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第5回福岡アジア美術トリエンナーレ2 0 1 4 を取材して

デチェン・ロデル
デチェン・ロデル

今から35年前(1979年)福岡市立美術館が主催したアジア美術の紹介をかわきりに、福岡がアジア美術の交流の拠点という思潮が高まり、1999年3月アジア美術館が開館するまでに、様々な海外との交流活動が行われて来た。アジアのすべての国々を網羅するネットワークは、学芸員自身の足を使った取材はもちろん、若手外国作家を園内に招いて長期滞在させ作品制作・交流を通じて作り上げた200名を超える芸術家とのつながりなど長年の積み重ねによって実現している。


アジア美術館の場所は、福岡市天神とJR博多駅との中間に位置する博多のど真ん中。「博多リバレイン」という博多座を包含する巨大な複合ビルの7 ・8 階にある。福岡市の保有する二つ目の美術館(日本唯一?) である。

レポート: 御笹更生(日本美術会会員)


今回のトリエンナーレ2014 の注目点は

「未来世界のパノラマ・・・・・ほころぶ時代の中へ」

 

今回の芸術監督・学芸課長の黒田雷児氏は、解説文の冒頭で、あっさりこう記す。

《人間精神の至高の自由にもとづく芸術家の活動というものは、必ずしも直接的・即自的に時代の要請にこたえる必要はなく、むしろいかなる政治家や学者や企業人も看過した時代の深層と地域の底流を掘り起こし、そこで発熱を始めているマグマを日常に噴出させることで、次の時代を予見し、現代人の精神を覚醒させることこそが芸術家の責務なのである。》

 

また、この福岡アジア美術トリエンナーレは、他のいかなる国際展でも無視されているアジア各地の新しい動向を世界に先駆けて紹介する点で、徹底したローカリズムにもとづいていると強調する。しかし、すでに著名になった人や技術の高さ、誰にもまねのできない特異な技に注目したわけではない。むしろ、簡単な手法ではあるが着眼の鋭さ、思い切り大胆な素材、シンプルではあるが素直に心を引き付ける表現などなど視点は広い。ここに展示された作品に共通して言えることは、思いの深さであろう。

 

ローカリズムという言葉は、黒田氏との接見で一層明瞭になった。グローバリズムとの対比で使っているわけだが、日本を含む西欧やアメリカなどの先進国の美術は確かに高度に進化していると思われているが、その技術の高さや質は、それらの国々の政治・経済や伝統文化を基礎にしたものであり、これもまた‘先進国’というローカルな問題をはらんだ表現であるともいえる。ではグローバリズムとは一体何か?という疑問も生じるが、一律に当てはめるような世界基準があるとすれば、そのような《グローバリズム》には決然と対立している。それぞれの国・地域には、その地に生活する人々の暮らしがあり、その生活感情を基礎にした独自のユニークな表現こそローカリズムの原点であるというものだ。

 

この観点からアジアの国々を見つめるとき、今を生きる時代のほころびの中に新しい時代への胎動が感じられる。その広がりを「未来世界のパノラマーほころぶ時代の中へ」と表現したのであろう。まことに見ごたえのある35点に及ぶ作品群であった。

 

目を見張るストレートな表現

アジア21ヵ国・地域から呼び集められた若手作家の作品の選考は、権威主義的になりがちな選考委員会には依らず、アジア美術館学芸員による徹底的な検証によって選ばれた。絵画・彫

刻・映像・アニメ・絵本・映像インスタレーションなど幅広い。

 


例1 )『 仏教蟲』

エントランスホールで、出迎える朱赤色の巨大ないも虫頭部には、このインスタレーション作者が這入り込み、無表情にこちらを見つめている。しっぽには別の人が這入り両足をのぞかせ

てもぞもぞ動いている。30メートルもあるこの虫、どこにでもあらわれる。レストランの客席の中。海辺の船に絡みつく。廃屋の中から半分姿を現していたりする。多分見た人はぎょっとす

る。

 

会場展示では、実物と様々なインスタレーションの場面が映

像や写真パネルで、展示されている。

 

アメリカからの帰郷作家である女性は次のように言う。「このプロジェクトはユーモアとパフォーマンス、SFを組み合わせた私の人格、そして、日常的な文化に対する私の愛情を反映したものであり、日常を超越する瞬間を作り出すものである。」

アニッダ・ユー・アリ 女性 (カンボジア)

アニッダ・ユー・アリ
アニッダ・ユー・アリ

例2 )『 幸せの証明書を探して』ショートフィルム

諸外国では紹介されないブータンの映画。10代の女性がビデオカメラをたずさえて、シングルマザーで、ある母親の夫、つまり自分の父親探しに尋ねまわる。


カメラを向けていきなり「あなた、私のお父さん?」という問いを投げかけ、その反応を探りながら映像を記録してゆく。画家や医者、企業家…。その動きを知ってある日母親は、ある男性から’から得た彼女の《出生証明書》のコピーを彼女に渡す。その男性が本当の父親であるかどうかはわからない。


それがなければ彼女は‘幸せの国ブータン’で生きてゆくための市民権が得られないからである。

デチェン・ロデル 女性 (ブータン)

デチェン・ロデル
デチェン・ロデル

例3 )『 祖国の風景シリーズ』スライド

風化してゆくベトナム戦争の惨禍を記憶してゆく映像。100枚を超える場面を次々と映し出す。そこに登場する人々は、何かを指さしている。それが何であるかは、あえて何も語らない。暗日食である。表情が真剣であるだけにそこに潜む何か重い現実を感じさせる。

グエン・チン・ティ 女性 (ベトナム)

グエン・チン・ティ
グエン・チン・ティ

例4 )『 ファッション雑誌のコラージュで描く絵画』

都市に生きる女性の消費欲などの問題を表現作者本人の言葉が最も作品のテーマを伝えている。

「コラージュは、私の作品とモンゴノレ社会のイメージを結ぶ簡潔な方法だと思う。だから、私は新聞や雑誌写真の切り抜きといった要素を組み合わせる。ホームレスの子供たちとその不確

かな未来。厳しい生活状況を体験するシングルマザーたち。私は作品で、これらのテーマについて取り上げ、描こうとしている。このような問題のために作品を作るようになり、悲しいことが私の感情に訴えてくる。


私はかつて女性の美しさだけを考えていたが、女性が脆弱なものであることに気づき、考えが自然に変わっていった。女性たちはきれいになりたいと考えているが、結局のところ、似たような見た目になり始める。これらの作品は、美しくなりたいという欲求が、実は勘違いと苦痛だらけのもので、自分を痛めつけるものだということを現している。これらは、美しくなる過程の醜さや痛めつけられ傷つけられた肌、痔ができ、おかしな位置の瞼、そして切り裂かれた頬について語る作品なのだ。


私の作品の中の女性たちは、楽しんでいるように見えるかもしれないが、そうではない。私はコラージュ作品で、壊れた魂のようなものを強調したい。

ダドュザ、グデ、イン・ナンディン・エルデネ 女性 (モンゴル)

ダドュザ、グデ、イン・ナンディン・エルデネ
ダドュザ、グデ、イン・ナンディン・エルデネ

例5 )『 自分の髪で目・耳・口を覆った自画像が乱立する巨大な写真モンタージュ』

コロンボ内戦後、修復困難な宗教と民族の亀裂の狭間に立つ自分。


30年にわたるスリランカでの戦争が、2009年に終結した。この戦争は、北部のヒンドゥー教徒である《タミル・イーラム解放のトラ》と、南部のシンハラ人仏教徒の間で、戦われたものだっ

た。戦後の復興は北部の風景を物理的・社会文化的に変え、次第に強まる抑圧がタミルの人々に喪失感と絶望をもたらした。


作者は、仏教徒であるが、紅白の短い着衣はヒンドワー寺院を暗示している。


背後の風景は、道路拡張のために破壊されたヒンドゥー寺院を表している。北部の大学で教鞭をとる作者は、言い知れない矛盾をこの巨大な合成写真にぶちまけたのであろうか。

プラディープ・タラワッタ 男性 (スリランカ)

プラディープ・タラワッタ
プラディープ・タラワッタ

最後に・・


35点の中のほんの一部を紹介するに過ぎないレポートになったが、世界的にも注目されているアジア美術展には、やはり外国人鑑賞者が多く訪れていた。福岡~アムステルダム直行便の空路が開かれたこととも関係ありそうだ。ともあれ、これからの日本の将来にとってアジアの中の日本であることを忘れることを忘れることはできない。その意味で芸術の世界で我が国が‘先進国’などとのぼせ上がっている場合ではない。