米良武子芸術の詩情

「公園にて」 米良武子  油彩20号
「公園にて」 米良武子  油彩20号

 詩情溢れる絵画はどういう要素からできているのか。分類・分析して実像に近づけるのか。美術史の中でそれらしい絵描きを挙げてみる。パウル・クレーは第一ヴァイオリンを奏でるコンサートマスターだった。オーケストラの団員達の奏でる音色を聴き分けつつ、彼らをリードした、その彼がバウハウスの学生達に課題を与えながら、自らもその課題の規範に乗りながら詩的絵画を制作した。与謝蕪村は芭蕉の継承者を任ずる俳諧師であり、漢詩・万葉集の研究者であった。蕪村の俳句には色の風景があり、暖かい俳画水墨画を描いていた。



米良武子芸術の詩情を把握できるのであろうか。その様な事を考えながら10月26日の午後、米良さんのお宅を訪れた。


 東武東上線沿線の造形グループが合同で沿展を行うが、或る時私がペーター・ブリューゲルの作品模写をしていると云うので講演を依頼され、講演の後、宴会になり米良さんと隣同志に座っ

たのが友達付き合いの始まりであった。日本美術家連盟の写生旅行では仲間の事を気遣いつつも、精力的に描き、気遣いと雄大な風景を前にしての自己探求は両立できる、それが詩情なの

かと思った。

「広州風景」 米良武子  油彩20号
「広州風景」 米良武子  油彩20号

 さて10月26日の対談で米良武子芸術の詩情を形成したものが少しは解った気がする。お父様が幼女武子の病弱の苦労をユーモアに置き替える育て方をしてくれたこと、師範学校に入れてくれたこと、そこで絵を描く喜びに逢い、色々な師に少しずつ習い、師の画風に染まりきらず、自分の描き方を貫けたこと、小学校教員時には児童と対等に喜び、悲しみを共有し、転勤の挨拶に先生と児童の大泣きに校長が困り果て2年後には先生は戻ってくるからと約束し、29年間同じ学校に勤めた事、生徒の一人は85歳を過ぎても病床の先生に食べさせたくてカステラを贈り続けている事等々、米良芸術の子供を含めた群像の情感の深さは戦前から戦後への教育制度が変わった事を物ともしない教員生活にある。肉親愛だけでない、子供たちへの共感である。旅行先で見掛けた親子の慈しみの表現にその旅に同行していない我々にも慈しみのお裾分けを感じられるのは慈しみを描いている時は本当に共感していたのであり、子供が嬉しそうな時は、私も嬉しいのよと語り掛け、市場で買物をしようとする小母さんの作品にも、私も買いたいと思っているからあのポーズで、あのタッチでと云う事になる。画面の中に人物が無くても、羊がいるだけで詩情を醸せるのは、羊の気持ちになって、頬を染めているからで、描き続けたキャリアは、それを何とも良い構図にしている。

 

 夕方になり慌てて休息に戻って貰ったがお疲れになったことと思う。米良芸術の何とも良い構成については研究を続けさせて頂きたい。


松本 幾代 (まつもと いくよ)


米良 武子(めら たけこ)
米良 武子(めら たけこ)

松本 幾代 (まつもと いくよ)

京都学芸大学卒

ベルギー王立美術アカデミー卒

日本美術家連盟 洋画会員