吉留 要 よしとめ よう (画家)
※美術運動141号(2014年3月発刊)
30年近い海外生活を終え、87年帰国した私は、久方ぶりの日本美術を、―丹念に―を心がけ見歩いた。
作品の多くは達者な技、高い完成度。見事だった。が、肝心の表現目標はあいまい。独自な“ 個”も淡く、心奪う作品は乏しかった。たまたま出会った針生一郎氏にそのままを話した。針生氏は「私もそう思う」と。まんざら私の独断ではなかったようだ。私にとって日本画壇は別世界になった。
帰国後、2年ほど経ち、請われて絵の教室を開いた。地元、埼玉県入間市の四,五十歳台の人、十数人が集まった。 道具を揃え,“絵”の模索が始まった。
「絵は本質的に教え、教えられるものではない。描く人の感性、思考を探り、作品化の手助けをする。」そう私の役割を決めて。
目に見える対象をいかにうまく描くか、空は青、木の葉は緑、、、小学校時代の教えを当然とする人たちと「感性はみな異なる。自分独自の絵を!」と話す私とは、いささかの困惑を含みながら教室は静かに続いた。時が経ち、幾枚かの絵が出来、私の話がうなずきを誘い、画面は変化を見せ始めた。創作とは、私も含め皆同じ“個”の探求だった。
農家の主人Oさんは、20数年“ひまわり”を描き続ける。この地に伝わる昔話、夕やみにたたずむ人影に似た沈黙の大輪。それを彼の深い心が捉え、映像化した。土俗性を芯に持つ複雑な心
理伝統を今も追う。いま彼は、画面の主体となるひまわりの中心に祈りの姿を象徴的に表わす。形式的世論に浮く人ではない。大震災後の、やむにやまれぬ自己表出とみた。 他の一人は写実
から抽象に変わり、別の人は写実を守り、それを越す絵を、と。また対象を色彩で捉えたい.等々、漠然とながら個に目覚めた存在は、しばしば私の脳髄を叩いた。
――私の海外へ向かう意志は、創作にゆきづまった50年代半ば、スペインの建築家A・ガウディにぶつかった時に芽。当生えた時の私は、美術界に根強く残る伝統的絵画遺産を拒絶し、戦争がもたらした狂気と残酷な現実を見すえ、未知の表現世界を目ざす仲間たちと交わりながら、試作と挫折をくり日返々すだった。
そんなある日、前出のA・ガウディが魂の安息所である教会を魔性を秘めた異形の巨大オブジェとして一人(個)で建てた、その写真を見たのだ。私は言葉を失った。「よし!この教会の前に立とう!」私はその望みを一先ず押さえ、二年ほどの曲折を経てスペインのバルセロナの港に立ったのは64年秋だった。
生活が始まり、週一度は聖的、魔的建造物サグラダ・ファミリア教会の前に立ち、独断的対話を自分に仕掛けた。全身に覆いかぶさる未体験の威圧感。このネオ・ゴシック形態は、他に類のないガウディ独自の幻想、創意の統一であり、私はその複雑な外壁面に宗教的、造形的“劇”を見たと思う。そしてさらにその劇から「細部と全体」というイメージを受け、私の創作的石原(個)となった。
――ある美術展で知り合ったセラ氏は大学で彫刻、美学を教え、街の美術教室の講師でもあり、穏やかな日本語には大変に救われた。誘われて訪ねた教室で「君の表現を」という言葉をかなり耳にした。「絵は自己表現でしょ。時々確認させるんですよ」「相互批評はさらに大切」「石膏デッサンは過ぎるとそういう物の見方しか出来なくなる」等々、日本の美術教育との比較を促される言葉が続いた。
その自己表現につながる制作法は79年から住んだニューヨークユダヤ系文化センターでの見聞に重なった。広い教室の中ほどで年配の女性が自らの背を越すキャンバスに、針ほどの細い
筆で画面下の方から絵を積み上げていた。上辺は白地そのまま。まったく気ままなその描画技法は私に不思議な解放感と笑みをもたらした。画面は草の中に立つ笑顔の幼女二人。爆弾で死んだ孫娘を描き続けていると聞いた。
ふと、“原爆の図”の作者、丸木位里さんの母。広島原爆で夫を亡くし、70歳過ぎてから絵を始めたスマさんが目に浮かんだ。描いた猫を「足の生えたナマコだ!」と孫に笑われたスマさんの暖かく独自な歪みを乗せた作品が、横山大観にあたえたという衝撃はなんだったのか。スマさんの全くの随意。“個”の描出だったに違いない。知、理、技の“原石”である。
私は、外地滞在中、直接作品に出会ったイタリアのA・ブリ、E・バイ、スペインのA・タピエス、その他心に食いつかれた作品は多い。が、今回は教室の人たち、二人の老女性の作画を例として、知、理、の原石である“個”について書いてみたかった。
今、人間によってめ痛つけられているこの地球、そこでの人間の仕業をこの人たちが描いたらどんな絵になるかな?―そんな空想も広げつつ。
吉留 要
島根県出身
1951~56 国画会、日本水彩画会へ出品
1955~59 日本、読売アンデパンダン展へ出品
1956 岡本信治郎,ヨシダ・ヨシエ等とグループ「制作会議」結成
1960 第4回シェル賞受賞
1963 サンパウロビエンナーレ出品 サンパウロ美術館にて個展
1964~94 各種国際展に参加 主にファーズ国際展連続出品
1982・1984 ニューヨーク ワーナーコミュニケーションギャラリーにて個展
1991 埼玉県立美術館にて個展
評論集「遠くのアーティスト・近くのアーティスト」出版
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河合 泰子 (木曜日, 08 9月 2016 12:59)
上野の科学博物館に行き、岩石の展示を見ました。宝石が含まれている岩も、川べりの石ころも一緒です。ただ、光によって別ものになってしまう。赤外線、紫外線、虫の視線、猫の視線。有機物に変容する。岩が身じろぎしてきます。
入間市の絵の教室は、地元の人たちの寄り集まりのはず、私の住む地区にも数多の絵の教室がありますが、皆地元の人たちですからとは思うのですが、時とともに変わりゆく各々の目つき、身じろぎする心の内、今はもう、広範囲から選りすぐった描き手の集団か、と目をこする有りようです。これは手品ではない、特訓でもありえない。
私は縁のもので、以前にシナリオを書いていました。口を酸っぱくして言われ、叩き込まれたことは観客の目でした。相手は普通の人なんだよ、わかるように。通じなかったら数(視聴率)が取れない、金にならないんだ。真剣になればなるほど遠ざかる。
この御寄稿を拝読して深く納得、願わくば今しばらくの寿命の延長を神様に願い祈り、自身の視線を文字に置き、立ち上がらせたいと。