※美術運動141号(2014年3月発刊)
昨年のヴェネチア・ビエンナーレに行って、色々なことを考えさせられた。しかしそれを充分に書く余裕はないので、特に印象に残る面の批評を述べたい。
新しい美術をリードする催しではもう無くなった
この催しは1895年が始まりとされ、昨年で55回目となる。かつてはピカソやモディリアーニなどの展示が物議を醸し出したこともあり、アートシーンの新傾向を示して来た歴史を持つが、100年以上経って年老いて来たようでもある。この老齢ゆえでもないだろうが、今日ではかつての様に新たな美術の呈示や前衛の拮抗の場を意図しない性格を持つことになった。それは、一つには今回の展示を仕切ったマッシミリアーノ・ジオーニの意図とも関係している。彼はこのビエンナーレでは最年少での総合ディレクターに選ばれた、1973年生まれでニューヨークを足場に世界で活躍するイタリア人で、2010年の光州ビエンナーレの芸術監督でもあった。彼が今回のテーマとした《百科事典のパレス》が全体の性格付けをする。ベネチア・ビエンナーレの組織がどの様な構成で、総合ディレクターがどのように決められるかについて私は詳しくは知らないが、展覧会カタログに本組織の総裁パオロ・バラッタは、数年前から現代美術のキュレーター達は芸術家と歴史の関係に関心を強めて、アーカイブ(過去の資料)なしに展覧会はありえないと考えるに至っていると書いている。この延長線上での今回の展覧会には、前衛美術的な作品としてもコンテンポラリーにこだわっていない。例えば1968年のハンス・ベルメール、1970年の
カール・アンドレ、デュアン・ハンソンの1983年、リチャード・セラの1985年、ブルース・ナウマンの1991年の作品なども展示されていた。
アートよりもイメージ、多様性
《百科事典のパレス》とは、マリノ・アウリッティという自動車工が1950年代に考案した人間のあらゆる作品を納める博物館構想で、その模型は展示されていた。それを表題としてジオーニは、美術に限らず色々な外的・内的イメージを展示した。完成作品よりも独白的に湧き出るドローイングとか絵日記みたいなものが注目されたり、アウトサイダー・アートやアール・ブリュットなどが取り上げられた。これは、美術史ではかつてアビ・ワールブルグ(1866-1929)が作ったムネモシュネ・アトラス(記憶地図。1999年に国立西洋美術館で、最近では2012年暮れに東大駒場で展示があった)と呼ばれる図像スクラップや、近年ではフランスの芸術理論家ディディ=ユベルマンが注目するイメージの探求を思い起こさせ、一定の美術理論家の研究と平行する方向である。またジオーニの見せる図像は、ドゥルーズの云うリゾーム(根茎的系譜)という形而上学的な論理体系によらない分布を繰り広げるものとも言える。展示された鳥類図譜的な写真集や動物の小粘土像蒐集やアマチュアが製作した模型家屋群や思想家ロジェ・カイヨワの石模様のコレクション、大竹伸朗のスクラップブックなどは世界を知るイメージの集積としてであろう。
中央展示館の入口第一室にジオーニは画像の詰まったユングの『赤の書』を展示した。この象徴は、ユングの言う無意識的な元型に注目しているためであるとされている。またその背後の第
二室には教育学者・神秘主義的な哲学者シュタイナーの黒板絵と呼ばれるものが数点掲げられていた。このように美術家だけでなく様々な人が作る形象を集めて、世界をイメージ的に捉える知の百科事典(ジオーニはそれは夢想だと悟ってはいる)が展観された。このようにアーティストと無名に近い人々や精神疾患者の表した形象を並列に並べる先には、“誰がアーティストである
か?”との問いがあり、さらに“何がアートか?”につながるだろう。またこの問いとも関連して、東西古今のイメージを混在させるのは、今日のグローバル化については、“均質化や同質化”ではなく、多種多様性が入り込む余地を訴えたかったようである。
社会性・政治性
次に、私が注目した展示に触れることにする。それは、ヴェネチア・ビエンナーレの出品作品のほとんどが、何らかの形で社会的、政治的問題意識を持って、リアリティーに向き合っていることである。
例えばロシアのヴァディム・ザハロフはギリシア神話から『ダナエ』と題した展示をした。その中心は、地階で傘をさしている人々の頭上に金貨が降って来る仕掛けである。(図1)その階に入れるのは女性だけで、男性は上から見物する。それは金をめぐる様々な意味を投げかける。カネと云えば、ギリシア館では、金額0の流通しているルピー紙幣やフランスのトゥールーズ市などで使われている補完貨幣などをパネル展示し、映像では鉄くずやガラクタを集めて生計を立てる青年、iPadで町を撮影する身なりの良いアーティスト、美術に囲まれてぼけた老婦がユーロ札で折る花束を撮影してお金の価値を問う三部が映される。パレスティナの作家は『別様な占拠(Otherwise Occupied)』と題して、来場者に段ボールを会場の野外の一角に積ませて場を占拠させていた。これら作品は、ロシアのオリガルヒ(新興寡頭資本家)や資本主義と女性への支配、ギリシアの経済危機、イスラエルのパレスチナ占領などを説明しなくても一般に表現の内実がかなり楽しく伝わる。このようにアーティストの社会的表現には、風刺やユーモアや工夫がある。
レバノンの映像作家アクラム・ザータリは、イスラエルのパイロットがレバノンで学校地区への空爆を拒否した話を展示している。爆弾と云えば、ハンガリーのゾルト・アスタロスの展示のタイトルは『発射されたが不発だった (Fired But Unexploded)』で、多数の不発弾の陳列(製造国も分かる)と映像である。(図2)これらも詳しく説明しなくてもその国の歴史や現状があまり美術的ではないが反映されている。グルジアの『カミカゼ・ロッジア』は、ポーランド出身のキュレーターがオーガナイズして若手アーティスト達が建てた。そこには参加した日本人アーティストもいた。カミカゼとはグルジアでかつて盛んに作られた仮設的バラックである。この作品にはグルジアの歴史的・社会的な表現があるが、参観者には分かり難いのに対して、彼らの一グループが行ったパフォーマンスは分かり易い。それは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の
礼拝のポーズを基にした踊りである。
ビエンナーレのメイン会場外の街中でも、諸作家が協賛的にあちこちで展示会をしている。例えば中国のジョーン・ビヤオ(Zhong Biao)の、ある教会での展示の入口には、「我々は、現代中国に於ける経済的、エコロジカル、文化的、政治的変化を如何に理解するか? 我々は、芸術の視覚的豊かさと複雑さを失わずに、如何に政治的でありうるか? 現代の変化がより深い歴史的で宇宙的な時間で見られると、何が起きているのか?...」と書かれている。
日本館
ところで日本館は田中功起が今回の代表とされ、彼のタイトルは『抽象的に話すこと―不確かなものの共有とコレクティブ・アクト』であった。3.11のことも示しながら(日本館の外壁にネオンで示された数字は、そこから福島第一原発までの距離など)、協同の行動を見せる画像や多量な説明文字があった。彼が言うには、“抽象化により遠くで起きていることが身近になる、この距離感、ここに「抽象化」の鍵がある”とのことである。確かに、芸術にも人間にも抽象化や間接性が必須である。しかしその抽象が核心的内実を捉えてアッピールする形象でなく、単に形式的な模擬なら表面的な抽象に止まり、内実の意義を表さない。日本の展示は、あまり美術的な様相はないし、分かり難いものだった。説明の文章を読みながら観賞すると、やや理解出来てくるが、形象表現が抽象的すぎてメッセージの伝達に乏しい。この難解さは、タイトルにある田中のコンセプトがそのまま出ているからであろう。そして彼は“曖昧さ”の可能性を主張するが、そのままでは閉ざされたままの感じしか残らない。
この展示と対象的なのが、フランスのリヨンでの第12回ビエンナーレ(2013年9月~2014年1月)に招待された竹川宣彰の展示だ。(図3)そこには「行き先知らぬ方向に進むガレー船は、無名の漕ぎ手達―それは奴隷にも似ている―によって推進されている」と表示されていて、『大知識時代のガレー船』(2012年に国立国際美術館でも展示された)を中心に、『核図島』という元素周期表と地図などを組み合わせた8メートルもある作品や『グローバルでローカルな世界への航海』と題された作品(日本中部の核地図)などが共に出品されていた。ガレー船では漕ぎ手として乗っている陶製の小人物群の背面が舳先で、そこには数門の大砲が並んでいる。その他の作品も工夫された表現で、ユーモアある楽しい美術作品となっていて、メッセージが良く伝わる。(http://takekawanobuaki.comを参照すると良い)
非ナショナリズム
最もラディカルな作品は、チリのアルフレッド・ジャーの展示だと思う。彼はこのビエンナーレのジャルディーニ会場の模型を作り、それを数分ごとに水没させて見せた。(図4)ジャルディーニでは、20世紀の初めから徐々に幾つかの国が自国の館を持ちそこで自国の代表作家に展示させている。しかしここに館を持つのは30カ国程しかなく、それ以上館を増設させるスペースもないので、1999年からはアルセナーレ(旧造船所)も他国などの展示会場になった。ジャルディーニ会場は主に列強の競う美術のショウで美術マーケットにつながる機能を持って来たし、その余韻は今も残っている。ジャーの展示は、過去の時代の権力構造に属するこの制度を批判しているのだと思う。ヴェネチア・ビエンナーレは、その中でその制度自体を否定する作品が自由に出品されるところが良い。国別の競合を皮肉った出品としては、10年前のビエンナーレでスペインのサンチアゴ・シエラが自館のスペインと云う文字を消したり、館の一部を塀で囲って、スペイン国籍の身分証明書を提示した人にしか入場許可しなかったことが思い出された。
このように、現代アートはかなり反体制的であることは、ビエンナーレに限らず世界・日本で認められることである。また自国の館の展示を他国のアーティストなどに任せたり、キプロスとリトアニアが共同で企画をしたり、フランスとドイツが館を交換して展示したり、さらにドイツはアイ・ウェイウェイ(艾未未)の作品をメインとして南アフリカやインドの作家の作品も展示した。このように現代アートは、ジャンルだけでなく国のボーダーを軽々と越えて行っている。
総合ディレクターの企画の検討
ジオーニが様々な形象を提示したのは、その出所が何であれイメージでの知の百科事典による可能性であり、それは何がアートで何がそうでないかの問いともつながっている。また彼は、「世界自体がますますイメージのようになって行く時、その世界のイメージを創造するポイントは何だろうか?」を問いたいのだと言う。
しかし、彼の意図が“認識の新たな道を開く”資料としての世界中からのイメージだとしても、それがユングの《赤の書》から発して行くのは(この本の絵自体はとても面白く、意識下のイメージへの注目を呼びかけるのは良いとしても)、元型といういわば形而上学的な固定した観念への連関を思わせ、齟齬がある。また、多様なイメージを提出して問いかけをしているのであろうが、あれこれ混雑した形象が呈示されても、混乱のままに止まる。訳が分からないものでは納得いくものはあまり無く、良いと感じるものも少ない。それらは可能性があるではなく、ただ迷っていると感じられる。それらは、錯雑した現実をただ写していて、鋭い把握や創造的な切り込みが大して見れない。ジオーニ自身が、この展覧会はfantastical(空想的、気まぐれ...)でdelirious(譫妄、錯乱的...)だと悟っている。でもこの語は、遊園地的な楽しさの語義(とても素敵、夢中になる)にも通じていて、ともかく祭りだとは言える。
上野一郎 (うえのいちろう)
1966年東京芸大修士課程修了。パリ大学留学。
1973~2005年金沢で大学教員。日本美術会会員
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