石垣榮太郎展を見て

※美術運動141号(2014年3月発刊)


 2013年9~月130日月20日まで、生誕120年記念石垣榮太郎展が、和歌山県立近代美術館で開催されました。前回が1997年で16年ぶりの回顧展とのことです。また、今回の展覧会では、石垣榮太郎が画家になることに大きな影響を与えた。ガートルド・ボイル(彫刻家)の作品が太地町の石垣記念館に残されていたことが確認され、その作品が展示された事も特徴となっています。それと、膨大な数のデッサンが画像で見られるよう配慮されていたことも、関連資料が順次整理されている事を示しています。デッサンが彫刻家の対象を捉える方法に似ていると感じたのは、絵画を学び始めた時に、先生であり恋人となって駆け落ちまでした女性の影響によるものだろ…うと、勝手に納得しました。会場には在米中に交流のあった、浜地清松、澤部清五郎、ヘンリー・杉本、野田英夫、国吉康雄、等の作品も並べられていて、当時の出品目録や諸資料とあわせ、石垣榮太郎の活動全体を概観出来る展覧会でした。

 展示作品には、これまでに幾度か眺めた作品がありますが、代表作である「鞭打つ」が参考として、写真版での展示だったのが残念なところでした。「腕」とか「「街」、あるいは「キューバ島の反乱」といった、作者の仕事を見ると、20世紀初頭に澎湃として起きた労働運動や民衆

の権利闘争、独立運動などへの強い共感と、ファシストへの怒りなど、社会的テーマとメッセージが一貫していることは、すでに諸方面から指摘済みのことですが、同時に彼の絵には間違いなく20世紀初頭のアメリカの市民社会の一面が反映されていて、それゆえに今日においても魅力を失わないのではと思います。


 石垣榮太郎は和歌山県太地町に生まれ、15歳の時に(1909年)アメリカに移民として渡り、働きながら絵を学び、31歳で画家として認められ1951年57歳の時、逮捕され日本に強制送還されました。この間、2つの世界大戦と社会主義運動を体験し、激動する世界のなかで作家としてかかわってきました。改めて、石垣榮太郎が活躍した頃のアメリカの状況をたどってみますと、第一次世界大戦後のアメリカの資本主義経済は大きく発展しました。しかし物価はどんどん上がり、シアトルや、ボストンなど、数十万人規模のストライキがあり、1917年のロシア革命を見て、労働者運動は大きく盛り上がります。これに対して、支配者側は「赤狩り」を行い、アメリカの恥部と呼ばれる「サッコ・ヴァンデッテイ事件」(1920)が起きます。2人は1927年に処刑されますが、この抗議行動には、ロマン・ロラン、アインシュタイン、始め著名な作家・科学者、芸術家がメッセージを寄せま。ベすン・シャーンもこの事件を素材に連作をはじめます。石垣榮太郎も綾子とともに抗議集会に参加しますが、彼の社会的活動は、1916年に片山潜がニューヨークに来たことと無関係ではないようです。以後、1925年頃までは作品制作よりは社会主義的活動が中心であったようです。石垣綾子は後年、思い出の中で「多くの芸術家が、芸術とは社会から離れた書斎やアトリエに引きこもっていて生まれるものではなく、民衆のうねりの中に身を置いてこそ真に価値あるいいものが出来る。と自覚しはじめるのです。私はそれらの人たちを見つつ、目が洗われるような気持ちでした。(中略)この事件ぬきには、1930年代の芸術・文化運動の高揚も、ニューデイールも、反ファシズムの運動も語れないと思います。」と書いています(愛と自由への飛翔、1980、一光社。刊 )


 時間が前後しますが、1925年に「鞭打つ」が「第9回独立美術協会」展に出品され、これが当時のマスコミに注目されて、石垣榮太郎はアメリかの美術界で本格的に作家として認められます。(この独立美術協会展はフランスのアンデパンダン展にならったもので、デュシャン、ピカビア、ジョンスローン、などが1916年に結成)、「拳闘」が同年、以後「二階付きバス」(1926年)「失業音学家」(1928年)「腕」(1929年)と発表が続きます。


 1927年に、田中訪綾ね子てがきます。この時、榮太郎は別の女性と結婚していましたが、周辺の猛反対を押し切って二人は2年後の1929年に結婚します。このことは、今日の石垣榮太郎の評価に決定的な影響を持っことになります。ともあれ、この年の10月に大恐慌が起き、二人の耐乏生活がはじまります。「二階付きバス」は一度買い手がつきながらキャンセルされますが、その理由は株が暴落した為でした。(このあたり、先のリーマンショックを想いださせます)かくして、絵は全く売れなくなり、絵画以外のアルバイトで生活を維持しなければならなかった。そんな中で、「ジョン・リードクラブ」が結成され、ここでの活動の中で、リベラや

オロスコらメキシコの作家との交流もはじまっています。


 当時のアメリカでは1500万人を超える失業者がうまれ、政府はこの救済政策をはじめます。1933年に入り、ニューデイール政策が軌道に乗り、芸術家への救済事業が行われます。石垣榮太郎にも壁画制作の仕事が回ってきます(この仕事は後に破壊されますが、下絵の一部が展示されていました)


 その頃の日本は1931年「満州事変」を起こし、中国との戦争を拡大していきます。それはやがて1941年の日米開戦へとつながり、在米日系人の排斥へと展開、さらに日本の敗戦後に起きたマッカーシズムによって、二人は日本へと強制的に送還されました。「激動の時代に翻弄された画家」という石垣榮太郎への評価がありますが、スペイン内乱やメキシコ独立運動に共鳴し、佐野碩のメキシコ亡命の手助けをしたり、日本の中国侵略に抗議して、反戦活動とともに中国への支援を表明したり、妻であった石垣綾子とともに人生の最も輝かしい年齢をアメリカで過ごし、A・スメドレー、パールバックをはじめとした、多くの文化人と交流し、社会的に虐げられた人々の立場にたって絵を描き、活動した時間は、一番きらめいていたのではないのでしょうか。そんな中で起きたスターリンによる反対者への粛正事件は、社会主義への幻滅を生み、制作内容に微妙な変化をもたらしています。日本に帰ってからの石垣榮太郎はほとんど制作をしていませんが、そこにはソビエトで起きた事件が陰を落としているのかも知れません。ただし、彼が間違いなくアメリカで育てられた画家で、日本の画壇に肌が合わなかったとも、考えられます。


 石垣綾子は「アメリカでそだった日本人画家に共通したことであるが、彼らは皆一様に貧しい移民として社会の下づみでさまざまな労働をし、そこから画家として自己を確立していった。パリで学んだ日本人画家とはこの点が決定的に異なっている、パリの日本人画家たちは、最初から画の勉強を目的にしてパリへ向かった。パリで学んで日本に帰り、名をなそうという目的を初めから持っていた。榮太郎をはじめアメリカの日本人画家たちは、みな生活の中から絵を描かずにはいられなかったのだ。国吉康雄も同様である。そのことがこれまでの日本にはなかったテーマ、方法を創造することにもなったのである」(「海を渡った愛の画家 石垣榮太郎の生涯」お茶の水書房、1988刊 )と書いています。少し長い文章を引用しましたのは、和歌山県の南紀という土地が生む気質についてふれたかったからです。南紀地方は海山がせまり耕作地は少ない.。住人の多くは古くから太平洋へ船をこぎ出し、海外で一旗あげて「故郷に錦を飾る」ことが男の誇りでありました。串本町周参見に「恋人岬」という場所がありそこの銘板にハワイやロスアンジェルスまでの距離が刻まれているのも、そんな気質の表れでしょう。ただ、石垣榮太郎の記録をみますと「故郷へ錦を飾る」気持ちがあまり感じられません。代わって「錦を飾った」のは石垣綾子でした。彼女は自由学園で大山郁朗などの影響を受け、女性の自由と自立の道を生涯貫いた。石垣榮太郎も女性の持つパワーについて語り、女性の戦う姿をテーマに作品を制作しています。この点で二人には共通の認識があったようです。余談ながら,石垣綾子が学んだ「文化学院」は和歌山県新宮市出身の西村伊作によって創設されました。西村氏の叔父、大石誠之助は大逆事件の「新宮グループ」の一人として処刑されますが、(1911)。1921年に、男女共学の自由主義教育を目指して東京に進出し、学園を創設しました。二人を繋ぐ不思議な巡り合わせといえます。


 石垣榮太郎やアメリカンシーンの画家達を語ることは、アメリカや日本の20世紀初頭の歴史を語ることとなり、私の力量では及ばないことです。それでも、ここには現代の私たちが直面している様々な問題とシンクロする内容がたくさん含まれていると思います。また、石垣個人の創作活動の特徴にも充分触れる事も出来ませんでした。大変中途半端な内容ですが、感想めいた事を、書かせていただきました。 


岡田 毅 おかだたけし (日本美術会)

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コメント: 1
  • #1

    松林良政 (水曜日, 09 3月 2016 08:31)

    文中に登場するベン・シャーンも、パリに行ったものの
    疑問が残って合衆国に渡ってジャーナーリストの視座の絵画(ジャーナルアート)という形で社会との繋がりの強い具象絵画を発表します。民衆と共にある生活の中から描かずには要られないという精神が、石垣絵画展評を読んでいて思い出されました。