神奈川県立近代美術館鎌倉本館が果たすべき役割と可能性についての探求

はじめに

 神奈川県立近代美術館は1949年に県在住の美術家、学者、評論家たちが集い、第二次世界大戦後の混乱と再生の時代に文化芸術の指針を示す活動の必要性を感じて美術館建設を目指し神奈川県美術家懇親会を設立、51年10月に開館した。副館長に美術批評家の土方定一(1904~80)が就任する(65年から80年まで館長)。66年に新館と別棟を増築し、現在の姿となる。設計は坂倉準三。84年、主に常設をする鎌倉別館開館。設計は大高正人。美術館に対する社会的な要請、一層増大するコレクションの収納、大型化する展覧会への対処など様々な必要に迫られ佐藤総合計画による設計作業を経て、2003年に葉山館が開館した。(『日本近現代美術史事典』東京書籍/2007年、『神奈川県立近代美術館40年の歩み展カタログ』神奈川県立近代美術館/1992年)

 2007年から新館は、耐震性が問題となり今日に至る迄閉鎖されている。2012年3月、神奈川県は県の財政難を理由に県緊急財政対策本部(本部長・黒岩祐治知事)に助言する外部有識者調査会、神奈川臨調を立ち上げた。2012年5月27日に開催の第二回会合で、県立図書館、県立近代美術館など県民利用施設107箇所、保健福祉事務所など132の出先機関、15の社会福祉施設(学校と警察を除く)を対象に「三年間で原則全廃する」方向を打ち出した。2013年2月18日知事会見「緊急財政対策の取組状況」によると近代美術館の調整方向は「鎌倉本館を廃止し、葉山館及び鎌倉別館へ集約化」となり(大山奈々子・宮田徹也『オピニオン 神奈川臨調を考える―芸術を生み、育む側から』新かながわ社/2013年)、この方針に今日にも変更はない。

 

 新かながわの取材によると「2013年2月18日発表の「平成25年度当初予算」では「200億円の財政不足」としていますが、同日発表された「平成24年度補正予算」では122億円の基金取り崩し中止による繰り入れ、300億円の新たな基金積み立てが記載されており、422億のあらたな貯金」ができている」(同上)ことが明らかになっている。確かに神奈川県立近代美術館本館(新館と増築した別棟を含む/以下、鎌近)は鶴岡八幡宮との借地契約が2016年までであり、その後の契約更新はないことが前提となっていた。しかし、今回の問題は借地権よりも神奈川臨調の一環であることを更に強調する必要がある。それにも関わらず、大手マスコミは神奈川臨調の存在を明かすことなく、鎌近側も展示の有効性を唱えない。それどころか美術館としての機能を停止し、建物は補修して残すとしても鶴岡八幡宮の博物館にしようという動向が明るみになってきた。鎌近は美術館であることに意義があり、思想を骨抜きし形骸化した空間になっては、単なる近代の遺物にしか過ぎなくなる。それに加担している李禹煥が、今年度の「神奈川文化賞」

を受賞していることに政治的癒着が感じられる。

 

 今日、日本の公立美術館は危機に直面している、MOMA(ニューヨーク)、テート(イギリス)、ポンピドゥー(フランス)といった「先進国」の現代美術館では中国も含むオークション

とマーケットの動きを前提に、何億もの破格の値段で取引される「商品」を「現代美術」に掏り替え、自国を含むヨーロッパ、アジア、アラブのコレクターを「文化とは大金で買うものだ」と

洗脳している。すると貧民が追従するという権威志向が増徴される。日本で唯一この方法を用いているのが、森美術館である。県、市、町から予算が下りない施設など、「世界的」な動向

から見て「美術館」ではないのだ。これは単なるアメリカ式資本主義の発想であり、現代美術の根底に届いていない。この論考では、鎌近における現代美術の展示の可能性を探る。

 

鎌近における展示の可能性

 あらゆる権威を振り払う現代美術は、時空をも問題としない。その為、展示空間の大きさなど関係がない作品が続々と誕生する。土方定一は既にこの事実を知っていたのであろう。

「博物館、美術館は過去のためにあるのではなく、現代の我々のためにあるので、まして現代美術館となれば一層現代の人々のためにあることを忘れるわけにはいかない」(「現代美

術館への注文」朝日新聞/1951年1月17日)と、土方は美術館とは「近代を補完する場所」ではなく「現代人のための現代美術」でなければならないことを意識していた。結果、鎌近は「近代」美術館となったとしても、土方の頭には「現代」が片時も離れなかったのではないだろうか。すると土方の言う「近代」とは「現代」のことを指すことが理解できよう。「近代に影

響のあるものは古代のものでもいいんだ」(井関正昭『点描近代美術』生活の友社/2012年/25頁)という土方の発言は、近代=「現代美術」を意識していることを証明している。

 

 1950年代の展示風景を写真で見ると、そこには戦前=日展の作品の権威を強調する為に壁一杯に慄然と作品が並ぶ展示ではなく、奇抜で、現代美術に相応しい作品の飾り付けが為されている。「集団58野外彫刻展」彫刻室構成等、今日の展覧会かと錯覚する。「田辺至・中村岳陵・木下孝則自薦展」ではベニヤの衝立に作品を飾るという、今日でも考えられないほどに、現代美術的な展示方法である。「世界のガラス展」は、バウハウスの硝子を意識したのであろう。結界を引いて椅子に座って見るという、とても我々が認識している「美術館」の展示ではない。作品そのものと向き合うことしか考えていない、作品と作者と美術館の権威を取り払った、正に現代の展覧会であった。

 

 鎌近の外見のみが重要視されているが、このような発想を用いれば、展示室の素晴らしさが浮彫となる。鎌近は今日で言うオルタナティヴ・スペースの先駆けであり、それ以上に、当然、ホワイトキューブ以上の作品そのものとの対話を重視しているということができる。オルタナティヴ・スペースとは以下のように見解されている。「「多目的空間」。読んで字のごとく、美術作品専用の空間である美術館や画廊と異なり、必ずしも狭義の美術には当てはまらない作品発表や活動が可能な展示スペースのこと。美術史的には、1969年及び70年にマンハッタンのグリーン街98番地と112番地に登場した非営利目的の小ホールが最初の「オルタナティヴ・スペース」とみなされている」(暮沢剛巳「webアートスケープ現代美術用語辞典 1.0」)。

しかし現代美術は時空を問わず、それに伴う現代美術の在り方は常に再発見され更新される性質を持つので、美術館→ホワイトキューブ→オフミュージアム→野外展→オルタナティヴ・スペースという発展史観は通用しない。何よりも注目したいのは、土方が「ニューヨークの現代美術館と性格の異なる」(前出「現代美術の注文」)美術館を目指していた点にある。つまりMOMAが導入したホワイトキューブを参考にしない展覧会を目指していたことを更に探求する必要がある。

 

 このような視線を注がなければ、鎌近の建物の思想を理解することが出来ない。鎌近が近代美術を展示する場所であると思い込むと、鎌近の展示室が持つ現代美術の空間を生かすことが出来なくなる。現代美術をただ展示すればいいという問題ではない。はじめから鎌近を、現代美術を展示する場所として現代美術を展示すれば、その効力が絶大に発揮されることであろう。


 土方が満足したとしても、それでも坂倉準三は追求を続けた。展示室を更に広げるために新館を増築したのではない。本館を抜け、小さな橋を伝い、新館に入ると天井高の展示室が待っている。まるで螺旋を昇るように階段の流れに身を委ねると、空中庭園のような小さな展示室で作品と向き合うことになる。それは池に浮かぶ美術館の印象をより強めている。階段を降りてショップを通り過ぎて再び本館と向き合い、美術館を後にした記憶と体験がまざまざと蘇る程に印象的だ。これは展示室の増加ではなく、体験の完結を目指していたと解釈することができる。


 坂倉はこの体験のみを重視したのではなかった。水沢勉は以下のように指摘する。「海から連なる参道は、鶴岡八幡宮の鳥居を経て、舞殿を通過し、本宮に到達します。その参道の軸を僅かにずらして、美術館は位置しています。ここに、建築家・坂倉準三の品位を感じます。1951年に完成した旧館から、坂倉最晩年の仕事である66年の新館完成まで、坂倉は神奈川県立近代美術館の倉庫の高さを含めて全て、鶴岡八幡宮を含めた鎌倉の景観を考慮に入れながら、総合的な建築デザインを行ったのではないだろうかと、今更ながら気がついたのです」

(「新かながわ」2014年3月2日)。坂倉にとっての鎌近は、新館を含めてはじめて全てが実現されたことになる。


 鎌近を今日の博物館法で捉える必要は全くない。青木茂が指摘するように「空調、エレベーターなど、当時は存在しませんでした。今なら雨露をしのぎ、空調を整えることは僅かな予算で出来るはず」(「新かながわ」2013年12月1日)なのだ。鎌近閉館問題は、博物館法と文化財保護法自体を見直す機運でもある筈だ。


 全国に公立美術館が揃った今こそ、「現代の人々のための」「現代美術館」のあり方を検討すべきなのである。日本において美術館はこれからはじまるのだ。


鎌近1950年代展示風景(『神奈川県立近代美術館 40年の歩み展』カタログ 1991年100頁から転載).
鎌近1950年代展示風景(『神奈川県立近代美術館 40年の歩み展』カタログ 1991年100頁から転載).

おわりに

 鎌近はこれからの美術館の役割と可能性を示唆している。上記の考察を経た上で私が提案したいのは、法律を見直し、現在閉鎖されている新館を補修して1966年の姿に戻し、空調、エレ

ベーターを整えた、神奈川県立近代美術館本館拡充である。日本における美術館の歴史はまだ始まっていない。様々な探求が不可欠となる。現代美術作品も次々と押し寄せている。現代美術が「発見」されて僅か100年、鎌近が整ってから50年も経っていない。鎌近は、まだ役割を果たしていないのだ。我々人間は、人間である自由と尊重を回復し、本来の姿へ戻ろうと努力しな

ければならない。それと同様に、鎌近が果たすべき研究の役割と展覧会の可能性を探る努力を怠ってはならない。

 

宮田徹也 みやたてつや

宮田哲也 (みやたてつや) 

1970年生まれ 日本近代美術思想史研究

美術評論 ダンス評論