50年・60年代の見方についての一側面              ー見逃しては、わからない事があるー

日本美術会とは何だったか
50年代の評価というものが定まって来たと言える。ある人は「その時代の人が居なくなって、客観的な視野が生まれたのだよ!」と。確かにそういう面はあるのだろう。が、戦争の理不尽な死、飢餓などの恐怖と思想の抑圧から解放されて、「歌声よ起これ!」という民主主義への情熱の時代だったのではなかろうか?旧勢力の弱体化やあらゆる権威の崩壊が、占領軍の元ではあったが、進められて、新しい平和憲法が国民に受け入れられ、未来の民主的日本への希望にあふれた時代が50年代だった。

同時にその半ばから、朝鮮戦争、アメリカでのマッカーシズムの嵐、その影響としてのレッドパージなど反動の時代への急展開があったが、そうした戦争から平和へと希望を持ちながらも、またもや危機の時代へと急転する。貧しさと希望と危機という急転直下する平和と民主主義への戦いの反映が50年代美術・芸術の特徴だったのではなかろうか?それをリードしたのが日本美術会。「アンデパンダン展の時代」という「クロニクル」な美術史の提示をしたのはパブリックな美術館であって、60年を経過した今日、初めてそうした視野が生まれたとも言えるのだろう。

(「暗黒と光芒」という副題付の50年代企画展もあった)



60年代を私達からどう描くのか

 旧ソ連のモスクワで行われた「現代日本美術展」をどう見るか?という視野は生まれているだろうか?日本美術会が主催したわけでは無いこの国際展が、どうして会の総会を3回も連続して開き、結果若手20数名が脱会することになったのか?25周年画集では、60年安保の挫折感があったと見ている。安保闘争の問題がどうやら大きく影響している。安保闘争の歴史的な意味の大きさは多くの人が言う処だが、アメリカ側からみると日本の文化知識人の反安保への多数の結集が60年代のテーマとなり、「ケネディー・ライシャワー路線」と言われる、反安保で結集した知識人分断への戦略が打ち出された。また、テレビ番組のアメリカドラマの無償提供とかが最近明らかになったばかりだ。すなわち国民の大衆文化へのアメリカ化が戦略的に仕組まれていくわけである。そして知識人へのアメリカ招待訪問など意図的に取り組まれていったわけだった。


冷戦の一方の大国ソ連はスターリンが亡くなるとフルシチョフによるスターリン批判があり、一大ショック後「雪解け」という改革時代が始まり、当時アンデパンダン展にはソ連大使館の文化担当者がよく来ていた。多分アメリカの文化戦略への対抗策としてモスクワで現代日本美術展をやりませんか?という話もあったのではなかろうか?日本美術会のリーダーたちがその実行委員会のメンバーであったために当時の6全協という共産党の統一の流れに呼応する形で、そのモスクワでの展覧会の成功を大いに進めた人達がいて、若手の前衛的美術家はそこには入れなかったのだろう。そこに矛盾と葛藤が生まれたと思われる。当時は保守権力+アメリカ×左翼勢力(日本共産党)+日本美術会という構図があって、お互いシビアに分けられない結びつきがあった。


その後はどうだったかというと、日本美術会も大いに発展し、又諸外国との美術交流展も進んだ60年代だったが、高度成長といわれる経済の巨大な発展は、保守権力の安定を強め、旧画壇の復活を招き、海外の美術展の活発化を招来。50年代の「アンデパンダン展の時代」は収束し、日本美術会も画壇の一翼として安定の時代へと移行した。農業や漁業などから工業化への労働人口の移動、都市への村からの人口集中などが起こり、労働と生産の構造的な変化が起きたのも60代年だった。それら社会的事件や経済的変化は無視できない背景であり、ましてや、そこを見逃しては何も見いだせない事を、「美術史」と言えども肝に銘ずべきだと思う。


60年代は版画運動が特徴的な活動で、当時の事務局長であった金野新一さんからいろいろ聞いている。金野さんのアトリエに石版画のプレス機を入れて、多くの会員が熱心に制作されたと聞いている。それを当時の東欧の大使館に交渉して、版画交流が盛んに行われた。それはモスクワでの「現代日本美術展」開催に関わるその後の混乱への金野新事務局長(当時)の対応と収拾策だったのではなかろうか?若い会員の国際展への意欲を、積極的に救い上げて、民主的進歩的な美術運動活発化への戦略だったのだろう。また若手による「新現実派」展の開催は当時の高度成長政策による開発の名の下での自然破壊、農村や漁村の若者流失、家庭崩壊への現実告発を込めながら、日本の地方の美しさを、モダンな手法や斬新な構成を取り入れて、教条的な写実主義だけでは無い絵画を謳いあげたと思われる。もちろん戦前の新人画会など戦後は日本美術会に結集した大家が、この60年代に自己の芸術内容の深化と完成に向ってほぼ成功した時代でもあった。反芸術やネオダダの流れだけがアメリカの戦後の美術の文脈の中で評価を一手に握ってきたが?今後はもっとバランスの取れた評価に進むのだろう。


 

木村 勝明

 


「積材所」1964 油彩・キャンバス130.3×162㎝   渋谷草三郎
「積材所」1964 油彩・キャンバス130.3×162㎝   渋谷草三郎

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コメント: 1
  • #1

    木村 勝明 (火曜日, 28 4月 2015 10:48)

    60年代の「新現実派」というグループ展に参加した岡本博さんから、今68回アンデパンダン展の開催中に「日本現実派」が正式名称との訂正をされました。「新」では無く「日本」が正しい!ということですので、コメントさせてもらいます。