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現代日本の課題に応える美術の創造

日本美術会 理論部研究会(2015年6月15日、於:京都)での発表の要旨 

上野 一郎

 

1)現代日本の課題への取り組み

 今日の日本の美術状況には、例えば次のような特色が見られる。美術の優秀さは、相変わらず技術的観点におかれることが多い。また諸画材、人工品、自然も用いた制作、作品提示の工夫、新テクノロジーやコンピュータの応用など表現技術の拡張が見られる。それらは表現の技術的多様化だが、新技術の導入は従来からも石器時代の顔料から19世紀のチューブ絵具、岩面からカンバス画へなど従来からも続けられてきていることであり、それは時代に即して当然だ。ジャンルとしては、タブロー画、彫塑、工芸などが存在している一方で、インスタレーションや美術を視覚に限らず聴覚や身体行動や言語などと提携させる制作が見られる。サイト・スペシフィックとして、自然や生活の場がアートの場となることもある。極端に言えば何でもアートの場で、菓子も生活様式についてもアートが語られる。

 質の面では従来のハイアートのカテゴリーだけでなく、エンタメやゲーム、マンガ・アニメ性、“可愛いい”やフィギュアー、フラットさ等サブカルチャー性などが取り入れ、この日本のサブカルチャーは、グローバル化されている。ただこれは、フラットな表層に浮遊させる効果を及ぼしている。美術の技術的、領域的、性質的な多様化は、従来の表現方法では表しきれないテーマや感性への対処とも見られる。

 多様な質がアートに取り込まれるのは、質の種類の量的な増大とも言える。美術の量的な増大も、今日質的な向上をもたらして欲しい。しかしそれは自動的に機械的に、向上して行くものではなく、それに関わる特に制作者が押し上げる、この人間的な活動が必須な条件だ。北野氏の話に出るように多様を尊重しながら多元的に向上を探求する方向が、自由な展開で民主的な探求だと思う。

 自由と言ったが、現実には社会的に差し障りがないと見られる美術以外は、その発表がしばしば壁に突き当たる。当然、政治的や風紀的に有害とされるものには規制がかけられる。また美術館などでは制度的な規制もある。これは日本美術会の常任委員会でも話題となった。また作田知樹氏は、近年に美術が規制を受けたり自粛したり、企業や市民からの強い抗議を受けた10の代表的な事例を紹介している。

 

2)美術における真実の開示

 美術は色も含めて形象で示し、形象が全てを担う。また美術は仮象だ。仮象はリアリティを表すこともできるが、ただの空想的な幻惑であることもある。かなりの広告がそうだ。我々は美化やデフォルメを否定はしないが、ただ飾るだけや誇張ではなく、正しく真実を伝える美術を求めたい。ところで美術の表す内容には、表層的な内容より奥の内容まで、レベルがある。例えばゴッホの描いた靴は、くたびれた靴の形象だが、それを超えた深い感銘を与える。芸術は仮象で奥深い真実を表し出せる。

 傑作と言われる美術は、人間的な真実を顕しているとも言われるから、偽りなき真実を開示し心に触れさせるのは質の高い美術の性質だ。価値ある美術とは、表面的な形を超えて核心的な意味内容として真実を、感性を揺るがすように把握させる形式を持つものだ。そうした美術は、特に意義を感じさる。我々が求める美術は、このような深い真実や意義を伝える仮象だ。美術はこうした伝達、メッセージ性を持っている。

 真なるものは、しばしば表面に現れていない。この隠れたものを見出すとは、覆いを剥がすことなので、ある哲学者が真実を意味するアレーテイアというギリシア語を援用して、真実とは覆いを取ること、開示であり、露わに出すことだと論じたことを連想する。たしかにアレーテイアとは、覆いを剥がすことからきている。英語での発見、discoverもカバーを剥がすことだ。マルクスは交換価値には、労働時間が隠れていることを発見した。発見は新たな視野、切り口を見せ、また喜びだ。アルキメデスも風呂に入った時に、溢れる水を見て比重を調べる方法を発見し、喜びのあまり裸で街を走ったという。そして美術表現でも真実の開示に発見的な新しさや感動が伴うと良いと思う。

 ところで一般に内容は表れている形式を通して知られる。しかし形式と内容は別のものだから、形式が内容を隠すことは、「上げ底」「結婚詐欺」などで知られている。美術も美化したり、偽装したりできる。形式が内容と乖離していることはある。しかし我々は、形式が内容と乖離していない美術的表現を目指す。

3)美術と理論の関わり

 美術を理論的なものが主導した例には、どのようなものがあるか?

 新印象派はゲーテやフランスの学者シュヴルールの色彩理論を参照した。1924年にシュールレアリスム宣言を起草したブルトンなどが提唱したシュールリアリズムとか、ソ連邦で提唱され〈社会主義リアリズム〉は,「現実をその革命的発展において,真実に,歴史的具体性をもって描く」方法であり,その際,「現実の芸術的描写の真実さと歴史的具体性とは,勤労者を社会主義の精神において思想的に改造し教育する課題と結びつかなければならない」とされていた。これらは、理論やイデオロギーが主導したと言ってよい。

 しかし美術は理論が主導するものだろうか?無論、美術は何らかの概念なしには出来ない。またコンセプチュアルアートは概念を芸術の中心的な構成要素とまでした。ところで理論や概念体系が主導する美術に創造性があるとしても、日本美術会の理論部はそのような理論を提示できるだろうか?作家は理論家に役割を期待する。また美術理論家はよく美術評論家と言われる。しかし理論家でもなかなか批評家にはなれない。批評家にはジャーナリストと解説者風な活動様式も必要だ。でも美術史家は一般に、作家の仕事の後を辿って過去の事例を解説する。それに意義のあることもあるが、多くは作家の活動を跡付けるだけだ。また美学研究者は、哲学的など理論的な考察をし、その理論は一般論的だったりかなり抽象的なことが多い。また理論家の才能や能力には限界がある。ともかく美術史や美学理論と批評とは違う。とはいえ両者は近い関係にあり、特に日本美術会の趣旨に賛同する理論家は、知識や思考から制作実践への参与として批評にも携わる努力が必要だ。しかし批評は占いではないので、未来の予想を言い当てるものではない。また課題に答える指南書を作成できるのではない。


4)課題に応える美術   美術の楽しさ

 今日の美術家は特に課題なしに制作する面があっても、美術家たちは従来から課題に応えても制作して来た。肖像、歴史画、宗教画など、色々な注文では発注はかなりの場合、芸術外の用途で、ニーズに応じた制作であることを避けて通ることはできない。それらは目的美術である。美術は何らかの目的を有している。また美術は他の人々や自分のためでもあり、これも目的だ。だから課題に応える美術と言うときには、実に目的的な美術であることを承知しなければならない。美術から無理して社会的功利性を排除する必要はない。一般に人々は芸術至上主義の影響から、美術の純粋性の観念にあまりに引っ張られているところがある。また美術は、自覚していなくても、純粋美術も含めて何らかの目的に奉仕する。少なくとも何らかの仕方で社会で役立つ。だから問題は、何に役立つとか何のためか、誰のためかということだ。

 一般的に言えることは、特定の目的に奉仕する美術も、それが人間の普遍的な目的につながっている時には、高い評価を得、優れた芸術性があるとされる。だから我々が目指したいのは、芸術外の目的に思えても、社会的な目的があるわけだから、その目的を芸術的に消化すること。そのためには、目的に対し想像力、創造力を十分に発揮させたいし、自由な表現の範囲を広く見渡したい。

 我々のテーマに参考になるかも知れないと思い、近代で美術が反戦や平和などをどのように表してきたかの例を、掻い摘んで見てみる。殺戮のシーンが感銘を与える作品として、ゴヤの「1808年5月3日 プリンシペ・ピオの丘での銃殺」がよく挙げられるが、それはスペインに対する外国軍隊の侵略・凶暴さを描いたものだから、我々の求める創造に直接には参考になるというわけではない。しかし「5月3日」は、暴力が愛国を圧殺する悲痛への共感から勇気ある抵抗への連帯感を今日でも起こさせるし、マネの「皇帝マクシミリアンの処刑」やピカソ「朝鮮の虐殺」や石野泰之氏が日本アンデパンダン展に出された「追悼の譜I、II」などに見られるように、その形象や表現技法の一部はしばしば取り入れられる。またパリ・コミューンの絵は、民衆の戦いを描いて共感を呼ぶ。ドーミエの版画「トランスノナン街」やマクシミリアン・リュスの絵「1871年5月のパリのある街路」は殺された市民たちの情景で、パリ・コミューンの絵にはこうした市民の死の絵が多く、肯定的な情景ではない。それらは人民を弾圧する売国権力への怒りを起こさせるが、そのためには一定の説明が必要だ。言語をイラストする美術も歴史的にあるのだから、美術は純粋に造形だけの表現に限ることもなく、言葉を付け加えることが否定される理由はない。

日本のプロレタリア美術は大半が労働者の姿やその闘争をテーマとしていた。確かに、反戦や平和を主題にしたものが無かったわけでない。それらは大体、漫画、戯画的な表現だった。社会主義リアリズムでは、反戦平和のテーマよりも労働者の賛美や祖国戦争が主なものになっている。我々が訴える今の大衆や若者に対しては、これら表現の今日化をしなければならない。ピカソのゲルニカは、スペインでの内戦の悲劇というよりは現代美術としての評価から重視され、やがてファシストの残忍さに対する反戦や抵抗のシンボルとなっていった。その画面はやはり負のイメージ、戦争の惨禍を見せている。日本で戦災の犠牲を描く反戦画としては、丸木位里の原爆の図や、「はだしのゲン」など、多くの反戦平和の美術が存在する。

 それらの美術表現は、我々に参考になるし、今後も参考になり続けるだろう。しかしながら、喫緊な日本の危機の特徴には、戦争の悲惨さ、マイナス/否定面を表して、それ否定する面、いわば禍を転じてプラスに導く形象よりも、今日の若者などには少し異なった表現も必要。各地で平和美術展があり、様々な作品が寄せられている。穏やかな作品や明るく楽しい作品も多くあるようだ。楽しいのはとても良いことだ。芸術や美術には、楽しさの魅力が必要。芸術は遊びに近いとする美学者もいる。すべての美術にこの性格を求めるのではないが、快楽は芸術の一の要因である。

 現代アートの推進者には、「<歴史>や社会、人の生き方を、アートを通して<問いかける>こと。」「大まかに定義すれば、現代社会の情勢や問題を反映し、美術史や社会への批評性を感じさせる作品のことを現代アートと呼びます。作品テーマと現代社会とにどれだけ接点があるかがポイントです。」という人もいる。また韓国の光州ビエンナーレは、5.18光州民主化運動の民主精神を受け継ぎ、その町から新しい文化的な価値を国際的に発信していく現代美術の場として始まったとされているが、どのような作品が集まってきているのだろうか?政治的な規制などで作品の撤去もあったと伝えられている。私は現代アートには、社会的関心をテーマにしたものがかなり多くあると思っている。たしかに現代アートは資本主義の文化に包摂され、取り込まれているのは確かだが、我々は現在に生きる者として、同じく現代に生きているアーティストたちの特に現代美術と言われるもの評価の意見交換や議論は大切だ。


5)今日の危機   問題意識の基底には人間性

 今日政府が導入せんとする危険が迫っている。しかしまだこれを認識しない若者や大衆が多くいる。危険に気付きかけても誤魔化され、メディアの抵抗力が落ちている。政治的・歴史的認識の薄弱な若者に、黒を白と言いくるめるアジテーションが誘導すれば、間違った判断をするだろう。これは若者に限らず、かなりの国民にも言えることだ。一般に人々は、見かけにかなり引きずられる。でも平穏で平凡な生活にも、知らず識らずのうちに破壊の影が忍び寄ってくる。

 ギュンター・グラスの代表作「ブリキの太鼓」では、普通の何気ない市民生活の中にひたひたと浸透するナチスの到来の中で物語が進行する。やがて人々はナチスの姿や宣伝に慣れていき、ナチスの環境が日常的となっていった。ナチスは前衛傾向の美術を退廃芸術として弾圧し、いわばアカデミックな美術を推奨した。彼らが退廃芸術とするのは、自由に表現し、秩序に反抗する美術だ。平和の装いに隠れて軍事的な増強が進む。そこでは欺瞞の言説が繰り返され、偽りの文化や当たり障りのない文化が奨励される。「嘘も百回繰り返されれば真実となる」とのもとは、ナチスのヨーゼフ・ゲッベルスらしい。彼が言うには、「プロパガンダの秘訣とは、狙った人物を、本人がそれとはまったく気づかぬようにして、プロパガンダの理念にたっぷりと浸らせることである。いうまでもなくプロパガンダには目的がある。しかしこの目的は抜け目なく覆い隠されていなければならない。その目的を達成すべき相手が、それとまったく気づかないほどに。」とか、「報道機関はもはや敵ではない。報道機関は、政府と共同作業を進める。政府と報道機関は、今日ではそもそも運命共同体である。」ともに言っている。今日の安倍政権のメディアの取り込みについては、よく知られている。

 課題に対処する美術に向けての話をしているが、一般の様々な美術が否定されるのではない。平安な生活の中で育まれ宿る情愛の情緒、人や生活環境や、自然への愛情は深く強く、そうであるべきだ。これは先ずストレスのないやすらかな情緒であるが、それは保持、守りから抵抗、戦いへと進む芽を宿しており、問題意識を持つ根底でもある。平和の大切さ、命の大切さの表明は、広く共通のテーマであり、優しい力強さだ。私はそうした表現の豊かさとアッピールの増大を願いはする。人間的な真実を開示するのも質の高い美術の性格だ。美術という性質に当てはまるものは広い。一輪の花、静かな風景画を表す気持ちを支える愛情、命や人間性をめでる感性は、その優しさが平和を求める心情につながっている。このように人間的な情感が問題意識を起こさせる基にある。課題意識も、優しい人間性の尊重から発している。

 しかしながら優しい人間愛の制作には、静かであれ強いものであれ、感動的なものを望みながらも、暴露とか今日の課題に応える直接的なアッピールが弱いと思われる。またその様な美術では、よほどの才能が携わらない限り、新しい価値の創造に向けての可能性が薄いままで、伝習的な表現に留まる。

ともあれ、現代日本の課題には、健全な人間の感性と思想を広く深く根底に踏まえながら、重要な課題に集中的に対処していく美術的方策を考察していくことになる。


6)虚偽を暴く美術   告発する美術のために

 日本美術会のメンバーの意識すべき現在の最重要な課題とは、危機に曝されている反戦平和であり、戦争法案反対、憲法改悪反対が喫緊な課題だ。

 テーマを新しい価値の創造とか現代日本の課題に応える美術の創造とするときは、今はいろいろなテーマに総花的に対応するのでは無く、私は日本美術会の作家には喫緊のテーマに意識を集中的した制作を望みたい。今日の政府の虚偽を告発する美術は、社会的に求められるだけでなく、美術的にも新しい価値の創造につながる有力な道ではないかと思う。この告発の制作には最も意欲が高まる筈だと思う。難しいけれどやりがいのある仕事だと思う。

 真実を顕し自由な表現をするのが美術だから、今特に叶っているのは虚偽を暴く美術だと思う。しかしそうした表現の創造はそう容易いものではないだろう。美術はメッセージを伝達するが、美術は政治でもないし裁判でもないから、告発といっても直接的でないことの方が多い。その分、美術的インパクト、間接的でも波及性が、抽象による広い伝達があり、また造形的な楽しさが増す。

 私は、次にあげて見る例にヒントみたいなものを感じる。

美術には目的があり、メッセージの伝達機能もあるから、プロパガンダ美術も美術の一形態だ。そして今日の危機をあぶり出しにする美術には、プロパガンダ美術があっても良いだろう。今日の社会にあった新しい形でのプロパガンダ美術が求められる。しかしかつてのプロパガンダ美術を模したものも、レトロは今は人気があるから受けるかもしれない。受けるだけでなく、そこから新しい表現が生まれるかも知れない。

 昨年福岡市美術館では「告発する美術」として池田龍雄を取り上げ、続いてジョージ・グロスとオットー・ディックスを展示した。この例のように、告発的な美術としては前衛傾向で具象的な美術が表現に適しているようだ。しかし彼らは、前衛といってもかつてのアヴァンギャルドだ。前衛の意識は、新しい価値の創造を目指す我々には必要だ。しかし前衛は、かつての前衛のスタイルや概念に習うだけのものではない。もっと広く、自由に表現と手段を探求したいものだ。

我々が目指す美術的な新しい価値の創造には、未来を担う若い世代を意識して探求するのが一つの手がかりとなるだろう。現代の若者たちの感性に対しては、例えば意気がるより肩の力を抜いたアヴァンガルドがあっても良いのではないか。

 新しさに関しては、美術にも発明発見的な新しさや独創性は重要だ。しかし20世紀にはオリジナリティーを皮肉るような制作やハイパーリアリズム、また過去の美術品の模倣をアートにするオリジナリティなどもある。美術はもともとそして今でも模倣、ミーメーシスだから、モダニズムの美術理論のように個性とかオリジナリティーに対するこだわりをなくすと、制作は楽になるのではないだろうか?でも、新たな表現を求めては行きたい。新たなと言ってもただ新機軸を出すのでもなく、また新規な内容を込めることでもない。告発内容は、すでに知られている内容であっても良い。

 新たな探求には、あらゆる素材、技術の可能性に目を向けるべきだ。あらゆる可能性というときには、コラボレーションも考えられる。我々は美術制作は一人での仕事と思いがちだが、共同しての開発はどうか?

 美術だけでなく他のジャンルの芸術も、参考になる。

野田秀樹の演劇作品「エッグ」には、旧日本軍の第七三一部隊と細菌兵器なども出てくるが、スポーツと音楽がつねに権力によって利用されてきたこと、そして満州国のような大きな虚構が崩れるときには、その犠牲となった難民が長い旅を強いられることなどが表されている。この難民の「無念」が胸に迫るという人もいるが、とても面白い。彼の最近の「フィガロの結婚」の台詞の中には、「嘘の糸で紡いだ言葉」という語句がある。言語ではこのように告発ができる。嘘の糸とは、比喩、メタファーだが、メタファーは美術でもよく使われる。また寓意/アレゴリーも美術でもよく登場する。これらは、古来よく人に訴える表現技術だ。比喩は見えないものを見えるようにもする手段だが、こうしてみるとやはり具象性が訴えるのに適しているのだろうか?

でも告発の美術は具象的でなければならないと決めるわけにはいかない。抽象性なしには美術は成り立たないのだから、抽象的な美術で虚偽の告発性をもつ作品ができないとは限らない。

 格好良いとか、気持ちよく心に響く表現は、若者を惹きつける。そこで今では年配にも愛されているジョン・レノンの歌「イマジン」を、引き合いに出す。そのメロディーはポピュラーで快い調べだが、その歌詞も人々の心を打つようなので、みてみたい。そこでは、「Imagine想像せよ」と言っている理想とは裏腹に、美しさの中に現実(地獄、殺し、宗教、孤独、強欲...)が糾弾されていると思う。美しさの中に対比的に透けて出る逆イメージ、こんな表現は美術なら、どうなるのだろうか?イマジンとは、想像力を働かせよと言う意味だから、プラスの表現の中にマイナス面を暴きだす形象だ。またそのひとつには、相手の主張、嘘を逆手にとって、安全というものの裏を開き示す告発の美術もあるのではないか?あるいは、アルチンボルトの人物絵のように動植物などとの二重イメージも参考になるのではないか?いろいろな見立ての美術もある。...

 さて作品は、伝達されるために発表されなければならない。しかし政治的告発とか新しい表現には、美術館などでは発表に制約が掛かることがある。我々には、これら発表の自由さに対する困難を乗り越えていくことも必要だ。そして今話しているような緊急の課題への制作発表には、悠長に来年のアンデパンダン展などを待つ暇は無く、課題に特化した発表会がなるべく早く出来ると良いと思う。そしてこれが新しい価値の創造に向けてのとりあえずの突破口ではないかと思う。

 


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コメント: 2
  • #1

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