新美南吉と絵画

童話「ごんぎつね」の作者 新美南吉
童話「ごんぎつね」の作者 新美南吉

※美術運動141号(2014年3月発刊)


新美南吉という作家をご存知だろうか。童話「ごんぎつね」の作者として知られ、日本児童文学界では宮沢賢治と並んで評価の高い児童文学者である。

 その南吉が、昨年、生誕100年を迎えた。ふるさとの愛知県半田市では一年を通して記念行事が行われ、これを機に南吉文学を題材にした朗読、演劇、音楽、絵画などの表現活動の動きも全国に広がった。南吉自身、その関心は文学のみならず芸術全般に向けられていたので、表現する側としてもいろいろと接点があるのだろう。そうした芸術の中から、南吉と絵画の関わりについて、彼の生涯と共にご紹介したい。

 南吉は、1913年7月30日、愛知県知多郡半田町(現・半田市)で畳屋を営む渡辺家に生まれた。4歳で母を亡くし、8歳で母の実家である新美家へ養子に出される。そこで血の繋がらない祖母と二人きりの生活を送るが、寂しさに耐えられず半年足らずで渡辺家に戻っている。こうした寂しい子ども時代が、「ごんぎつね」をはじめ、悲哀と愛をテーマにした数々の作品に影響を与えたことは想像に難くない。ちなみに養家の建物は、現在、公益財団法人かみや美術館の分館として保存公開されている。かみや美術館は半田市内にある私立美術館で、故神谷幸之氏が集めた北川民治をはじめとする豊富なコレクションで知られている。空家となり、荒れ果てていた養家を買い取る際、神谷氏は北川民治と語らい、民治の作品をリトグラフにして売ることで資金を集めたという。

 

 1926年、南吉は半由中学校(現・半田高等学校)に入学し、2年生の頃から童謡や童話の創作を始める。当時描いたものとして乃木大将の鉛筆画が遺っているが、なかなか特徴を捉えていて

絵心があるといっていいのではないだろうか。

 

 中学校を卒業した1931年には、一学期問だけ小学校の代用教員をしている。この時期から雑誌『赤い鳥』に作品が入選するようになり、「ごんぎつね」も岩手県出身の童画家、深沢省三の

挿絵がついて1932年1月号に掲載されている。

 

 この頃、南吉は生涯の恩人となる巽聖歌と出会っている。聖歌は北原白秋門下の詩人で童謡「たきび」の作者として知られる。南吉は彼の薦めで東京外国語学校に入学、1932年春から東京での生活が始まる。学生時代の南吉は、毎日のように聖歌の家を訪れ、創作の指導を受けたり、食事をご馳走になったりしているが、そうした彼を優しく迎えてくれたのが夫人の野村千春

だった。

 千春は長野県出身の画家で、中川一政の内弟子として絵を学んだ。南吉も絵のモデルになったり、彼女が属する春陽会展を観にいったりしている。画家が身近にいたことで、東京時代の南吉は絵画への関心と知識を大いに深めていったことだろう。しかし、東京での生活は次第に南吉の体を蝕み、とうとう外語を卒業した1936年の秋に血を吐いて倒れてしまう。やむなく帰郷した南吉は、小学校の代用教員や飼料会杜の社員を経て、1938年に愛知県立の安城高等女学校に英語の正教員として採用される。

 

 女学校が発行していた『学報』に「私の世界」と題された南吉の随筆が遺されている。そこで南吉は、学生時代に訪ねた童画家の武井武雄を引き合いにして自らの心の世界について述べているが、その世界を形作るものとして、フィリップやアンデルセンなどの作家と共に、シャガールやマチス、モジリアニ、セザンヌ、梅原龍三郎、中川一政、小杉放庵などの画家の名を挙げている。南吉の絵画への関心の高さがうかがえるだろう。

 

 女学校に就職したことで生活が保証され、精神的に安定した南吉は、教員生活の傍ら創作にも励み、1942年に第一童話集『おぢいさんのランプ』を上梓する。巽聖歌の世話によるもので、

挿絵と装禎は棟方志功が担当した。聖歌から「サシエ、ムネカタシコウイカガ」という電報を受けとり、「棟方志功ならすばらしいと思ってサンセイのむね返電」したと日記に記している。志功の絵で飾られた初めての童話集を手にして、南吉はどんなに嬉しかっただろう。しかし、ほどなくして結核が悪化、1943年3月22日に還らぬ人となる。まだ29歳7か月だった。病と闘っていた1月18日、南吉は自伝的な小説「天狗」を書き始める。絶筆となったこの作品で南吉は、自らを画家に、童話を絵になぞらえて次のように語っている。「私は、蛍を見ると、自分の絵に似ていると思います。蛍をとりまく闇黒を現実にたとえるならば、蛍が、それをたよりにして生きている、あのかすかな青い火は、蛍の夢でなくて何でしょう。世の中に蛍に心をひかれる人があるうちは、私のようなものの描いた絵も、誰かに、静かに愛されてゆくだろうと思うので

す……」

 

 芸術家が自分の世界を表現するという点では、文学も絵画も同じである。優れた絵画が時代も国境も超えて愛され続けるように、自らの童話も多くの人に読み継がれてほしい。そう願った南吉の「夢」は、生誕100年を迎えた今、多くの南吉ファンや子どもたちによって叶えられようとしている。


遠山光嗣 とおやまこうじ(新美南吉記念館学芸員)