《原爆の図》誕生の時代

1950年2月8日、東京都美術館で開幕した「第3回日本アンデパンダン展」。その第2室に、丸木位里・赤松俊子(のちの丸木俊)共同制作《八月六日》が発表された。


縦1.8m、横7.2mの画面に墨を用いて、広島郊外の三滝町から爆心地付近へ建物疎開に赴いた勤労奉仕隊の女性たちの被爆直後の姿を描いた絵画は、のちに原爆の図第1部《幽霊》として知られることになる。


当初、丸木夫妻は《原爆の図》という題で出品するつもりだったが、米軍の弾圧を恐れた仲間から「日本美術会が潰されたら大変だから原爆という言葉を引っこめて欲しい」という意見が

 あったために改題した。

 

会場で異彩を放った《八月六日》には、さまざまな反響が沸き起こった。

 

俊は、「観衆はひそひそと画面の前でかたりあい、激励の手紙が舞い込んだ。ラジオや新聞はおそれて黙していたが、口から口へとつたえられて、入場者が日をおうてふえていった」と回

想している。

 

観客から「誇張だろう」と批判も出たが、一人の老人が「誇張ではありません。わたしは広島の者です。ピカに遭いましたが、これどころではありませんでした」と、広島の惨状を説明した。さらに老人は夫妻に「この絵のなかから、わたしの孫や娘が来そうな気がします。だが、このくらいのことで原爆を描いたと思うては困ります。もっともっと描いて下さい。これはあんたたちが描いたから自分の絵だと思うとるかもしれませんが、これはわたしたちの絵です」と語りかけた。

 

美術界の反応はどうだったか。『美術運動』第10号(1950年2月10日発行)に掲載された合評会の記事では、嘉門安雄が「題材とはちぐはぐなものを感じる。人間のエロチツクなもの、グロテスクなものに興味を引かれるという点にうったえてくるのであの作品に魅力がある」と語り、岡本唐貴は「日本人にとっては厳粛な事実であるテーマととつくんでいるがエロチツクなものになって題材をけがしている」、林文雄は「ディテールの真実にとらわれてしまって、そこから出てくるヒューマニスチツクなうめきというものがない」、大塚睦は「戦争が終っても次の戦争に対処しようという人々ではなく、盲従してしまうような人々を描いている」という具合に、厳しい批評が多く見られる。

 

同じ日本美術会の機関誌『BBBB』第5号(1950年4月1日発行)では、土方定一が「『八月六日』は、尨大な画面に群集をS字型の構図に入れていて、私にクールベの『オルナンの埋葬』の同様のS字形の構図を思い出させた」と言及しているのが興味深い。

 

同誌の「印象(アンケート)」欄では、多くの評者が《八月六日》を取り上げ、強い印象を与えたことがうかがえる。とりわけ、原爆投下後の広島に入った劇作家の八田元夫が「八月の広島を知っている私は、あれ以上にグロテスクな悲惨な姿を見せつけられた」と答えているのは印象に残る。

 

実は原爆を絵画に描いたのは、丸木夫妻が最初ではなかった。

 

二人が《原爆の図》制作を決意したと回想する1948年には、シュルレアリスム風の作品にキノコ雲を描いた古沢岩美の《憑曲》や、原爆ドームの見える風景を描いた福井芳郎の《ヒロシ

マ》、ピカソの《ゲルニカ》を思わせる山本敬輔の《ヒロシマ》が発表されている。

 

夫妻がこれらの作品を見ていたかは不明だが、俊は1950年10月に行われた壺井繁治との座談会で「原爆といえば雲がむくむくでているとか、焼跡だとか、『長崎の鐘』でもお祈りするだけ

だ。それより人が死んだということがつらいし、癪にさわるという気持ちもあつて、どうしても人間のみを描きたいとおもった」と発言し、同10月6日付『中国新聞』の記事では「映画でも絵画でも雲がモクモクと出ているのが原爆であるというような軽々しいあつかいをしているのが気に入りません」と答えているから、少なくともいくつかの原爆表現を目にして、その違和感を

《原爆の図》へつなげていったのは確かだろう。

 

今でも原爆と言えば、多くの人はキノコ雲を連想する。しかし丸木夫妻は、その雲の下にいた人間に焦点を絞り、肉体の痛みを描いた。

 

占領軍が原爆被害の報道を検閲していた時期に、“最初に原爆を伝えた”歴史的意味は大きい。1950年は朝鮮戦争がはじまり、「第3の原爆」の使用への危機意識もあった。《原爆の図》には、広島・長崎を記憶する「過去への想像力」と同時に、これから起こりうるかもしれない「未来への想像力」も注ぎ込まれている。

 

半世紀以上の歳月が経過した2015年夏、《原爆の図》は海を渡り、「戦勝70年」に沸く米国の首都、ワシントンで展覧会が開催されるという計画が持ち上がっている。

 

最初の《原爆の図》が描かれた1950年と比べて、核の脅威はむしろ世界的に広がり、私たちはいまだ「未来への想像力」を必要としている。

 

目に見えない核の脅威を、私たちはどう想像するか。その第一歩として、《原爆の図》の芸術の力を今、あらためて見つめ直したいと思う。


岡村 幸宣 おかむら ゆきのり


原爆の図 第1部 《幽霊》 1950年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m
原爆の図 第1部 《幽霊》 1950年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m


岡村 幸宣 おかむら ゆきのり

1974年東京生まれ

2001年より原爆の図丸木美術館学芸員

著書に『非核芸術案内』(岩波ブックレット)

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コメント: 1
  • #1

    松林良政 (火曜日, 29 3月 2016 14:02)

    公開時の題が慎重に選ばれ(8月6日)だったとは知ら無かった。日本アンデパンダン展での公開時の反応が生き生きと感じられました。画家いわさきちひろ氏の先生が赤松俊子さんらであり、池袋のクロッキー会での苦労話などが残っている。お互いにモデルをしあったという。人体画での苦心が原爆の絵画に反映していることは間違いが無いのだろう…。