奈川県立近代美術館学芸員、現・女子美術大学教授)は建築物の重要性と臨調の無謀さに憤り、近藤幸夫(元・東京国立近代美術館学芸員、現・慶應義塾大学教授)は建築物と景観の関連性とモダニズムの重要性を説き、青木茂はこのままでは葉山館すら消滅する危険性がある、学芸員、研究者の間につながりが薄かったため、何もできなかったことを振り返った。このインタビューは後二回続く。神奈川県立近代美術館を良く知る者達にとっては、土地の持ち主の鶴岡八幡宮との契約が2016年で切れること、それに伴い、これまで文化を重視した展覧会は、県からすれば入場者数の少ない勝手な活動をしていた美術館を切り捨てるこれとないチャンスとなって、複雑な問題を一気にまとめあげて臨調の対象にしたと見抜いている。


私は新かながわにおいて美術だけではなく、政治記事も取材した。横浜市の保育園待機児童ゼロは真っ赤な嘘で、収入がある親の子だけが収入のある保育園に入ることが可能になり、収入のない親は申請者として認知されない。だから待機児童ゼロとなる。これまでの良い幼稚園から小中高、大学と進学するエリートルートは、もはや保育園から始まっていく。アメリカへ行った友人は有機野菜サラダを出す高級カフェと、何が入っているのか良く分からない安価なハンバーガーショップしかないことに不思議がっていたが、これはTPPである。TPPは食品どころか保険制度を変える。高額な保険を払える者のみが救われ、払えない者には救急車すら来ない。建築の入札にも乱入し、安価で質の高い材料で建造するため、区市県という地域の区別を破壊する。これこそ臨調と同様である。自民党改憲法案には経済優先が盛り込まれている。10月17日、県庁で開催された「対話の広場」において黒岩知事はAKB48など「メジャー」であることが文化であるという考えを披露した。そう考えると、1950年代はモダニズムが「メジャー」であったのかも知れない。徹底的な資本主義の発想は、格差を生み出す。関東大震災時に朝鮮人がリンチされたのは、人種差別ではなく階級差別である可能性があることを、横浜市立中学校教論の後藤周が9月22日、川崎市総合自治会館における講演会で発表した。秘密保護法により、極端な話、家族の会話が失われる。ナチは「国民が国民を監視するシステム」を形成したが、今日の日本では「家族が家族を殺し合うシステム」が完備したことになる。ナチが羨ましい、デモはテロだと体制が言いたい放題なのは、「言論の自由は体制側にある」と戦後直ぐに竹内好が言った警告が現実のものとなってしまった証である。
我々は美術関係者である以前に、体制に管理されていることを忘れてはならない。そして、社会的に「メジャー」でない美術関係者は弱者として葬られていくのだ。

3.敗戦後から今日に至る国立美術館と公立美術館の根底に対する研究
 我々は普段、「美術館に作品を見に行く」という発想しか持ち得ないから、そこが私立か公立か、国立の美術館か等、正直考えない。しかし近年の関東の場合、古美術であれば東京国立博物館、現代美術であれば国立新美術館の展覧会が異様なまでに豪華であり、宣伝にも莫大な費用が投じられている。千葉、埼玉、茨城等の展覧会のチラシやポスターが余り目に付かないのは、当然の如く国立には国から莫大な予算が付けられ、公立はバブル崩壊後同様に、県から予算が下りないことを示している。


 国立美術館とは、国の広報宣伝部である。例えば東京国立近代美術館で開催された「武内栖鳳展」(2013年9月3日~10月14日)では、栖鳳が特別に制作しているわけではない《富士図》が展覧会のメインの場所で広々と展示してあった。我々美術関係者であれば日本画の題材である花鳥風月若しくは風景画の一貫に過ぎないのだが、一般の方々にとっては「美しい国日本」を代表する姿にしか見えないであろう。そう考えると、同美術館で2013年2月13日~5月26日に開催された「東京オリンピック1964 デザインプロジェクト」は、2020年の東京オリンピック招聘の宣伝の一貫でしかなかったことに気がつく。


 横浜美術館が他の公立美術館の先陣を切って、東京国立近代美術館と同様に、「横山大観展―良き師、良き友」(2013年10月4日~11月24日)において《霊峰不二》をメインに置いた。横須賀美術館も2012年6月9日~7月8日まで、ロックバンドの「ラルクアンエル」展を開催し、ジブリ以上の集客・集金目当ての展覧会も開催された。
 ここで公立美術館、即ち「近代」美術館の先陣を切った神奈川県立近代美術館の土方定一の思想と、東京国立近代美術館の発想を定着させた河北倫明の思考回路を比較考察する必要がある。


 土方定一(1904~1980年)1930年、東京帝国大学文学部美学美術史科を卒業、シベリア鉄道でドイツに赴く。32年、『ヘーゲルの美学』出版。42年、華北総合調査研究所文化局副局長に就任し、北京に赴く。51年、神奈川県立近代美術館副館長、65年、同館館長となる。土方の『近代日本文学評論史』(東西書林/1937年)の内容は明治からの日本の美学受容史であり、日本の美術史が如何に検討の余地があるのかを提起している。この思想は後に神奈川県立近代美術館の企画展「近代日本洋画の150年展」(1966年)で結実する。当時、誰もが明治100年を疑わなかった時期に、美術史に対して問題を発したのだった。土方は戦後直ぐに復活した文部省展覧会、日展に対して新聞に展評を投稿、権威の維持持続に反対し、民主的な、現代を含んでいる近代美術館の必要性を強調した。明治に始まり敗戦で一旦停止した日本の美術は、それまで什器や装飾品であったものを古美術と捏造し、世界に通用するための現代美術を量産し、総ては御物であった。そのため美術研究は古美術が如何に世界的に古くて重要かを示すことによって皇紀を優位にし、美術批評は文部省美術展覧会に関わる作品を称賛した。高橋由一に始まる近代美術など、全く相手にされていなかったのだ。しかし近代美術にも、国とは別の権威がこびり付いていた。例えば土方が岸田劉生の研究をしようとした際、劉生夫人に「劉生のようなエライ画家のことは武者小路先生などが書かれるべきで、あなたのような劉生と会ったこともない若僧が書くべきではない」と言われている(あとがき『著作集7』)。このような権威というよりも伝説化を剥ぎ取り、客観的な調査研究と徹底的な資料調査に拠って「日本の近代美術は、その相貌を一変した」(宮川寅雄)のであった。土方は日本の近代美術を中心に据えながらも、ヨーロッパの現代美術の動向と歴史を忘れることはなかった。むしろ日本と世界を織り交ぜて、同時に考えていたと言っても語弊はない。神奈川県立近代美術館は、美術とは何か、美術が美術と化した近代とは何かといった壮大なテーマを解き明かす努力を続けてきたのだった。


 それに対して東京国立近代美術館は、ヨーロッパや戦前に概念化された既存の美術と近代の定義に従っていった。確かに今泉篤男は1949年、美術評論家組合を発足させるべく、土方定一と共に発起人となり、意志を共にしていた。今泉篤男(1902~1984年)は1927年、東京帝国大学文学部美学美術史科を卒業、32年ヨーロッパに渡り、パリ大学、ベルリン大学に学ぶ。34年帰国、美術評論を始め、52年国立近代美術館次長、67年京都国立近代美術館館長、同職を69年まで務めた。今泉に権威志向は薄く、作家というよりも作品に対して着実な視線を注いでいた。その一例を挙げる。「大観の70年に亙る画風の推移のうちで、歴史的にみて最も重要な段階は、朦朧体から、水墨を使った「片ぼかし」と呼ばれる手法に移った時期だと私はみている。この時期の作品が一番佳いという意味ではないが、これは様式的な推移として日本の近代絵画手法上に大観のなし遂げた大きな功績の一つだと思うのだが、案外この点は見逃されているようだ。比喩的に極端に言えば、それは印象派的な手法から立体派的手法への推移に近いものともいえる。もちろん大観はそれを理論的な考え方でやったわけではなく、東洋画の伝統をどう新しく開拓してゆくかというこの画家の血みどろな苦闘のうちに具現したものであった。遺憾なことに、この事実は画壇のうちにほとんど追随する者のない大観様式独走の観があって、新しい発展をみることができなかったのである。しかし、こういう傾向のピークの上に「生々流転」(1923)のような、傑作が生まれている。おそらく、この一作によっても、大観の名はわが国の絵画史上に小さくない光芒を放つものとなるであろう」(「東京新聞」1958年2月26日)。片ぼかしを再発見し、これぞ我が国の傑作であると手放しに称賛しないエクリチュールを見逃してはならない。


 東京国立近代美術館の歴史観を形成した河北倫明(1914~1995年)は京都帝国大学哲学科を卒業、1943年文部省美術研究所に勤務。52年国立近代美術館事業課長、63年次長、69年京都国立近代美術館館長となる経歴を持っている。随筆調の今泉に比べて河北は徹底的な理論を携え、作家論だけではなく論文を多く残している。河北は「器用者の世界」(『日本文化研究』第六巻(新潮社/1959年)において、「天心の暗示はまだ解かれていない」と章立てし、岡倉が東京美術学校での講義の際に日本の美術を総括、将来に処するための注意事項とした七項目を引用検討、「変化」「適応力」に富むことを重要視し、結論をまとめる。「…、私の頭には、かすかながら、天心のあの変化と適応力の考えがひらめいていた。日本美術の流れを一つのものとしてつかむには、ヨーロッパ風の様式発展史のような行き方は無意味なのではないか。日本美術のほんとうの軸は、そういった西洋風の発展形式とまるで違った世界をつらぬいて通っている。その点の解明なしには、日本美術のバラバラな史的展開をどうつなぐこともできない。(中略)しかし、その答えは実をいうと、天心が先にのべたような素朴な指示をあたえているだけで、その後美術史の方では大して問題ともされていなかったのである(後略)」。ここで重要なのは、「素朴な指示」である。


 大戦時、翼賛運動に利用された岡倉覚三(1862~1913年)について敗戦後に語る者など全く居なかった。その現状で岡倉を引用し再考察しようとする河北には、日本美術史再編の目論見があったに違いない。その前提にあるのが、矢代幸雄の『日本美術の特質』(岩波書店/1943年)なのである。ここで矢代は岡倉に対し、批判する。「「亜細亜は一なり」は正に吾人の肺腑を衝く名文句に相違ないけれども、之を純粋に学的発言として受取る時、あまりに素朴な総括にして、厳密に言へば、何を意味するのかよく解らない。(中略)東洋美術の考察には、鋭敏なる芸術的感受性と思索とを根拠とする真の美術批評は未だ多く発言さるるに至らず、言語学者、文学宗教等の研究者、歴史家、考古学者等の文学的乃至歴史的解説が、恰かも芸術価値の根拠であるかの如く横行せざるを得ないのである」(10-14頁)。
 岡倉を「学者」と見る矢代に対して、河北は岡倉の「素朴」さこそ矢代のいう「感受性」であると再考する。それにより、まるで万世一系のように岡倉、矢代、自己を連結させるのだ。


 矢代幸雄(1890~1975年)1915年、東京帝国大学英文科卒業。東京美術学校(現・東京藝術大学)で教職を務めた後、21年から25年にかけて欧州留学。帰国後は、東京美術学校教授。36年に美術研究所(東京文化財研究所)所長に就任。1960年、私立大和文華館初代館長として活躍する。


 今日の東京国立近代美術館の常設展示においても、「安井・梅原・ルノアール・ゴッホ」というキャプションが存在するが、これは矢代が1953年に新潮社から出版した書物のタイトルであり、書中で矢代は四者を別々に論じており、決して比較考察を繰り広げている訳ではない。即ち、矢代の権威だけを東京国立近代美術館では保持しているに過ぎないのだ。

4.おわりに
国立と公立の美術館の比較は、序説に過ぎない。敗戦後の美術館の発生、役割、存在意義の考察は続けなければならない。しかし、公立美術館の役割を探究するために生まれたと考えられる「明治美術学会」は体制に直結する「美術史学会」とさほど変わらない存在となり、自ら「その役割を終えた」と考えている様子なので、先行きは暗い。
我々は一般の部門でも研究の分野でも、追い込まれている。この状況の中で、どのように作品の制作を続け、民主的な研究を続けるのか。残された道は、闘争のみである。