※美術運動141号(2014年3月発刊)
桜井久実 (さくらいくみ) 彫刻家
「道を歩いていると、ふいに窓から老婆が落ちてきた。しばらく行くとまた1人落ちて
くる。3人目の老婆が落ちてくる前に、もう引き返すことにした。」確かそんな内容だったと思うが、ロシアの作家ハルムス(注)の紡ぐ途方もない不条理の世界は、その当時まだ日常の中に見ることができた。1991年クーデター前後のモスクワ、人々がレイズのポテトチップスやハリウッド映画を貪り始めるほんの少し前だ。鉛の袋に詰めた白黒フィルムを持った私は、混沌と皮
肉の都市モスクワにいた。
(注)ダニール・ハルムス1905~42
ロシアの前衛作家。不条理な世界観が反体制的であると弾圧に遭い獄中死。
革命の道程
この頃すでに、自由な表現の場を求める芸術家たちは国外へとその活動の場を移していた。だがペレストロイカのおかげで国内で活動を続ける作家たちも徐々に発表の機会を得つつあり、市民展示場の中にも現代美術を扱う所が現れた。カシールカ展示場もその一つだ。1 9 9 0 年からパフォーマンスやインスタレーションが行われ定期的に美術記者が取材に来るまでになったのだが、近隣の一般利用者や役所の意向などにより残念ながら94年には他の地区の展示場と同様に手芸や工芸作品が並ぶ「普通の」展示場に方向転換せざるを得なくなり、運営スタッフはせっかくコンテンポラリーアートの拠点の一つとして認知されつつあったこの場所を去ることになったのだ。私がここを最初に訪れたのはまだ初期の、スタッフや作家たちが手探りで開拓に励んでいた頃だ。その日は奇しくも91年の8月19日、クーデターの当日だった。前日から道路が封鎖され不穏な空気が漂っていたが、この日街にはいたるところに戦車が出現し、新聞社イズベスチヤの前には号外を求める人々が押し寄せていた。幸い地下鉄は動いていたので、動ける範囲で展覧会を観ようとカシールカを訪れる。そこでは1956年生まれの女性作家マリーナ・ペルチヒナがインスタレーションを展示していた。舞台美術家から転身して初の個展だった。インスタレーションという表現方法が不可能だった1970~80年代、空間全体を扱うことのできる場として多くの芸術家志望者が彼女と同じように舞台美術家の道を選んだという。革命の日に東の果てから訪れた珍客をキッチンに招き入れ、お茶を勧めて彼女は言った。「今日、私たちは本当の自由を手に入れた」
サンタクロースとカフカス人
クーデターの年の冬、ストロガノフスキー美術学校では廊下のあちこちで補修工事をしていたが、教室ではいつも通りの授業が行われていた。彫刻のクラスを覗いてみると、そこではどうやら男性モデルを油土で制作しているようだった。休憩時間だったが、きっちりとネクタイを締めた彫刻の先生が一人ずつ細かい指導をしている。
美術を志す若者たちはここで一通りの基礎を学ぶ。彫刻のクラスで出される記念像、記念広場のマケット作りの課題などはさすがに社会主義国に特有なのかもしれないが、日本で彫刻の学生だった当時の私にとってモデルの授業に関しては特に違和感は無かった。しかし、前述のペルチ
ヒナなどいわゆる現代美術の表現を選んだ作家たちはこうしたアカデミックなものに対して相当なアレルギーを持っていたように思う。彼らにとって、モデルを粘土で作ることはどうしても広場の銅像を意識させ、ソビエト的なものを思わせるらしい。
![⒌頭像のモデルを頼んだ芸術家アルトゥール・ズルミャン。こ の時はモスクワで展覧会の企画や作家活動をしていたが、今 はアルメニアでジャーナリストとして活動。1997年モスクワ](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=178x1024:format=jpg/path/s5dfcf63cc337820b/image/ida4839498330ac3a/version/1436079505/%E2%92%8C%E9%A0%AD%E5%83%8F%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%92%E9%A0%BC%E3%82%93%E3%81%A0%E8%8A%B8%E8%A1%93%E5%AE%B6%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB-%E3%82%BA%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3-%E3%81%93-%E3%81%AE%E6%99%82%E3%81%AF%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%81%A7%E5%B1%95%E8%A6%A7%E4%BC%9A%E3%81%AE%E4%BC%81%E7%94%BB%E3%82%84%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%8C-%E4%BB%8A-%E3%81%AF%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%A7%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E6%B4%BB%E5%8B%95-1997%E5%B9%B4%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF.jpg)
ある時、滞在していた現代美術画廊の作業部屋で私が知人をモデルに頭像を作っていると、画廊の客はみな一様にそれをパフォーマンスだと思い込みタイトルを聞いてきた。モデルの知人も現代芸術家だったため共同プロジェクトだと誤解されたのだが、「若きカフカス人」さながらの立派な骨格を持ったアルメニア人男性である彼に、これは是非作ってみたいと単純にモデルをお願いしたというのが実状だった。そう告げると、客層のせいだろうが人々は驚いたり、なぜそんなつまらない事をする?と不思議そうな表情を浮かべたりした。とはいえ私はもちろん楽しかったし(作業自体も周りの反応も)、当のモデルも思いがけず瞑想ができて新しい発見がいくつもあった、と結果として共同プロジェクトと言えなくもなかった。
さてストロガノフスキーでは、休憩時間が終わりモデルが教室に入ってきた。おもむろにモデル台に上がったのは先ほど廊下で内装工事をしていた職人さんだ。白髭をたくわえた初老の男性で、一見サンタクロースのようだが脱ぐと筋骨逞しく、これなら45分ポーズにも耐えられそうだ。12月のこの日、午後3時過ぎには窓の外は真っ暗だったが、学生たちは黙々と制作を続ける。彼らは卒業後どんな進路を辿ったのか。ポーズが終わるとサンタクロースは何事もなかったように作業服を着て廊下で工事を再開した。
ハサミと鞄のある日常の風景
ディナモスタジアムにほど近いマスロフカ地区に、美術家連盟の共同アトリエがある。一般的な集合住宅とほぼ同じ作りだが、一部屋が広く天井も高い。ここをアトリエにしたり住居にしたりしている美術家たちは連盟に加盟しているだけあってオーソドクスなジャンルで活動しているため、廊下や中庭には肖像彫刻や写実画・風景画が無造作に並び、利用者は年配の作家が多かった。
入口を入ってすぐ旧式のエレベーターがあり、その横には管理人の詰所がある。管理人の大柄な老女は無愛想でめったなことでは動じないが、選挙の迫ったある日興奮した様子で隣の建物で起きた傷害事件を語った。曰く、老婆同士が保守と革新どちらに投票するかで口論となり、ハサミを持ち出しての刃傷沙汰になったという。居合わせた人々はどちらが勝ったか興味津々だったが真相は謎だ。
![⒍マスロフカの住人、詩人で彫刻家のイオガ ンソンの部屋は通りに面した一階にあり、窓 から猫や荷物が出入りする。1993年モスクワ](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=189x1024:format=jpg/path/s5dfcf63cc337820b/image/i166098d1fe103973/version/1436079705/%E2%92%8D%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%AB%E3%81%AE%E4%BD%8F%E4%BA%BA-%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%81%A7%E5%BD%AB%E5%88%BB%E5%AE%B6%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%AC-%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%B1%8B%E3%81%AF%E9%80%9A%E3%82%8A%E3%81%AB%E9%9D%A2%E3%81%97%E3%81%9F%E4%B8%80%E9%9A%8E%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8A-%E7%AA%93-%E3%81%8B%E3%82%89%E7%8C%AB%E3%82%84%E8%8D%B7%E7%89%A9%E3%81%8C%E5%87%BA%E5%85%A5%E3%82%8A%E3%81%99%E3%82%8B-1993%E5%B9%B4%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF.jpg)
この建物の中の一室を借りていたこともあり、ディナモ周辺はよく歩いたものだが、ある日借り物の古いスーツケースを持っていると数人の兵士に囲まれ職務質問を受けた。普通はパスポートを見せれば放免されるが、この時は色々と弁明しても相手は納得しない。連邦内の田舎から来た不法滞在者と間違われることはよくあったが、今回はいかにもそれを強調する怪しさ満載のロシア製スーツケースがまずかったようだ。1996年のこの時、ディナモスタジアムではディープパープルやマイケル・ジャクソンのコンサートが催され、周辺には警備のため田舎から駆りだされた十代の兵士たちが多くたむろしていた。彼らは通行人にジュースやタバコをねだり、友人も柵越しに箱のままラッパ飲みのジュースを分けてやったりしていた。後で分かった事だが、私に声をかけた兵士たちは英語のアルファベットが読めず、パスポートを見ても意味不明だったようだ。結局イポーニヤ(日本)という単語を聞いてあっさり去っていったが、少なくとも日本という国を知っていてくれて助かった。それにしてもロシア製鞄の威力はすごい、誰が持っても不法滞在者に見えるに違いない、と件のチェック柄布張りスーツケースは仲間内でも伝説と化した。
懐かしいディナモスタジアムは今では閉鎖されてしまったらしい。ここで本田選手が活躍する機会がなかったのは残念だ。
「それで自由は手に入ったか?」
答えは複雑すぎる、と彼女は言った。1991年の夏、ある人々は何かが大きく変わると期待し、一方では変わらないでほしいと願ってもいた。表現は確かに自由にできるようになったかもしれない。今も赤の広場でパフォーマンスは続く。「90年代以降私たちはたくさんの自由を手に入れた。イデオロギーに縛られない生き方、外国への旅行、今まで発禁だった本を読むこと、
確固たる地位を手に入れた現代美術。一番大きな自由は当局の監視から解放されたプライベートを手に入れたこと。そうはいってもまだ真価を問うには早すぎる。」
クーデター後のバブルを経て失ったものもあるが、ペルチヒナは今郊外のログハウスでスローライフをおくりながら活動を続けている。今が自由かと問われれば、答えはイエスだ。しかしそれはあのとき彼女が口にした漠然とした期待を示すものではなく20年の試行錯誤の末に自ら得たものであり、クーデターとはそれほど関係なかったのかも知れない。
今回の原稿は1991年から2002年までにロシアで撮影した写真をもとに、モスクワに絞って書いてみたが、ペテルブルクでのアートフェスティバルやダーチャ(田舎暮し)などでも奇妙なエピソードがたくさんあった。白黒フィルムの中の彼らは厳しい現実を辛辣な皮肉で笑い飛ばし、今も輝きを失わない。当時最新のポケベルでカンニングしていたあの友人は今どうしているか。あいかわらず旧式のエレベーターは半端なところで止まり、「マルコビッチの穴」は続いているのだろうか。
カメラを持っていくとしても鉛の袋はもういらない。それでもハルムスの世界はまだどこかにあるのでは、そんな気がしている。
桜井久実 (さくらいくみ) 彫刻家
1970 東京生まれ
1991 青山学院女子短期大学芸術学科卒業
1999 武蔵野美術学園彫塑科卒業
2004年までロシアへ10数回渡航、共同プロジェクトや展覧会で写真・映像・
造形などの表現活動を行う。現在、武蔵野美術学園非常勤講師(2005~)。
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