三人旅 Fragment 4

2013年4月18日~5月2日、シチェチンからピーワへ

今回の旅のポイント

  • チェルノブイリ原子力発電所事故から四半世紀(出発時)の東欧、特にドニエプル・ドナイ両大河流域とそれらが流入する黒海周辺の今
  • ヘルペス発症後悩まされ続けている後遺症回復のための治癒力をたかめる
  • 旧知の友(故人も)を訪問する
  • 俺のこの意識という物質「心子」(仮説)の構造の妥当な概念を構築する
  • 往復路でシルクロード北路を走破(1988年南路)する
デッサン・故カーシャさん
デッサン・故カーシャさん

タデウシ夫妻、とくに奥さんのエルズビェータは細やかに役所や業者との対応に力を貸して下さり、こうしていろいろ解決できて感謝の気持ちでいっぱいだ。故カーシャさんの墓はご主人の故ドウジィンスキー氏とは全く別な区画に作られた。さらに2年前再会できた、ローニアさんは認知症が進んでいたが彼女も昨年永眠(享年93才)した。カーシャさん共にミルバーナの様に生涯を終えた。大河オドラを渡り対岸で振り返ったシチェチンの街、この左目が痛く、辛く、目を限りなく瞬かせながら感慨無量だった。この想いを振り払うかのような声がすぐ右上の民家からかかった。一人のご婦人が手招きしていた。伺うと庭の窯でライ麦パンを焼いていた。この香りを嗅ぎつけてかカモメがたくさん頭上を飛んでいた。7~8人程ここでお茶を飲み乍ら談笑していて皆笑顔で迎えてくれてすぐにうちとけ質問責めに合った。シチェチンに永く住んだ話などで誰も興味津々のようだった。別れ際回された帽子に小銭とは思えない程のお金が集まりこのリズムの良さに感心した。大きなこのライ麦パン、蜂蜜ひと瓶と帽子ひとつお土産に戴いた。

 

旅では幸、不幸交互に現れるので注意しないといけないな、とこのとき思った。つまりゼロの原則があるからだ。この日は特に風の強い日で風圧が怖いと思っていた。右は5~6mの崖で加え

て未舗装の路肩が狭かった。車両の通過で風に弾かれて直後に戻される緊張感が続いていた。この時大型トレーラーに煽られて側道に落ちた。轍に嵌ったまま自転車を停める巾もなく走行し乍ら戻ろうとしたときに舗装部との段差に前輪を取られてアスファルト面に頭(顔面)から落ちた。ヘルメットのおかげでこの程度の怪我で済んだが、前述の120ズボッティフ(約4000円)もの寄贈金を戴いたばかりでこのゼロの理屈が頭を過ぎった。そして今、すでにピーワのイレク宅で怪我を癒してその傷口も少し回復している。痛みはまだ残るがこのまま瘡蓋になってくれるだろう。

 

イレクとは2年前出会ったがそのとき彼はランニング中だった。ことし4月20日ピーワマラソン大会で全国の走者400人中140番で完走しその記念メダルを持っている。数日前ここに着いたがヨーラはいなかった。彼女はその5日前に喧嘩して出て行ったきり戻っていない。その彼女は朝からビールを飲むようになり完全に「アルコール依存症」になってしまった。イレクの鼻の頭のひっかき傷はその時のもの。もう別れた。「終わった」!と言った。セルフォンもこちらからは通じないそうだ。飲まなければ申し分無しだ、と言っている。2年前ヨーラともここで再会を約束していた。さてここでこの家族の説明を少ししておこう。イレクの前の奥さんは彼の友人に奪われて離婚、2ブロック先に住んでいてこども二人の親権はそちらにある。ヨーラとはその後同棲した。この二人のキャラクターに俺は惚れ込んでいる。母親と暮らしている長男ファビアンは2年前より頭ひとつ成長した15歳、ボクシング36キログラム級ポーランドチャンピオン、長女アメルカ12歳で英語を一生懸命勉強中。さらに近所に住むメカニカのゼネクは従兄。夕方から雨も上がりみんな待ちに待ったファイヤーパーティをやることになり、枝打ちしてあった焚き木が庭に運ばれた。我々はビール、子供達はコーラ、菓子、音楽好きのイレクの好みはクラシック、ジャズ、ゴミ箱の上にタイヤ2個積んでバスケットボールのスローをやったりサッカーに興じたり、途中イレクの若い叔父のこちらの名もタデウシ、彼も来た。ほぼ燃え尽きた熾火にソーセージや魚など楽しいパーティになった。

久しぶりにビール、ボトカを飲んだ。イレクは相変わらずヨーラに電話をかけていた。俺はすでに5月1日に出発したいと話していて彼も同意してくれていた。

 

 

デッサン・故カーシャさん
デッサン・故カーシャさん

4月30日(火)灰の中にじゃがいも、ブラキ、リンゴ等入れて焼き、昨夜の余韻が残っていた。俺がいる間になんとかヨーラを連れてきたい、とイレクは言って電話していたがこの直後通じた。このときこの電話を受けとり彼女と直接話が出来た。昨夜遅くまで庭の花壇にすみれを100株余り植えていたイレクだったがその姿にヨーラを想う気持ちが痛い程判り胸を打たれた。彼は魚を買って「ヨーラを連れてくる」といってすぐに出かけた。これから叔母の所に行く予定を立てている。前回を含め訪問は3度目で2年前似顔絵も描いて差し上げている。

 

そしてイレクがとうとうヨーラを連れてきた。だれも笑顔、泪顔、なんという感激だろう。素晴らしい現実だった。大きな昼食用の鯉、そしてすみれをたくさん車に載せて総勢6人でトヨタカリーナに乗り30キロメートル離れたハストロービェの伯母の家に行った。タデウシはこうしたときはいつもお酒は飲まずに運転手になる。イレクはここでも暗くなるまでスミレを植えてい

た。ヨーラにこの2年間の旅の話を諄々と聞いてもらう時間はたっぷりあった。伯母は自分は座らずに最後まで立ち通して皆をすわらせて御給仕をしていた。

 

5月1日(水)出発をきょうと決めていたがイレクは再度、どうしても君を連れて行きたい所があるので「もう一日伸ばしてほしい」と涙を流すゼスチャーを繰り返して俺を困らせた。ヨー

 

ラが戻ってひと安心だ。イレクは重ねて「君のおかげだ」と言った。昼までにきょうこそ出発しょうと準備を始めたところ、ヨーラ、アメルカも涙ぐみ無言の圧力がかかった。さらにタデウシもやって来て説得されてここでさらに出発を一日のばすことになった。タデウシは孫の似顔絵を描いてほしいと写真を一枚持ってきた。この絵は今晩の仕事にしようと約束してイレク、ヨーラ、アメルカ、俺の5人でイレクのご両親の住むバウチに出発した。 

91歳の父90歳の母とも、昨日の妹さん(88歳)同様はつらつと若々しいのには驚いた。父親は鍛冶屋で現役、会ってすぐにフイゴに火を入れて金属片の加工を始めた。30分後立派な馬蹄2個ができた。タデウシと俺が各一個頂戴しこれを一対の足と考えるようで義兄弟の杯を腕を組みコーラを飲み交わした。ご近所に居る親戚の人が続々挨拶にやって来て、その都度ボトカの杯をあけた。夢のような楽しいひとときになった。昔も今もこの国は何も変わっていない。すごいな、抜群においしいキュバソを焼いて食べたりした。きょう俺を出発させなかった訳だ、誰もが敬虔な信者だがこのご両親の住む屋敷にある100年前に建てられた物置の壁に窓がありここに図案化されたガラス絵が幾枚も嵌めてあった。古びてなお美しい。生活の中にある、生きている伝統ということだろう。本当に見事なものだ。

 

帰路イレクは何と30キロメートルの距離を走り抜いた。この夜タデウシの孫の似顔絵を完成させ彼は礼の意味なのだろう140ズボッティフ(約4500円)もの大金を用意していた。彼のいまひとりの孫スターニ(音楽家志望12歳)が持ってきたポーランドの作曲家カルゴビッチのバイオリン交響曲「タトラ山脈」を全員で聴いた。俺がこれから向かうそのタトラやシロンスク地方そしてカルパティ山脈の自然や保護されている動物の話は誰もがこうして熱を帯びてくる。特にヨーロッパバイソン、ヘラジカ、コウノトリ、灰色オオカミなどであるが、国民的な誇りとコンセンサスを世代を超えて共有していることなのだろう。素晴らしいね。イレクは彼の友人でタトラの町ザコパネでペンションをやっているクーラントを紹介してくれた。このような縁がまさに「類が友を呼ぶ」ということだろう。タデウシは明日一緒に俺と同行したいといい出してすっかり本気然としてその支度で現れた。このピーワ最後の夜彼と床にまくらを並べて寝た。

 

5月2日(木)いよいよその日がやってきた。彼の娘がボズナニに住み、ブロツアフに妹がいた。ファビアン、アメルカもみな集まった。ヨーラもアメルカもずっと涙ぐんでいたが出発近くにはもう顔もまともに見られない程泣き腫らしていた。そんな中いろいろ用意したものが庭に並んだ。重量が嵩むばかりなので少しずつ減らして結局ヨーラから雨具のズボン、イレクから綿のズボン下、タデウシからバックと小型のヤカン、ヘッドライトそしてサラミ弁当のパン、イレク、ヨーラからこちらも弁当、俺の大好物ヨーラ手製のキショーナカプスタをひと瓶と歯磨きパスタ、これだけでも自転車は悲鳴をあげる程になった、後輪の荷の上にこのバッグがひとつ乗った。イレクとタデウシはこの俺の自転車に乗ろうと試みたが共に乗りこなすことはできなかっ

た。自転車は「腕と尻で漕ぐ」という理解は簡単ではない。彼等の写真も戴いた。出発直前ヨーラはカップにコーヒーを入れて部屋の窓辺に置いた。友は再びこのコーヒーを飲みに「訪れる」という意味だ。それぞれしっかり抱き合って再会を口々に約束して出発した。ところがピーワの街並みを抜ける辺りでタデウシの自転車は変速装置の不具合で早々に彼は断念した。

 

ピーワ―ブロッアフ間300キロメートルを途中ホテルに泊まり乍ら行き、帰り路は列車で戻る予定を立てていた彼は俺がきているのをせめて一週間前に知っていれば「準備できたのに」

と昨夜悔しそうに話していた。5キロメートル先で待っていたイレクと三人ここで最後の写真を撮り、ようやく出発となった。シチェチン、ピーワが終り次の目的地はオロウモウツの友人の画

家ラディスラフの所で、きのうすでに手紙(5ズボッティフ航空便)も出せた。しなの木、カエデ、カシタン等一斉に芽を吹き美しい新緑、咲き出した菜の花、野に立つコウノトリ、野太い声のペリリーチカ、そしてピーチク、ピーチクどんどん空高く50メートル程まで昇ったのではないだろうか、羽を両サイドにパッと広げてゆっくり下降する。15メートルくらいまで降りると斜めに急降下だ。なんと美しい姿なのだろう。ヒバリである。輝く程新鮮だ。今後当面前述のオロウモウツ、そしてスロヴァキア側から見るタトラ山脈の大カール(氷河跡)を越えて再びポーランドのザコパネ(クーラントのペンション)を経由してゴールリッツア辺りから先のビェスチャディ地方の灰色オオカミとの出会いは楽しみでもう胸がワクワクしている。その後、都合三度目の訪問となるウクライナを横断して東部カルコフ市の友アレックス宅を目指す。キエフ、チェルノブイリはその途中に位置する。

 

常盤 博 ときわ ひろし (日本美術会会員)



参照 

Fragment 1 日本美術会 会報124号 2013年

Fragment 2 日本美術会 会報125号 2014年

Fragment 3 埼玉平和美術会機関誌  2014年